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主にしっかりと結ばれているなら (Ⅰテサロニケ3:1~13)

メッセージ
2020年6月21日富里キリスト教会
「主にしっかりと結ばれているなら」
(Ⅰテサロニケ3:1~13)
1.牧師の仕事

ところで牧師の働きとはいったい何でしょうか。何故私たちは牧師を招聘して説教の働きを委託するのでしょうか。教会の、そしてわたしたちの共同体の一番大事な働きです。この説教から毎週、命をいただき、一週間を生きて行くことができるのではないでしょうか。礼拝がない一週間を思い出してみてください。どこかフワフワ浮いているような、根無し草のような生活ではないではなかったでしょうか。日曜日にしっかりと主の前に出て、主を見上げて讃美をしてこそ、一週間の生活が始まるのです。今日こうして、神様の前に出ることによって、そして御言葉を新しく聞くことによって、生きる力と命と希望が出てくるのではないでしょうか。一週間のリズムが大事です。

牧師の働きは、宣教、すなわちこのみ言葉の宣教を通して、信徒一人一人の信仰を強め、励まし、養い育てることではないかと思います。そして時には、叱ったり、戒めたり、とがめることもあります。先生の話を聞きたくないと言って耳をふさぐ人もいるかもしれません。それでも愛と忍耐をもって聖書の御言葉を、神の御前で語り続けることではないかと思います。パウロはⅡテモテ4:1でこう言っています。「神の御前で、そして、生きている者と死んだ者を裁くために来られるキリストの御前で、その出現とその御国とを思いつつ、厳かに命じます。み言葉を宣べ伝えなさい。折がよくても悪くても励みなさい。」と。

つまり牧師の語るこの説教は、最後の審判を先取りしているのです。キリストは死者と生者を裁くためにまた来られます。その時すべての人、クリスチャンもそうでない人も皆主の前に立たせられます。その時にイエス様は何というでしょうか。「あなたを天国に入らせようか、どうしようか。」と尋ねられます。皆さん何と答えますか?クリスチャンも全員、主の前に立たされます。バプテスマを受けたから天国へと言うわけではありません。信仰とは、バプテスマの時だけの信仰ではないですよね。継続して信じていることが信仰生活です。み言葉を聞くことが信仰ですから、聞かないことは信仰を捨てたことと同じです。信じ続けること、聞き続けることが信仰です。(タラントのたとえ、10人の乙女のたとえ)

この日曜日の説教は、再臨の主の前で語られるイエス様の御言葉です。主の再臨の時の終末論的説教です。死者と生者を裁く方を前にして、その方の権威のもとで語ること、これが牧師の説教の本質です。そのためにわたしが招聘され、そして今、武井牧師がみ言葉を語るために新しく招聘されました。「御言葉を宣べ伝えなさい。おりがよくても悪くても励みなさい。咎め、戒め、励ましなさい。忍耐強く十分に教えるのです。誰も健全な教えをきこうとしない時が来ます。」(Ⅱテモテ4:2~3)とパウロは予告しています。いかがでしょうか、わたしたちはみ言葉を喜んで聞いていますか、それとも耳をふさいでいますか。

もう一度申しますが、牧師の働きは、この説教を通して、皆さんが最後の審判の時に、イエス様の前にしっかりと立てるようにすることです。信仰と愛と希望をもって、主の御前に立たせるために語るのが、牧師の働きである務めです。終末論的メッセージです。といいますのは、この手紙の各章の最後には、必ず再臨の主の前でのわたしたちの姿が述べられているからです。わたしたち教会員一人一人が、どのようにして主の再臨に際して、イエス様を迎えようとしているのか、そのことを各章ごとに述べています。(Ⅰテサロニケ1:10、2:19~20、3:13)

そして第4章13節からは、イエス様が天から降ってくときに、わたしたちがどのようにして主のもとに上って行くかが具体的にはっきりと描かれています。このように牧師の務めは、信徒一人一人が、信仰を強められ、聖められて、最後の審判の前に立ち、信仰をもって天に引き上げられてゆくように整えることなのです。そのために今朝は、わたしが立たされました。わたしが語る言葉は、単なるお説教ではないのです。死者と生者を裁く、主の前で神ご自身が語る神の言葉なのです。

