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主がお入用なのです (マタイ21:1~11)

メッセージ
20021/2/28
富里キリスト教会礼拝説教
「主がお入り用なのです」
(マタイ福音書21:1〜11)

①エルサレム入城―預言の成就
今日の箇所は大変有名なメシアのエルサレム入城と言われる場面です。イエス様はイスラエルの至る所で宣教活動を行い、たくさんの病や悪霊に取り憑かれている者を癒されました。しかし、それはこのエルサレムに向かっているプロセスの出来事とも言えます。最終目的はこのエルサレムで起こされるのでした。終わりの始まり。それがこのエルサレム入城の場面といっても良いでしょう。
この入城を通してイエス様はご自分がメシアであることをある意味公に示されました。そして、そのシーンはとても華やかのものであったようです。ときは過越の祭りの時でした。エルサレムの周辺約30キロに住む成人男子はこの祭りに参加する定めになっており、遠くにいたものも集まっていたようです。エルサレムは群衆でひしめき合っており、その群衆はこのイエス様のエルサレム入城を大いに喜びました。しかし、その熱は熱狂的であり過剰であったと言えるでしょう。とにかく大盛り上がりだったようです。
このエルサレム入城の場面は全福音書に記載されており、この出来事がいかに意味のあるものかが窺い知れます。一見華々しい、栄光の姿のように見えます。弟子たちもイエス様が崇められるのを見て誇らしく、鼻高々だったかもしれません。しかし、イエス様の心は彼らのように決して浮ついてはいなかったでしょう。むしろそこにあるものは静かな覚悟ではなかったでしょうか。先ほどエルサレム入城は終わりの始まりだと言いました。そうです、この場面は受難週の始まりをも意味しているのです。イエス様の最終目的はエルサレムで私たちの罪を全てを背負い十字架にかかられることなのです。
いよいよ預言が全て成就されようとしています。救いの完成である十字架の贖いが起こされようとしています。一つ一つの旧約聖書の預言が、神の約束が達成されようとしています。そして、マタイはこのエルサレム入城も預言の成就の一つであると主張します。

マタイ21:5
「シオンの娘に告げよ。『見よ、お前の王がお前のところにおいでになる、柔和な方で、ろばに乗り、荷を負うろばの子、子ろばに乗って。』」

このろばに乗っての王の入城という預言はゼカリヤ9:9から引用したものです。そしてこの預言の成就への一歩は私たちにとっては救いの完成への一歩でありながらも、イエス様にとっては十字架の苦しみへの一歩でもありました。このときのイエス様は一体どのような気持ちだったのでしょうか。

②主がお入り用なのです
この時のイエス様の気持ちはとてもじゃないけど計り知れません。葛藤もあったことと思います。しかし、それでも主イエスはどこまでも父なる神に従順でありました。主の御心のままに。最後に行き着くところはそこだったでしょう。預言の成就はなされなければならない。そのためにもイエス様は弟子たちにある村に行ってロバがいるからここまで連れて来いと言われます。

マタイ21:2−3
「向こうの村へ行きなさい。するとすぐ、ろばがつないであり、一緒に子ろばのいるのが見つかる。それをほどいて、わたしのところに引いて来なさい。もし、だれかが何か言ったら『主がお入り用なのです』と言いなさい。すぐ渡してくれる。」

