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主が共にいて下さる (創世記39:1~23)

メッセージ
2019年7月21日富里キリスト教会
「主が共にいて下さる」
(創世記39:1~23)
1.孤独の中の祝福

主の御名を賛美します。
エジプトに売られていったヨセフは、その後どうなったでしょうか。見てみましょう。「ヨセフはエジプトに連れて来られた。ヨセフをエジプトへ連れてきたイシュマエル人の手から彼を買い取ったのは、ファラオの宮廷の役人で、侍従長のエジプト人ポテイファルであった。主がヨセフと共におられたので、彼はうまく事を運んだ。彼はエジプト人の主人の家にいた。主が共におられ、主が彼のすることをすべてうまく計らわれるのを見た主人は、ヨセフに目をかけて身近に仕えさせ、家の管理をゆだね、財産をすべて彼の手に任せた。」(創世記39:1~4)

ヨセフも兄たちの妬みと憎しみを買って、命だけは助かりましたが、遠い国に売り飛ばされてきました。故郷から引き離され、愛する家族からも引き離され、奴隷として自由をも奪われてしまったのです。どんなにか不安と孤独にさいなまされたことでしょう。そして何よりもヨセフにとって、最大の悲しみは、愛する神様からも自分は引き離されてしまったのではないかと思ったことでした。なんでこうなったのか、神様の夢をその通りに話しただけなのに何でこんな仕打ちを受けなければならいのだろうかと、思ったに違いありません。

父の名を呼んでももはや聞こえるはずはありません。このどうしようもない状況の中で、ヨセフに取りましては、主の名を呼び求めて助けを願うことしかできなかったのではないでしょうか。2節を見てください。そこに「主がヨセフと共におられたので」という言葉があります、そして3節にも同じような言葉があります。「主がヨセフと共におられた」という言葉です。

ヨセフに取りましては、自分は家族にも父にも神にも見放されてしまったのだろうかという絶望感の中でしたが、主自らが、ヨセフと共にいて下さったのです。そしてこのような状況の中でも、ヨセフに対してもっともよい道を備えていて下さいました。ここにクリスチャンの最大の喜びと幸せがあります。一件、神に見捨てられてしまったような、状況の中でも、「神様が共にいて下さる」このみ言葉の約束がわたしたちには与えられていますし、事実このみ言葉のとおりではないでしょうか。わたしたちの人生は、信仰に入ったから全てが順風満帆に行くというようなことではありません。むしろ信仰生活に入ったからこそ、反対に逆風が吹いてくることもあります。

でもそういう中でも、「主が共にいて下さる」と言うことを覚えたいと思います。
ローマ書の中に「神は愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」(ロマ8:28)という御言葉あります。ですから決してあきらめてしまったり、自暴自棄にならないで、主に祈って主の導きと助けを待つことも大事ではないでしょうか。

そういうヨセフに対して神様は、豊かな祝福をもって導いてくださいました。そして主人のポティファルは、ヨセフに家の管理や財産のすべてを任せたのです。彼がよく知恵をもって忠実に仕事を果たしていたからでしょうか。更に神様は、ヨセフの管理を通してポティファルの家を祝福してくださいました。財産も増えてきたのです。まさに神様の祝福がヨセフを通して、このエジプト人の家にもたらされたのでした。ですからどんな時にも、「主が共にいて下さる」の信仰をもって歩みたいものです。

Joseph had been taken down to Egypt. And there Potiphar bought him. How Joseph would have felt lonely being away from his homeland and his family. What he has been afraid the best was that God had abandoned himself. but the Lord was still with him. This word was written twice. No matter what the situation is , God has not abandon us. Joseph may pray to God wherever he has gone. The Lord gave him a success in everything he did. His master Potiphar put him in charge of his household. God gave him many blessings whatever he had done.

