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主がお入り用なのです (ルカ19:28~44)

メッセージ

2012年2月26日富里キリスト教会
「主がお入り用なのです」
(ルカによる福音書19:28~44)
( 目 次 )
1.メシヤの入城と人々の心
2.誰も乗ったことのない子ロバ
  A)主は経験のない人を必要とされる
  B)主は従順な人を必要とされる
  C)主は小さい人を必要とされる
3.主がお入り用です(The Lord needs you)

1.メシヤの入城と人々の心

ユダヤ教では、メシヤ(救い主)は、エルサレムの神殿のうるわしの門のそばにある黄金門から入城すると言われていました。しかし、イエス様が来たるべき王としてエルサレムに凱旋入城された時、人々の心は何でいっぱいだったかと申しますと、商売のことでいっぱいでした。神殿では、両替人がいて、犠牲の鳩や羊が売買されてにぎわっていました。本来祈りが捧げられるべき神殿が、買い物客でごったがえす市場のようになっていたのです。

人々の心は、メシヤをお迎えするよりも、経済のことに熱中していたようです。祈りよりも、お金、お金です。救われる前のあのザアカイのように、お金の取税人になっていたのです。そういう中で、あのザアカイだけがイエスの目に留まって救われました。(ルカ19:1~10)そして、この子ロバのお話の後には、神殿で商売をしていた人々をイエスは追い出しています。(宮清め19:45~46)マルコによる福音書では、今になっても実がついていないいちじくの木を主は呪われ、枯らしてしまいました。(マルコ11:12~14)これは、まだメシヤが来ないといって、信仰の備えをしていない人々への警告でした。

2.誰も乗ったことのない子ロバ

「イエスはこのように話してから、先に立って進み、エルサレムに上って行かれた。そして、『オリーブ畑』と呼ばれる山のふもとにあるベトファゲとベタニヤに近づいたとき、二人の弟子を使いに出そうとして、言われた。『向こうの村へ行きなさい。そこに入ると、まだだれも乗ったことのない子ロバのつないであるのが見つかる。それをほどいて引いて来なさい。もし、だれかが、「なぜほどくのか」と尋ねたら、「主がお入り用なのです」と言いなさい。』」
(ルカ19:28~31)

このイエス様のエルサレム入城を、霊的な意味で考えてみますと、イエス様は、私たちの王ではあります。しかし、それは政治的地上の王ではなく、目に見えない霊的な意味での神の国の王という意味です。つまり、主が子ロバにのって、門を通ってエルサレムに入り、私たちの王として即位されるということは、私たちの心の中に来て下さって、王になって下さるということです。

つまり主は、私たちの心の中に王としてご入城して下さり、私の王、主人となって下さる。私たちはこの王なるキリストの宿る神殿として王の御心を行い、王の栄光をこの世にあって表すために生かされているということです。主が一人一人の心の門を通って入城し、その人の主となって下さったのです。そしてそのお方は、猛々しい軍馬にのって武力で私たちを征服されたのではなく、子ロバのように身を低くして私たちの心に入って下さったのです。そう考えてきますと、主が求められた子ロバの意味も分かるような気がします。

A).経験のない人を必要とされる

まず第一に、イエス様は、あえて「まだ誰も乗せたことのない子ロバを引いて来なさい」と言いました。つまり、主は、まだ経験のないものを必要とされるということです。子ロバにとっては、イエス様を乗せるということは大役です。しかも、自分は今まで人を乗せた経験がありません。人間でしたら、こんな自分がイエス様を乗せるなんてできないと、最初から辞退してしまうまもしれません。でも主は、そういうできない人を主の御用に用いられるのです。

実際私たちは祈ることも、聖書を読むこともできない幼い子ロバです。だからこそ、イエス様に、「どうか主よ、私があなたを乗せて福音を語ることができるように、教えてください。どうしたら祈ることができるか、教えてください。聖書が解るようにして下さい。どうしたら、証ができるか教えてください。御言葉を語れるようにして下さい」と願うことができます。それは経験がないからです。

B).従順な人を必要とされる

第二に、主は従順な人を必要とされるということです。もともとロバという家畜は、パレスチナ地方で広く飼われていました。いろんな荷物を運んだり、人を乗せたりして、とても有益な動物です。しかも粗食に耐え、病気に強く、長生きをしてたくましいという動物です。当時の人たちにとっては欠かすことのできない家畜でした。そして、何よりも飼い主に従順であり、穏やかな性格を持っていました。