なんだか、こんなこといきなり言われたら戸惑ってしまいますよね。無茶振りもいいとこです。いやいや、イエス様、それは無茶ですよ。私だったらそう言ってしまいそうです。イエス様のご命令を人の理性で考えてしまえば、できないと勝手に諦めてしまいます。
しかし、この弟子たちはそのようなことを言いません。主の言葉に信頼し、素直に従順に言われた通りにしたら、本当にその通りになりました。なぜ、ここまでスムーズに言ったのでしょうか。それはロバがいることを言い当てる超自然的力と、すぐに渡してくれるように人の心に働きかける力をイエス様がおもちであったからであるという解釈であったり、ろばの持ち主はもともとイエス様の弟子であり、以前からイエスさまのために何かできることがあるならなんでも手伝うと言っていたのだろうといった解釈などがありますが、どちらも一定の説得力があります。
どちらにせよ、ここではっきりしていることは、イエス様は私たちにできないことは決してしろとは言わないということです。無理な要求に見えても、きちんと神様がお膳立てしてくれているのです。私たちはその主の言葉を信じて進むだけなのです。そして、そのときはじめて、信じて進んだ先になされる神のみわざを私たちは見て確認することになるのです。神のわざは神によってなされる。しかし、それは信仰者の一歩によって成就されるのです。
そして、ここでの預言の成就の鍵にはもう一人の人物が挙げられるでしょう。それは、このろばの持ち主です。事前に話がついていたかどうかは置いておいて、「主がお入り用なのです」という言葉を受けて、彼は躊躇なく、ろばを差し出したのです。主がそう言われるのならば、どうぞ用いてください。私の全ての財産はあなたから与えられた恵です。そもそもがあなたのものです。そのろばを用いてくださるのならばこれは、もう私の喜びです。そういった心境だったのではないでしょうか。彼はいつでも喜んで差し出せる準備ができていたのです。
私たちもこの彼の姿にならいたいものです。もちろん、牧師や教会が「主がお入り用なのです」と言って、物やお金を安易に強要するようなことはあってはならないことだと思います。しかし、個人個人が様々な状況をみて、みことばに促され、聖霊がその心に主が望んでおられるのではないかという思いにかられるのであれば、そのときは「主よ、用いてください」と喜んでささげる者でありたいと願います。主はそのささげた物をきよめて用いてくださいます。何よりその信仰を主は喜ばれます。自分の手元にあるものを自分のものだと握りしめず、すべては神から与えられた恵みとして受け止め、主が必要とされるのならば喜んでお返しをする。これが献金の本質であるでしょう。
このエルサレム入城の預言は、イエスのことばを信じて従った弟子たち、喜んでろばをささげた持ち主。このような名もなき信仰者を通して成就されました。私たちも彼らのように神の救いのみわざに参与する一人になれると聖書は語り、主は私たちがそのようになることを期待しておられます。

③ろばに乗った意味
マタイ21:8−9
「大勢の群衆が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は木の枝を切って道に敷いた。そして群衆は、イエスの前を行く者も後に従う者も叫んだ。『ダビデの子にホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるようにいと高きところにホサナ。』」

イエス様は預言の通り、ろばに乗ってエルサレムに入城しました。その様子をみて、群衆はホサナホサナと叫び、熱狂的な大騒ぎをします。ちなみにホサナという言葉は元々「お救いください。」という意味でしたが、いつのまにか賛美の定型句となった言葉です。群衆はイエス様をメシア、王と認め賛美したのです。
自分の服を道に敷くという行為は、王を迎えることを意味する行為でした。群衆はイエス様を自分たちを救い出す王がきたことを喜びました。しかしそのメシア像は軍事的なリーダーであり、彼らはイエス様に武力による解放、武力による支配といったこの世の価値観における王を求めたのです。強い、かっこいい将軍がローマを倒すぞ。そう言った感じだったのではないでしょうか。
そういった思いで、イエス様を見ていると彼らは一つの違和感にかられたことでしょう。それは「いったいなんでろばなんかに乗っているんだ?」ということです。普通、王様や、皇帝、将軍など支配者が群衆の前に現れる時は馬にまたがって現れるものです。私たちにもそのようなイメージがあるでしょう。ナポレオンを思い浮かべる時、馬にまたがっているあの有名な絵を思い出す人は多いのではないでしょうか。日本でも多くの武将の絵や像などは馬にまたがっているものが多くあります。昔、暴れん坊将軍という時代劇がありましたが、オープニングでは将軍が颯爽と砂浜を馬に乗ってかけていくのですが、それがまたなんともかっこよく絵になります。ロバではちょっとかっこがつかないですね。砂浜をロバで走る暴れん坊将軍など、全然強くもかっこよくもみえません。
メシアを軍事的リーダー、力を象徴するものといった、自分たちにとって都合の良い救い主と決めつけていた群衆にはろばに乗るイエス様の姿を理解できなかったことでしょう。なぜなら、彼らはこの後、その自分たちが決めつけていたメシア像とイエスさまが違うとわかるやいなや、裏切られたと逆上し、あっという間に手のひらを返すからでした。
しかし、イエスさまは、預言の成就のためでありながらもそんな彼らに対するメッセージとして、あえてろばに乗って入城されました。馬は力、支配を象徴しています。一方、ろばは柔和、謙遜、平和、奉仕を表すと言われています。上から武力で支配して人々を従えるのではなく、へりくだり、仕える者としてイエス様はこられたのです。それは、十字架の贖いの死によって私たち人間を罪の元から救い出す平和の王としてのメシアであることを意味しているのです。
元々のゼカリヤ書の預言にもちゃんとそのように示されています。メシアがろばに乗って柔和な王として現れると。しかし、群衆はだれもこのみことばをみていません。みことばに見向きもせず都合よく自分の欲しい救い主、メシア像を作り出し熱狂しています。そういった民の賞賛する姿をみて、イエス様の気持ちはいかばかりだったでしょうか。
私たちはこのイエス様がろばに乗られた意味をしっかり捉えたいと願います。イエス様は、何かを力によって倒すためではなく、私たちの罪からの解放、つまり、癒し、回復、平和を届けに来られたのです。

