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主に倣う者の喜び (Ⅰテサロニケ1:1~10)

メッセージ
2020/06/07
富里教会礼拝説教
「主に倣う者の喜び」
(Ⅰテサロニケ1:1−10)

①テサロニケ教会の現状と書かれた背景
ここしばらく、私たちは使徒言行録からみことばの恵みをいただいていましたが、今日からは、新しくテサロニケの信徒への手紙に入ります。この手紙は使徒パウロがテサロニケ教会の人たちに送られたもので、2通あり、今日からはまずその一つ目の手紙。第一テサロニケ書に入ります。
テサロニケとは、今でいうギリシャのあたりにあり、当時のローマの属州マケドニアという一地区の首都でした。そのテサロニケはローマ東方諸国をつなぐ大街道に沿っていたため、通商上重要な地位として東西交通の要となり、全マケドニヤの母と呼ばれるほど繁栄した都市でした。また、それゆえユダヤ植民地、会堂もあったり種々雑多な人が住み、多くの民族と宗教とが共存していました。ギリシャ古来の神秘宗教、皇帝崇拝、ヘレニズムの哲学などが混じりあっていた。そんなある意味、最先端、オシャレで進んだ大都市がテサロニケだったわけです。
そのテサロニケでパウロはシラスという男と共に三週間かけて宣教をし、何人かのユダヤ人、神を敬うギリシャ人つまり大勢の異邦人が回心したことが使徒言行録17章に記されています。しかし、喜びもつかの間、そんな彼らをその地にいたユダヤ人たちがねたみ、暴動を起こしパウロたちはテサロニケ教会の人たちを残して難を逃れ、脱出したのです。生まれたばかりのテサロニケ教会は初めから厳しい苦難の中に置かれたのでした。
パウロはそんなテサロニケ教会のことが心配で、直接訪問して励ましたかったのですができず、代わりにテモテが遣わされました。そしてテモテはやがてパウロの元に帰り、信者の素晴らしい主に倣う模範的な生き方をしていることを報告したのです。彼らは良い地に撒かれたタネだったのです。聖霊の力によって苦難の中にあって喜ぶ者となっていました。パウロはその知らせを喜び、さらに励ますために、この手紙を書いたのでした。
これがまず執筆理由の一つです。そしてこの手紙を書いた理由はもう一点ありました。それはテモテに託された彼らの質問に答えるためでした。ユダヤ人の反対運動にさらされていたテサロニケ教会はパウロの慰めと指導を必要としていました。また、苦難の中にあって、終末への関心が高まり、その終末に対する正しい知識を必要としていたのです。特に死者の復活と再臨のときについてパウロの教えを求めたのです。パウロはこの手紙をとおしてそのいつか必ず来たる終末について丁寧に返答されています。
今日はその手紙の冒頭であり、苦しみの中にあって主に倣う者となっているテサロニケ教会の人たちへの喜びと励ましの部分になります。

②信仰、愛、希望
パウロは、この手紙の冒頭でまず、テサロニケ教会の人たちを思い起こして神に感謝していると喜びを表現しています。これは、先ほども言ったように彼らが、ユダヤ人からの暴動、迫害という苦難にありながらも、いや、苦難の中であったからこそ聖霊による喜びをもって、みことばを受け入れ、主に倣う者、すべての信者の模範となったからでした。
ではその主に倣う者の具体的な姿とはどのようなものでしょうか。それが信仰、愛、希望です。この信仰、愛、希望という福音に対する生きた応答がテサロニケ教会の人たちにあったのです。この三つの要素は相互に堅く結ばれ、神の恵みに生かされている者の現実として表れるものです。この三つの要素は他のパウロ書簡においても何度も出ていますが特に有名なのはⅠコリント書13:13の

「それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である」

という言葉でしょうか。ここでは賜物を誇る高慢なコリント教会の人たちに対して愛が強調されています。しかし、このテサロニケの手紙では迫害の中に苦闘する人々に主イエスの再臨を中心とした希望が特に強調して語られています。最も優れているのは確かに愛でしょうが、その教会の状況によって特にどの要素が必要かということが変化することはあるでしょう。この信仰、愛、希望は分かち難く繋がりながらもそれぞれが影響しあうものではないでしょうか。ここではその三つの要素を一つずつ見てまいりましょう。
まず一つ目は「信仰による働き」です。信仰と働き、行いは対立せず、実はむしろくっついて離れないものです。パウロは救いは信仰から来るものであり、行いから来るものでは全くないと主張します。この信仰義認という教理は聖書の根幹の部分で私たちプロテスタントに連なるバプテストにとっても、とても大切にしてきたものです。
しかし、パウロは、救いは全て神からのものであると主張しますが、信仰が生きて働くものであることも強調しています。信仰は働きを通して現れるものなのです。信仰なき働きは本物ではないこともまた聖書が語る一面です。ヤコブ書2:17には
「行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです。」
と、大変厳しい言葉が記されています。信仰によって私たちは救われていますが、その恵みへの応答としての実が果たして自分にはあるだろうか。そういった吟味はとても大切なことだと思います。
二つ目は愛の労苦です。この「労苦」を意味するギリシャ語はそもそも、艱難、絶え間ない苦難を意味します。神様の愛で人を愛そうとするとき、実はそこには必ず犠牲、痛みが伴うものです。愛するということは並大抵のことではありません。自分を捨てて、相手のために生きる愛なのですから。それがイエス様の十字架の愛、報酬を求めず常に与える神の愛です。
普通であればいつかは枯れてしまう限界のある人間の愛ですが、クリスチャンにおいてはこの神の愛が信じるものの中に注がれて力となり、自己否定を通して他者のための労苦となって日常生活の中で現実化するのです。そしてそこには不思議と喜びがあるのです。
そして、最後に三つ目が希望による忍耐です。この希望の対象は、目に見えるわかりやすいものではなく、今は見えない主イエスの再臨と堅く結ばれているものです。特に迫害の苦難にあったテサロニケ教会の人たちにとってはこの希望が何よりも大切だったでしょう。苦難にあっても、この希望に立つことによって積極的な確信に満ちた忍耐が可能になるのです。これは決してやせ我慢ではないのです。ローマ8:25にはこう記されています。

「わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。」

③神の選び
パウロはこのように、テサロニケ教会の人たちのキリスト者の模範のような姿を喜び、感謝しました。いったい誰に感謝したのでしょうか。ここが大切なポイントです。それは神様に感謝したということです。教会の人たちの頑張りに感謝したのではありません。これは彼らの成長は神様の恵みによってなされたということを表しています。確かに彼らの努力もあったでしょう。しかし、それも含めて神様の恵みなのです。その実りをみてパウロはテサロニケ教会の人たちに「あなたがたが神から選ばれたことを私たちは知っています。」と神の選びがそこにあることを確信しています。自分の力ではない。神様に選ばれているからこそ、そこには豊かな実が結ばれるのです。
そしてそれは、「言葉だけによらず、力と、聖霊と、強い確信」とによってなされるものです。言葉という知性だけではなく、心に深く入ってくださる聖霊。その二つが働き、つながることによって強い確信が生まれ、主イエスを救い主と告白することができるのです。信仰を告白できるということこそが神に選ばれているという最高のしるしなのです。

ヨハネ福音書15:16
「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。」

私たちは、クリスチャンの信仰とは人が神を選んだのではないということを深く知らなければなりません。それが、私たちの信仰に揺るがない確信を与えます。よく考えてみてください。もし自分で考えて選んだというのであれば、そんな信仰は非常に不安定です。考えが変わればあっさり捨てるでしょうし、ずっと信仰を保ち続けられるだろうかという不安が残るでしょう。しかし、この信仰は全知全能の神様が私を愛し、選んでくださったゆえに与えられた恵みなのだと知っていたらどうでしょう。これほど盤石で堅固な根拠はありません。どんなに小さく弱い信仰かもしれないけど大丈夫。必ず実を結ぶ。だって、神様が私を選んでくださったのだから。神の恵みに心から感謝いたします。
しかし、ここで一つの疑問が湧くこともあります。それは「じゃあ、選ばれない人もいるってこと?」という疑問です。その質問に対して聖書は明確に語ってはおりません。ですのでそれ以上のことはわかりませんし、誰が選ばれて誰が選ばれていないかを考えることはもはや神の領域に踏み入ることになるので控えるべきでしょう。
しかし、主は全ての人を救いたいと願われていることもまた聖書は明確に語っています。一見矛盾に見えるようですが、どちらもまことの神のことばと成立しています。それはもう人間の理性を超えたものと言って良いかもしれません。それゆえ聖書はまことに神の言葉、神の啓示といえるのです。
すくなくとも、この場で今、聞いている皆さんは間違いなく神様に選ばれ、招かれているのです。その事実を受け入れ、認めるだけなのです。このプレゼントを受け取っていない方はどうか受け取っていただきたいと願います。