皆さんは、毎週毎週、天国の門の入り口に立たされているのです。「あなたを天国にいれようか、どうしようか。」と問われているのです。皆さん、いかがですか。自信がありますか。主の前にしっかりと真実の心をもって立つことができますか?罪を持ったままでは天国に入れません。その罪をすべて、全部、今主の前に告白していますか?イエス様はわたしたちの罪を赦して下さったのです。ご自分の命を与えるほどに、その愛を示して下さいました。誰でも、今、今日、自分の罪を告白し悔い改めるならば、天国の門をくぐることができます。罪の告白なしには、誰も天国へは入ることはできません。

そして過去の罪の赦しと、未来の罪の赦しを先取りしたのが、あの主の晩餐式なのです。過去の主の十字架の贖いの業、そして未来の審判者である再臨のキリストの前で、今、わたしたちはその愛と赦しのしるしである晩餐にあずかるのです。再臨の主の前で告白するように、今、わたしたちの一切の罪を告白して、主の贖いの血潮にあずからせていただくことが、主の晩餐式です。主の晩餐式にあずかる時、わたしたちは天国の入り口に立っているイエス様と相対しているのです。

ですから深い罪の反省と罪の告白なしに、形だけパンを食べ、杯を飲むものは、キリストの死をもてあそんでいる、神を侮っているとパウロは言っています。主の晩餐式は、天国の入り口の門の前でのイエス様との面接の時なのです。そしてこの説教を聞く時に、わたしたちは主のみ前に立たされているのです。今は悔い改める時、恵みの時なのです。ですから、今と言う時に自分の罪を告白して悔い改めましょう、そうすればその人には天国の門が開かれます。

2.牧者の喜び

なんだか気持ちが重くなりましたね。再臨の主を本当に迎える準備ができているのだろうか、自分の信仰は大丈夫だろうかと不安を感じるのはわたしだけではないと思います。でも、そのような終末論的な説教をしているのがこのテサロニケの信徒への手紙です。この手紙にはパウロの感謝と喜びが、満ち溢れています。あなたがたが不十分だ、天国へ入ることは難しいとは一切書いておりません。むしろあなたがたの信仰と愛によって、励まされたと言っています。

「わたしたちの主イエスが来られる時、その御前で一体あなたがた以外のだれが、わたしたちの希望、喜び、そして誇るべき冠でしょうか。実にあなたがたこそ、わたしたちの誉れであり、喜びなのです。」(2:19~20)「あなたがたが主にしっかりと結ばれているなら、今、わたしたちは生きていると言えるからです。わたしたちは、神の御前で、あなたがたのことで喜びにあふれています。この大きな喜びに対して、どのような感謝を捧げたらよいでしょうか。」(3:8~9)

パウロはテサロニケの信徒の信仰の姿を見て、大いに喜び励まされています。そして、彼らこそわたしたちの喜びであり、誉であると言っています。また彼らが主にしっかりと結ばれていることが、わたしの生きがいだとさえ言っています。牧師の喜びは、そして牧師が立つも倒れるも、信徒一人一人がしっかりと主にあって信仰をもって立っていることだと言っています。ですから、パウロは今離れている間も、あなたがたの顔が見たい、会いたいとしきりに思っていることでした。ここに牧師と信徒のこの世にはない、霊的な絆と言いますか、かけがえのない交わりの一端を垣間見ることができます。

わたしも36年間、牧師として五つの教会に仕えてきました。そしていろんな信徒の方と出会い、共に主に仕えて参りました。牧師が信徒を遠ざけると言うことは考えられないですが、群れの中に異端を持ち込んだり、群れを分裂に引き込んだり、サタンに魅入られてしまった人も正直いました。もちろん、こころから愛し慕って下さる方々もいます。パウロも自分が去った後に、このテサロニケ教会が試練や苦難に会うのではないかと心配しておりました。そして弟子のテモテを遣わしたのです。「誘惑する者があなたがたを惑わし、わたしたちの労苦が無駄になってしまうのではないかと言う心配から、あなたがたの信仰の様子を知るために、テモテを派遣したのです。」(3:5)と言っています。