馬は、人を乗せるには、よほど調教しなければ安心して乗せることはできません。人間と馬が戦って、荒馬を完全に手なずけておとなしくしなければ人を乗せることはできません。でも、ロバは馬よりの背が低いし、おとなしいですし、何よりも従順です。容易にまたがることができます。乗り手の手綱の通りに道を行きます。主が行きなさいという道を、愚かなほど従順に、ただ黙って黙々と前を向いて歩き続けます。このような人を主は必要としておられます。このロバのように、主にどこまでも従う従順な信仰を身につけたいものです。

C).小さい人を必要とされる

三番目に、主は子ロバ、小さいものを必要とされるということです。マタイの福音書には、持ち主のところには親ロバもいました(マタイ21:7)。でもイエスは、子ロバをあえて必要としたのです。これは福音を宣べ伝える者は、いと小さきもの、心へりくだったもの、心砕けたものが必要であるということです。自分というプライドの砕かれたものです。また、馬のように勢いと力だけでは福音は伝わらないということです。

ロバのことを英語でドンキーと言いますが、もう一つ意味がありまして、「とんま」「ばか者」という意味もあります(ちなみに子ロバはコルトといいます)。あまり自分をお高くとめていては、イエス様が相手の心の中に入って行きません。自分が愚か者と思われているくらいの方が、相手も安心してイエス様を受け入れることができるのではないでしょうか。パウロも「神は、宣教という愚かな手段によって信じるものを救おうと、お考えになったのです。」(Ⅰコリント1:21)といっています。神様の前に、一人の罪人として、自分の弱さ、愚かさ、小さいことを前面に出して伝道する時に、イエス様が相手の心に入ることができます。

イエス様は、私たちのそのような子供みたいな弱さや焦りや悲しみを通して、私たちを用いようとしておられるのです。自分を誇って、高い目線ではイエス様を乗せて、人々の心の岸辺に連れて行くことはできません。神様の子ロバとして、愚か者になって、泥をかぶる気持ちで、誰も礼拝に来てくれない悔しさや恥ずかしさを通して、福音を伝える者となりたいと願っています。そして、イエス・キリストの神の国の御支配は、そのようにして広がって行くのではないでしょうか。

3.主がお入り用です(The Lord needs him)

最後に、「主がお入り用なのです。」と言う言葉に注目してお話をさせていただきたいと思います。19:31に「もし、だれかが、『なぜほどくのですか』と尋ねたら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。」とイエス様が言われました。そして実際に、言われたとおり、二人の弟子が村に入って行きますと子ロバがいました。そして、黙って子ロバの縄をほどいていると、持ち主が「なぜ、子ロバをほどくのか」と言いました。弟子たちは、「主がお入り用なのです」と言ったところ、持ち主が許可してくれたと聖書にあります。

この二人の弟子は、質問や疑問を投げかけることなく、その言葉を信じて村の中に入って行きました。そうしましたら、案の定、子ロバを見つけることができました。無条件でイエス様の御言葉に従うということです。それに従う時に、その通りのことが待っているのです。ここに信仰による従順な行動が記されています。こうして神の国が広がって行くのです。

このロバの主人も、「イエス様が必要なら差し出します。どうぞ使って下さい。」という信仰を持っていました。主が必要なら、無条件で差し出す信仰です。
この「主がお入り用です。」と言う言葉は、どこか魔法の言葉のような気さえします。イエス様が必要としておられるということです。日本語では、丁寧な言葉ですが、英語ですと「The Lord needs him」となっています。「主が彼を必要です」と単刀直入に、はっきりと言っています。

今、この神の国の実現にあたって、イエス様が必要とされているというのです。人々の心に、神の福音であるイエス・キリスト様の救いを届け、そのことによってイエス・キリストがお一人お一人の主人となり、神の国がこの世に実現するために、主があなたを必要としているのだというのです。イエス様を乗せて、人々の心に神の国の福音を届けるために。

最後に、あの有名なちいろば先生こと、榎本保郎牧師の言葉を述べて終わりたいと思います。先生はこう言っています。「私は、小さな取るに足らないものである。その私を主が必要としておられるのに気づく。自分の力、能力は小さい。だのに私たちは自分の至らなさ、小ささにこだわり、自己嫌悪に陥ることがある。自分の愚かさや繰り返し犯す罪に目を注ぐ時、何の希望もなくなる。しかし、そういうものを主がお入り用としておられ、主の尊い御用のために用いてくださるところに大きな喜びがある。私を生かして下さる方が、今日も共にいてくださり、その方の手に自分が握られていることに気づいてこそ、私たちの人生はすばらしいのである。」と。こんな欠けたる者、罪深き者をも必要として下さる主の愛と恵みを覚える時、私たちも弱さを持ったままで、主に従う者となって行きたいと願っています。              (岡田 久)

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