④私たちはろば
最後に、イエス様はろばを用いたいと願われた。そして、そのろばこそ私たちなのだということを覚えたいと思います。ロバという動物は、西洋、特に地中海の地域では古来から「のろま」の象徴として用いられています。世界各国ではいまだにロバに相当する言葉は、ばか、愚か者の揶揄として用いられています。小さく非力なロバは、あまり使い勝手がよいものではありません。馬の方が力もあり、見栄えもよく、いいに決まっています。
しかし、主はロバがお入り用なのだと指名されました。ロバはのろま、愚か者。しかし、他方でロバは、先ほど言ったように柔和、謙遜、平和、奉仕を象徴するとも言いました。のろまゆえにロバは柔和で優しく、穏やかです。力は確かにない。しかし、それゆえに主はそのようなものを好んで用いられるのです。
聖書を見ていくと、主に選ばれ、用いられる人物はむしろかけの多い者が多いことに気づかされます。モーセなどは、最初頑なに神様からの召命を拒否します。自分への自信のなさ、臆病さなど見てて呆れたくなるほどです。理想的な王として見られているダビデなども、その信仰の素晴らしさはあるものの、彼は聖書の中に出てくる人物の中でも最も多くの、そして重い罪を犯した者でもあるといってよいでしょう。信仰の父と言われたアブラハムですら、時に自分の身を守るために妻を妹と嘘をつき王に差し出したりしました。皆、それぞれ主に豊かに用いられましたが、彼らは誰もが認める立派な人物というよりも欠けの多い者たちでした。しかし、そこにこそ神の恵み、力が現れたのでした。
私自身で言っても、本当に自分はロバだと思います。自分で言うのも情けないのですが、私は元来、のろまでどんくさいといったところがあります。要領がすこぶる悪いのです。要領のいい人は1を教えたら10を理解するといいますが、私は10を教えられても3ぐらいしか理解できないところがあります。ですから、いろんな仕事をしましたが、若い頃は本当にたくさん怒られました。そんな自分が嫌になったこともあります。
おまけにどんくさい上に私は根っからの怠け者でした。親にどれだけ勉強しろと言われてもしなかったんですね。本当に最低限度のことしかしないような人間でした。
そんな欠けだらけの自分を主がお入り用だと招かれた時は本当に臆してしまいましたが、最終的にはこんな私でよければ用いてくださいと飛び込み、神学校に行くことになりました。勉強は嫌い、苦手。おまけに根が怠け者のわたしがやっていけるのだろうかという不安は正直ありました。しかし、それでも主はこの私を用いたいと言われる。
そう思うと不思議と力が湧いてきて、今までの自分では考えられないほど学びに積極的に取り組むことができました。おまけに段々学ぶことに喜びと楽しさを覚えるようにまでなっていきました。自分に対しては無頓着で元来が怠け者の私ですが、神様のことだったら不思議と頑張れる自分がいることに驚きました。これは完全に私の力や意志ではなく神の恵みによるものです。欠けだらけの私であるがゆえにこの恵みを味わうことができたのです。聖書には「私の恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ。」と言う言葉がありますがその言葉を実感いたしました。ロバでもいい、じゃない。ロバだからいいのか。そんなことを今日の箇所からは思わされます。
しかし、そもそも本当は神のみ前に立った時、私だけではなく全ての人間がロバであると言えるでしょう。ロバには頑固、気分次第で動かなくなる融通のきかない習性があるといいます。私たちはときに、神様に対してそんな頑なで言うことをきかないところがあります。しかし、それでも神様はロバがいいのだと言ってくださるのです。
私は馬です。足が早いです。見栄えも美しいです。神様、私はお役に立ちますよ。さあ、乗ってごらんなさい。そんな高慢にも勘違いした者ではなく、自分が至らないロバであることを知りつつ、それでもあなたが望むのなら乗ってください、用いてくださいと言う者を主は望んでおられます。それが主と共に生きるということではないでしょうか。
自分が馬だと高慢になってはいけません。しかし、ロバだと卑下する必要もありません。主はそんなロバである私やあなたを愛し、選び、用いたいと言われているのです。そんな憐れみ深い主に慰めを受けながら、喜んで今の私たちを主に用いていただこうではありませんか。主が私たちをお入り用なのですから。

武井誠司

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