わたしも引退するにあたって、わたしが去った後に、また教会が分裂をしたり、対立したりすることがあるのではないかと言うことが心配でした。今まで富里教会は、牧師の交代に際して分裂するという悲しい出来事を経験してきました。ある方が「先生が辞めたあとの教会が心配です。」とメールをくださった方がおられました。それで、無牧師の期間がないように、また後任の牧師にスムーズに引継ぎができるようにと言う思いで、協力牧師として1年間留まりました。

パウロは本当に、このテサロニケ教会の信徒を愛していました。それはパウロが語る説教、御言葉の宣教を彼らが、まるで神の言葉のように受け取ってくれたからです。ここに、パウロとテサロニケ教会の信徒の真の絆の根拠があります。1:6を見てください。「そして、あなたがたはひどい苦しみの中で、聖霊による喜びをもって御言葉を受け入れ、わたしたちに倣うもの、そして主に倣うものとなった。」(1:6)また「なぜなら、わたしたちから神の言葉を聞いたとき、あなたがたは、それを人の言葉としてではなく、神の言葉として受け入れたからです。」(2:13)

ここにパウロとテサロニケ教会の信徒とを結ぶ、固い絆があります。それは彼らが、聖霊による喜びをもって御言葉を受け入れたということです。パウロのような人間の語る言葉であっても、それを神の言葉として受け入れたからです。ここに牧師と信徒を結ぶ、真の霊的な絆があります。もしわたしと皆さんを結ぶ絆があるとしたら、それはわたしの語る拙い御言葉を皆さんが真剣に神の言葉として受け入れ、それに従っているということではないでしょうか。

それは人の言葉であるにもかかわらず、皆さんが神の言葉として受け入れ、それに従っているということです。そしてその語る言葉を、なによりも聖霊による喜びを持って受け入れているということではないでしょうか、これが牧師と信徒を結び付ける絆です。霊的な絆、聖霊の一致です。そしてそこから、北総地域に神の御言葉が、富里教会を通して輝き渡るのではないでしょうか。牧師につながっていてもだめです。神の言葉につながることです。「あなたがたが主にしっかりと結ばれているなら、今わたしは生きていると言えるからです。」(3:8)と言っています。牧師にしっかりと繋がるのではなく、イエス様にしっかりと繋がることです。英語では、standing in the Lordとなっています。

御言葉を通して、イエス・キリストにつながることです。聖書から、イエスの御言葉から、教えられて、自分で正しい判断をすることです。それは聖霊様を通してしか教えられません。聖霊によらなければ、御言葉が分かりません。いくら調べても勉強しても真理に到達しないのです。聖霊様はわたしたちの心の中を探られます。そして心の中にある苦々しい思い、堅い心、自分の罪を教えてくださいます。そして罪を悔い改めさせてくださいます。心を全部明け渡して、主を迎えさせてくださいます。そのことによってはじめて、御言葉が入って行きます。すると今度は、黙っていられなくなります。いくら口を押さえても神の言葉が出てくるのです。心から福音があふれ出てくるのです。それを抑えることはできません。ですから、このテサロニケ教会を通して、ギリシャ全体に福音が響き渡って行ったのです。

どうしたら聖霊様を受けることができるでしょうか。それは子供メッセージで子供さんの誰かが言いました。「祈ることです」と。簡単なことです。神様に、聖霊様を送ってください、そして神様の御言葉が解かるようにしてください。聖書の中の意味が分かるようにしてくださいとお祈りすることです。聖霊様を求めることです。「求めなさい、そうすれば与えられます」とありますように、求めること、捜すこと、門をたたくことです。そうすれば必ず、手にすることができますし、見つけますし、開けてもらえます。

そうすれば、御言葉を神の言葉として受け入れることができます。それがキリストにしっかりと結ばれるということです。そのためにわたしが遣わされ、そして今武井牧師が遣わされました。武井牧師もわたしも同じことを願っています。皆さんが聖霊による喜びをもって、わたしたちが語る言葉を神の言葉として、受け入れそれによって正しい判断ができ、福音にしっかりと立って、福音を宣べ伝える者となって欲しいということです。(岡田 久)

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