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主に信頼せよ (詩編37・1~8)

メッセージ

2010年8月8日富里教会
「主に信頼せよ」
(詩編37:1~8)

1. はじめに

近年、不条理なことがそのまま通ってしまったり、不正が放置されている事件が後をたちません。特に、日本のように「真の神」を知らない国民ですから、何をどう判断しどう行動していいか解らないのです。また、最近は高齢者の方の所在が、解らないという事件も起こっています。隣組、町内会といった昔風のコミュニティがなくなってきました。人と人の交わりや関係が希薄になりつつあります。そういう意味では、高齢化社会における教会の働き、地域の生活を通してのスモールグループの働きが、よりいっそう求められる時代ではないでしょうか。

今朝は、そういうストレスの多い社会にあって、一つは「心をいら立たせてはいけない」ということ。二番目は「どこまでも主に信頼すること」。三番目は「たとえ倒れても、どこまでも主が支えて下さる」という三つの点についてお話したいと思います。

2. 心をいら立たせてはいけない

「悪事を謀る者のことでいら立つな。不正を行う者をうらやむな。
彼らは草のように瞬く間に枯れる。青草のようにすぐにしおれる。
主に信頼し善を行え。この地に住み着き、信仰を糧とせよ。
主に自らをゆだねよ。主はあなたの心の願いをかなえて下さる。
あなたの道を主にまかせよ。信頼せよ、主は計らい、
あなたの正しさを光のように、あなたのための裁きを、
真昼の光のように輝かせてくださる。

沈黙して主に向かい、主を待ち焦がれよ。
繁栄の道を行く者や、悪だくみをする者の事でいら立つな。
怒りを解き、憤りを捨てよ。
自分も悪事を謀ろうと、いら立ってはならない。」  (詩編37:1~8)

何か、世の中、悪いことをしている人の方が、幸福そうに見える時があります。何で、こんな人がのうのうと生きているのだろうか。「神様、あなたは本当にいるんですか、神が存在するなら、悪人を裁いて下さい。悪いことをして、幸福そうにしている人々を何とかして下さい。信じた者がバカを見るなら、信仰した甲斐がないではないですか。」と憤慨する時もあります。

実は、サタンは、その悪しき人を通して私たちの心の中に、「いら立ち」や「うらやましい思い」を起こさせようとしています。そして次には、「怒り」を起こさせ、「憤り」を起こさせます。「憎しみ」「復讐」と続きます。そして、サタンの狙いは、最終的には私たちにも、同じように悪事を謀ろうという思いを持たせることです。つまり、悪人から攻撃される者も、悪を持って対抗しようとすることです。「目には目を、歯には歯を」という仕返しをしたり、その人に反撃したり追い出したりすることです。もしクリスチャンがそこまでやってしまうならば、もはやそれは、サタンの思う壺です。

この詩編では、サタンのやり方にうまく乗せられて、自分の中に悪の思いを抱かないようにしなさいと警告しています。「いら立つな」「うらやむな」「怒りを解きなさい」「憤りを捨てなさい」「自分も悪事を謀ろうと、いら立ってはならない。」と、何度もいら立ったりすることへの危険を、繰り返して警告しています。

私たちは、このような攻撃に出会った場合、反撃したり、復讐したり、策を練ったりせず、主なる神様にひたすら目を注ぎ、全知全能にして義なるお方に信頼することが大切です。また、この場を逃げ出してもいけないかも知れません。
とは言っても、長い間、そんなところにいると心も壊れてしまいます。善を行う気力もなくなってきて、その場を逃げたくなりますし、悪に染まって自分で反撃したり、悪事を企んだりしてしまうこともあるかもしれません。

3. 主に信頼せよ

では、そういう境地に立たされた時、私たちはどうしたらいいでしょうか。聖書には同じような言葉が、四つ述べられています。「主に信頼せよ」「主に自らをゆだねよ」「主にまかせよ」そして「沈黙して主に向かい、主を待ち焦がれよ」と言っています。自分の力で相手に報復したり、自分も悪事を謀ったりせずに、ただ、沈黙して主を信頼し、主にゆだね、主に任せ、主を待つことです。英語ではTRUST IN THE LORD、DELIGHT IN THE LORD、COMITT TO THE LORD、WAIT FOR THE LORDとなっています。

サタンは、私たちが神様に信頼しないように、何とか神様と私たちの間を裂こうとします。そして、自分の力で敵と戦い、自分の力で相手に打ち勝とうとさせます。たとえ、私たちが自分の力で悪に勝利したとしても、それは逆にサタンの思う壺でもあるわけです。

「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。」「悪に負けることなく、善を持って悪に勝ちなさい。」(ローマ12:19,21)との御言葉に立ち、主にどこまでも信頼して行きたいものです。

4. たとえ倒れても

最後に、この詩編の、真ん中ごろにも、大切な御言葉があります。それは、24節の御言葉です。「人は倒れても打ち捨てられるのではない。主がその手をとらえていてくださる。」という御言葉です。私たちは、時には悪を行なう者の手によって、罠にはまって失敗してしまうようなことがあるかもしれません。それでも主は、その人を決して見捨ててしまわないということです。必ず、主はその人の手をとって起こして下さり、再び立ち上がらせてくださるのです。「倒れても、その手をとらえていてくださる」のです。私たちが、倒れていても、その手をしっかりと主は握っていて下さるのです。決して主は手を離しません。

これは家内のあかしですが、私が伝道者になる決心をした時、家内は躊躇しました。将来に対するいろんな不安があったからです。その時の心境を、家内は「世の光」に載せたあかしの中で、次のように述べています。
「主人が、公務員という安定した仕事を辞めて、牧師になるといった時、私は、海の真ん中で、ボートの羽目板をはずされてしまったような不安を覚えました。なぜ、私はこんな不安を覚えるのだろう?私は万物を支配し、無から有を造り出す全能の主を信じているはずなのに・・・。私は主を信じている、信頼していると言いながら、心の奥底で、この世の物や地位や名誉や財産の方に信頼していたという、闇の部分があることに気がつきました。

そして、いったん決心して、主人について来たものの、まだ自分の心の中には100%、主に信頼していない部分がありました。神様は、その固い石を取り除くために、全てを主に任せてゆだねるよう促しました。やがて、病を通し、試練を通して、自分の力では立ち上がることができないほど落ち込んでしまった時に、私は、自分の力に頼っていたことを示されました。そして、この世のものに信頼していたことを、主に心から告白して、悔改めの祈りをしました。すると、その時、静かな平安と新しい力が湧きあがって来るのを覚えました。それが真に、自分を主に献げた瞬間だったかも知れません。」

こう書いて、最後に詩編37:23~24の御言葉を記しております。
「人の歩みは主によって定められる。主はその行く道を喜ばれる。たといその人が倒れても、全く打ち伏せられることはない。主がその手を助け支えられるからである。」。主を信じる時も、またクリスチャンになってからも、献身する時も、また信仰生活の中でどの道を選ぶかと決断する時も、主は常に私たちの道を定められておられます。主は、全てに時を与えて、全てのことを益、すなわちプラスにして下さいます。私たちは決して、どんな時にも打ち伏せられ、見放されることはありません。私たちが倒れていても、主の手は私たちを握っていて放すことはないのです。ですから、心をいら立たせず、主に信頼して主の備えた時を待ってゆきたいものです。          
                                            (岡田 久)

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