④苦難の中から生まれる喜びと成長
このテサロニケ教会の人たちは神の恵みによって主に倣う、信者の模範となりました。では、それはいったいどのような環境の中で成長したのでしょうか。それは「苦難」です。冒頭でも言いましたがテサロニケ教会は設立当初から、ユダヤ人からの迫害という苦難の中にいました。しかし、その中であるからこそ聖霊による喜びをもって御言葉を受け入れ、成長していったのです。人はどん底で神と出会うのです。暗黒のような、真っ暗闇の中だからこそ燦然と十字架の光は輝くのです。神の祝福とはときに実に分かりづらく、苦難の中にこそあることがあります。

ローマ5:3−5
「わたしたち知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。」

苦難は希望へと至る道なのです。また、他方で希望があるからこそ、厳しい苦難にも耐えられる。そうとも言えるでしょう。そして、その成長に不可欠なものが「聖霊による喜びをもって御言葉を受け入れる」ということです。私たちで言えば日々のデボーションと言えるでしょう。

⑤希望とは?
苦難を乗り越えるのには希望が必要。では、その希望とはいったい何なのでしょうか。それは今日の箇所の一番最後に書いてあります。
「この御子こそ、神が死者の中から復活させた方で、来るべき怒りからわたしたちを救ってくださるイエスです。」

神の御怒りであるさばきからのイエス・キリストによる救い。永遠の死から免れ、永遠の命へと。これこそが希望の根幹であり、この世に二つと無い唯一無二の希望であります。どんなにつらく、厳しく苦難の中にあっても最後には必ず永遠の喜びが待っている。決して消えることのない揺るがない希望がある。その希望を見上げて初めて私たちは忍耐することができ、その忍耐そのものが希望へと続く道なのです。
来るべき怒り、神の御怒りと聞くと「え、怖い、神様って愛じゃなかったの?」と思う方もいるかもしれません。しかし、神の御怒りであるさばきがあることは聖書に明確に記されています。現代の教会においては神のさばきという厳しい面を語ることが避けられる傾向にあると言います。ですが、その厳しさを踏まえてこそ、神様が私たちに出した結論がイエスキリストの十字架の贖いによる救いであることの重さ、深さが染み入ってくるのです。
神様は私たちをさばきたいのではありません。救いたいのです。そこを忘れないでください。今もずっとずっと一人でも多くの人が救われるように忍耐してそのさばきの時を待っていてくださっているのです。私の元に帰ってこいとずっと声をあげておられるのです。
Ⅱペテロの手紙3:9で
「主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。」
と書かれてある通りです。

この非常に人格的な神様が私たちの信じる神様なのです。人が木や、鉄で作った死んだ偶像の神ではない。このお方のみが生ける唯一のまことの神様なのです。

⑥主に倣う模範とは
さて、そのまことの神である「主」に倣う信者の模範とはどのような姿だったでしょうか。聖書の知識がいっぱいあって、真面目で勉強熱心。そういうことではありませんね。もちろん、真面目で勉強熱心であることは素晴らしいですが。また、清廉潔白、間違いや不正を決してしない。これも素晴らしいことですが、この箇所ではそうは言ってはいないような気がします。
主に倣う模範の根幹はやはり、信仰、愛、そして希望。この三つでしょう。信仰によって生まれる主体的な行い、自らを顧みず相手のために生きる愛の労苦、そしてどんな苦難にあっても踏みとどまる忍耐を生み出すキリストの救いの希望。この三つが相互に固く結ばれ、影響しあい、練られる中で生まれる喜びに包まれた者こそ、積極的にキリスト者として生きる者。まさしく主に倣う者ではないでしょうか。そして、その成長には必ず御言葉と聖霊が共にあるでしょう。また、時に苦難はその成長を強めるものともなります。
苦難の中にあってもキリストと共にある喜びの中、成長し主に倣う模範とまでいわれるようになったテサロニケ教会の人たちのように、私たちも神様からいただいた信仰、愛、そして希望を携えて、日々御言葉に養われつつ聖霊に祈り求めながら、喜んで生きてまいりましょう。

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