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主が戦われる (出エジプト記14:5~1)

メッセージ

2011年9月11日富里キリスト教会
「主が戦われる」
             (出エジプト記14:5~14)
1.人々の不満の声

あのイスラエルの民が、一晩で、男子で60万人、家族も入れたら200万近くの人が、国外に脱出したわけですから、エジプトの国にとっても一大事です。
14:8から読んでみましょう。「主がエジプト王ファラオの心をかたくなにされたので、王はイスラエルの人々の後を追った。イスラエルの人々は、意気揚々と出て行ったが、エジプト軍は彼らの後を追い、ファラオの馬と戦車、騎兵と歩兵は、ピ・ハヒロトの傍らで、バアル・ツェフォンの前の海辺に宿営している彼らに追いついた。ファラオは既に間近に迫り、イスラエルの人々が目を上げて見ると、エジプト軍は既に背後に襲いかかろうとしていた。イスラエルの人々が非常に恐れて主に向かって叫び、また、モーセに言った。「我々を連れ出したのは、エジプトに墓がないからですか。荒れ野で死なせるためですか。一体、何をするために、エジプトから導き出したのですか。我々はエジプトで『ほうっておいてください。自分たちはエジプト人に仕えます。荒野で死ぬよりエジプト人に仕える方がましです。』と言ったではありませんか。」
                   (出エジプト記14:8~12)
エジプトから約束の地カナンに行くコースは、いくつかありました。地中海沿いの道を行きますと、約2週間でカナンに着きます。もう一つは葦の海沿いのコースで、途中シナイ山を通って行きますが、長い道のりです。そして神様は、イスラエルの民にあえて長い道のりを行くように命じました。私たちの歩みも、時には遠いと感じる場合もあります。また、時には自分で判断して、間違った道を選んでしまったのかと思う時もあります。

せっかくイエス・キリストの血を受けて、信仰の新しい旅に出かけようとしても、いろんな罪の力、この世のいろんな力がしつこく後を追ってきます。また、順調に意気揚々と出発しても、突然目の前に大きな壁が立ちふさがったりすることもあります。信仰を持ったのに、病気になってしまった、会社が倒産した、これでは信じたかいがないではないかと戸惑ってしまい、中には信仰の道から外れてしまう人もいるでしょう。

案の定、すぐの問題が起こりました。道がふさがれ、後ろからは敵兵が砂煙を立てて追いかけてくるのです。イスラエルの人々は、主に向かって叫び声をあげ、さらに、モーセにも向かって文句を言ったのです。「こうなることがあるから、我々は本当は来たくなかったんだ、あの時言ったではないですか、我々は砂漠で死ぬよりはエジプトの国で死んだ方がましだと・・・。」何か問題が起こると、すぐそこに人間の本音の罪の部分が出てきます。

この時、モーセが民に向かってこう言いました、「恐れてはならない。落ち着いて、今日、あなたたちのために行われる主の救いを見なさい。あなたたちは今日、エジプト人を見ているが、もう二度と、永久に彼らを見ることはない。主があなたたちのために戦われる。あなたたちは静かにしていなさい。」(14:13~14)と。

2.恐れてはならない

まず最初に、「恐れてはならない。」という言葉です。後ろからはエジプトの軍隊、目の前は大きな海が広がっています。絶体絶命です。その時モーセは、民に向かって「恐れてはならない」と言いました。この言葉は聖書の中に365回出ているそうです。それほど、私たちの心はすぐに恐れや心配に包まれてしまうということです。目の前に迫っている出来事、海と敵の姿を見ているとどうしても恐れの心が湧き起って来ます。もちろんそういった現実の困難や困難から目をそむけてはいけませんが、それを恐れてはいけません。そして、自分を責めても、また他人を責めてもいけません。

なぜなら、神様は、そういう問題を通して私たちの信仰を試し、訓練して成長させて下さるからです。長い人生の中、そして信仰生活の中で、誰でも、どんな人でもそういう状況を通させられる時があります。その時は「何で、自分だけが・・。」と思いますが、あとで振り返ってみると、やはり自分の未熟な信仰の訓練のためだったということが解ります。そこで私たちの信仰が試されるのです。つぶやいたり、文句を言う必要はありません。