2.誘惑に打ち勝ったヨセフ

ところが人間が祝福と幸福の絶頂時にある時に、同時に試練もやってきます。今度はヨセフの心が試されました。今までは不可抗力によって、窮地に落とされそこで神様がヨセフを救ってくださいましたが、今度は、ヨセフの心の中にある主への忠実な信仰が試されたのでした。新しい試練です。

「主人は全財産をヨセフの手にゆだねてしまい、自分が食べるもの以外は全く気を使わなかった。ヨセフは顔も美しく、体つきも優れていた。これらのことの後で、主人の妻はヨセフに目を注ぎながら言った。「わたしの床に入りなさい。」しかし、ヨセフは拒んで、主人の妻に言った。『ご存知のように、御主人はわたしをそばに置き、家の中のことは一切気をお使いになりません。財産もすべてわたしの手にゆだねてくださいました。この家では、わたしの上に立つ者はいませんから、わたしの意のままにならないものもありません。ただ、あなたは別です。あなたはご主人の妻ですから。わたしは、どうしてそのように大きな悪を働いて、神に罪を犯すことができましょう。』彼女は毎日ヨセフに言い寄ったが、ヨセフは耳を貸さず、彼女の傍らに寝ることも、共にいることもしなかった。」(39:6~10)

そこにありますように、ヨセフは顔も美しかった、そして体もしっかりしていました。更に知性もあり管理能力にも優れていました。そのようにして、毎日てきぱきと仕事に精を出している若い独身男性を見ているうちに、ポテファルの妻の心の中に情欲が芽生えてきました。しかも立場的には、妻の方が上です。主人の奥さんという立場上の強さもあります。自分の立場と性的な情欲から、ヨセフに言い寄ってきました。「わたしの床に入りなさい。」と。まさに今日でいう、セクハラとパワハラのようなものです。立場を利用して、自分の情欲を満たそうとしました。

ポテファルの妻の執拗な誘惑の中で、ヨセフの心もついよろめきそうになったのではないでしょうか。ヨセフも独身の若い男性です。でも彼には神様がついていました。「主がヨセフと共におられた」ので、ヨセフは妻の執拗な誘惑に立ち向かうことができました。その理由を彼はこう述べています。第一は、自分を信頼して家のことを全部任せてくれている主人を裏切ることはできないと思ったからでした。もし妻との関係が分かったら、自分を信用してくれている主人を裏切ることになります。そしてまず何よりも自分は奴隷の身分であって、たとえ死んでも主人の命に背くわけにはいかないというへりくだった心を持っていました。

そして二番目の理由ですが、何よりも自分は神に悪を働いて、神に対して罪を犯すことはできないと思ったからでした。彼は常に神を目の前において、神を第一として歩んでいました。妻の誘惑に負けてしまったら、道徳的な悪、主人の裏切りということ以前に、ヨセフにとっては神様に対して罪を犯すことになるのです。ヨセフに執拗に迫って来る妻の誘惑に対して、「ヨセフは耳を貸さず、彼女の傍らに寝ることも、共にいることもしなかった。」(39:10)とあります。

ところがついに、ある日、決定的な時がやってきました。家の中にヨセフと妻しかいない状況になったのです。そして、いつもように妻はヨセフを強引に自分のベッドに誘いました。ヨセフはその誘惑の手を振り払って、部屋を出たのはいいのですが、上着を妻の手に残したまま逃げだしました。それを見た妻は、自分の欲求がかなわないのを見て、今度は狂言を使ってヨセフを陥れようとしたのです。家の者にまで大声で言いふらしました。そして帰ってきた主人に対しても、うその証言をしたのです。

「あなたがわたしのところに連れてきた、あのヘブライ人の奴隷はわたしのところに来て、いたずらをしようとしたのです。わたしが大声を上げて叫んだものですから、着物をわたしの傍らに残したまま、外へ逃げて行きました。あなたの奴隷がわたしにこんなことをしたのです。」(39:17~19a)と言って夫に訴えました。その時、誰も証人がいませんでしたので、夫も妻のウソ泣きと訴えに負けてしまいました。そしてヨセフを逮捕して監獄に入れてしまいました。

人間の罪は本当に火のように、大きく燃え上がります。ヤコブ書にこういう御言葉があります。「あなたがたは、欲しても得られず、人を殺します。また、熱望しても手に入れることができず、争ったり戦ったりします。得られないのは、願い求めないからであって、願い求めても、与えられないのは、自分の楽しみのために使おうと、間違った動機で願い求めるからです。」(ヤコブ4:2~3)

自分の快楽のために求めるのは、まさに罪の働きです。しかも欲しているものが手に入らない時には、人を殺してまで手に入れようとします。ダビデがそうでした。夫を殺してまでも他人の妻を手に入れようとしました。カインも、神の愛を求めても手に入らなかったら、弟アベルを殺してまで、神の祝福を手に入れようとしました。そしてヨセフの兄たちも、父親の愛情を手に入れようとして、実の弟の命までを奪い取ってでも父の愛を手に入れようとしました。