詩編46:9からこういう御言葉があります。「主の成し遂げられることを仰ぎ見よう、主はこの地を圧倒される。地の果てまで、戦いを立ち、弓を砕き槍を折り、盾を焼き払われる。『力を捨てよ、知れ、わたしは神。国々にあがめられ、この地であがめられる。』」(詩編46:9~11)人々が不信に陥り、混乱している時、祈りつつ信仰の言葉を語れる人は幸いです。あなたは問題が起こった時、すぐにつぶやき、誰かのせいにして文句をいうタイプですか。それとも主が戦われるのを信じて、黙って祈りつつ見守るタイプの人でしょうか。

3.落ち着きなさい(しっかり立ちなさい)

次に二番目に、モーセが言った言葉は、「落ち着きなさい」といいました。これは、口語訳聖書、新改訳聖書では「しっかりと立ちなさい」という言葉に訳しています。このような絶体絶命の状況に立った場合、わたし達に起こりがちなのは、自分たちで何とかしようと焦ってあの手この手を打ってみることです。

人々の反対の声に押されて、そしてみんなの意見を聞いて、モーセがエジプトに引き返すという手もあったと思います。ここまで来たけれども、もはやこれまで、自分たちの信仰の決断は間違っていた、こんな危険で道がふさがれているのだったら、もう一度エジプトに戻ろうとすることも考えられたでしょう。あるいは、焦って、海に向かう道を回避して砂漠の別のルートを取って逃亡することも考えられたでしょう。あるいは玉砕を覚悟して、エジプト軍に立ち向かって行くことも考えられたでしょう。いろんな選択肢がありました。

でも神様は、モーセに落ち着いて静かにしていなさいと命じました。下手に逃げたり、自分の考えで別の方法を考えるのではなく、ただ、その場にじっとしていなさいというのです。信仰の道というのは、もはやだめだと万策が尽きて、自分の手を放すところから神様の道が開けてくるということです。そして、その道というのは、その困難な問題を通り抜けることなしには、真の道はないということです。

主に信頼を置くことが、落ち着きなさい、しっかりと立っていなさいと言うことです。イザヤ書にも同じような御言葉があります。「お前たちは立ち帰って、
静かにしているならば救われる。安らかに信頼していることにこそ力がある。」(イザヤ書30:15)と。何があっても、安らかに、主に信頼していること、そこに私たちの力の源があるのです。

4.主の救いを見なさい

第三番目に、私たちができることは、ただその結果を見ることだけだというのです。目の前には海、後ろからは敵の攻撃が迫っている。そういう絶体絶命の中で、神様は、モーセに前進することを命じました。たとえ、道がなくても信仰の歩みを止めてはいけない。主を信じて、海の中であっても、その信仰の第一歩を踏み出しなさいと命じました。そしてモーセに対して「杖を高く上げ、手を海に向かって差し伸べなさい。」(14:16)と言いました。

これは、主の名によって祈りなさいということです。そうしましたら、東風が吹いてきて、海の水を押しのけ、左右に分けられたのです。風は聖霊様のことを意味しています。聖霊様が道をつけてくださるのです。そしてモーセに引き連れられたイスラエルの民は、その乾いた海の中を渡って行きました。両側には水が壁のようにそそり立ちましたが、一行が通り過ぎるまでは、水が戻ることなくそのままになっていました。(「十戒」の映画のクライマックスです。)

困難だと思われ、逃げ出したくなるような悩みと問題の只中に、そこを通して主は道は造られるのです。そこでは、ただ必死に主の御言葉を信じ、主に信頼し、ゆだねて、主を見上げて一目散に駆け抜ける道です。まさに海の中の一筋の道です。そして、後を追って攻め込んできたエジプトの戦車は、泥にはまって身動きが取れなくなりました。そして、再びモーセが手をあげると、混乱しているエジプト軍の上に海水が一挙に押し寄せてきて、全軍おぼれてしまいました。後には、おびただしい数のエジプトの兵士の死体が、海岸に打ち寄せられました。

イスラエルの民は、主が自分たちのために戦ってくれたこと、そして完全な勝利を収められたことに初めて気が付きました。私たちは何を見るのですか。敵を見るのでも、自分たちの非力を見るのではありません。主の勝利を見るのです。私たちはただただ、この主の救いと勝利の業を見るだけなのです。だから、心配せず、焦らず、しっかりと主の約束の御言葉に固く立って、動じることなく、主の戦いを見て待てばいいのです。主は必ず勝利されます。主が救われます。

そしてこの水の中をくぐって、イスラエルの民は救われました。恐れる必要はありません。救いの主を信頼し、どんなことがあっても落ち着いて動かされることなく、主の御言葉にしっかりと立ちましょう。主が戦って下さいます。わたし達は静かにして、その結果を見ようではありませんか。  (岡田 久)

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