When we are at the highest in our life, Satan used to tempt us by various ways. One day the wife of Potiphar took notice of Joseph and said “Come to bed with me!” but he refused her temptation. There were two reasons to refuse, the first is that what he submits her request will betray his master. And the second is that what he submits her request will sin against God. As the God is always with him, he was able to refuse to sin. When we will sin and do bad things is not to sin against the person but against the God. We should take care fore ourselves not to sin against the God. David said in the Psalm 51:4 “Against you, you only, have I sinned and done what is evil in your sight”

3.暗闇の向こうにあるものを目指して

このように正しく生きようとすればするほど、ヨセフは次々と試練にあってしまいます。今回も、ポテファルの妻の腹いせによって、無実の罪を着せられて、監獄に入れられてしまいました。しかし、その監獄でさえ、そこにも主がおられたのです。「しかし、主がヨセフと共におられ、恵みを施し、看守長の目に適うように導かれたので、看守長は監獄にいる囚人を皆ヨセフの手にゆだね、獄中の人のすることはすべてヨセフが取りしきるようになった。看守長は、ヨセフの手にゆだねたことには、いっさい目を配らなくてよかった。主がヨセフと共におられ、ヨセフがすることを主がうまく計らわれたからである。」
(39:21~23)

詩編の中にこういう御言葉があります。「主よ、あなたはわたしを究め、わたしを知っておられる。・・どこに行けば、あなたの霊から離れることができよう。どこに逃れれば、御顔を避けることができよう。・・闇の中でも主はわたしを見ておられる。夜も光がわたしを照らし出す。」(詩編139:1、7、11)
わたしたちはどこに行っても主は必ずそこにおられるという詩です。主の目から逃れることも隠れることもできません。常に主はわたしたちを見ておられるのです。常に守り導いて下さっています。

ヨセフは、深い穴の中に落とされ、そこから出たと思ったら今度はエジプトに売り飛ばされました。そしてそこで主の祝福を受けたのですが、正しい行動をとったがゆえに、また今度は牢獄という暗い所に入れられてしまいました。しかし、主が共にいて下さるヨセフに取りましては、その牢獄でさえ天国のようなところだったのです。そこでも神様はヨセフと共にいて下さり、看守長の目に留まって、ヨセフに獄中のことを管理する権限を与えられたのです。

The life of Joseph is gradually getting down and dark, but the greater the darkness, the stronger the brightness. When we decide to walk with living God even if the condition is bad and hopeless, the God surely will make the way for us. The story of Joseph teach us that. even in a life that seems to be rolling downhill in a seemingly negative direction, as the God is with us, we will be able to see the fulfillment of the God’s plan. Joseph will be serve the king by entering the prison. The life of Joseph never realizes the glory of God without entering the prison. When we see the shining light through the darkness, the Lord is always with us and walk along us. And the God can change the failure to success and the darkness to the light and the sorrow to joy.

どんなひどい状況の中でも、自分が希望しない状況の中でも、この生ける神と共に歩むという決断をする時に、わたしたちの道が開けてくることは、このヨセフの生涯からも見て取ることができると思います。一見マイナス方向へ、どんどんと下り坂を転がって行くような人生でも、神が共にいて下さるときに、その果てには神様のご計画と完成が待っているのです。ヨセフは牢獄に入ることによって、今度は王様に召し抱えられてゆきます。牢獄という暗い厳しい場所を通らなければ実現しなかったヨセフの新しい最高の人生です。

暗闇の向こうに明るく輝く光を見て歩む人生、そこには必ず主が共にいて下さいます。そして一切のマイナスをプラスに、失敗を成功に、暗闇を光へ、悲しみを喜びへと変えて下さる神様の大きな救いに御計画があるのです。そのためのヨセフの誘惑であり投獄でもあったのです。神の恵みは牢獄のような場所でこそ光輝いて来ます。自分が置かれたところで、命と光が輝き出てきます。幸いな時も、不幸の時も、平安の時も不安の時も、必ずそばに居て全てのことを益としてくださるお方がおられるのです。最後に、ヨセフのところにわたしという言葉を入れて行ってみましょう。「主がわたしといつも共にいて下さった。そして今もいて下さる。これからもズーッといて下さる。」(岡田 久)

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