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世の終わりまで共にいる (マタイ28:16~20)

メッセージ

2012年12月9日富里キリスト教会
「世の終わりまで共にいる」
(マタイ28:16~20)

1.あなたがたは行って

今日の聖書箇所であるマタイ28:18からの御言葉は、私たちに、復活されたイエス様が命じておられる宣教命令の言葉です。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊に名によってバプテスマを授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。私は世の終わりで、いつもあなたがたと共にいる。」(マタイ28:18~20)という御言葉です。

彼らは、かつてイエス様が指示しておいたガリラヤに行き山に上りました。するとそこに、復活されたイエス様が現れたのです。聖書には「さて、11人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておられた山に上った。そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。」(28:16~17)とあります。まず弟子たちは、ガリラヤの山で復活された主に礼拝を捧げました。

その後でイエス様が、「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。」と言われました。ですから、何事もまず、礼拝から始まります。私たちも今日礼拝に集まって来ました。そしてイエス様を礼拝し賛美をしました。礼拝の最後に、牧師が祝祷をします。これは、祝福だけではなく、「これからあなた方は、全世界に出て行って、福音を宣べ伝えなさい。」という派遣の祈りでもあるのです。皆さんをこの世に送り出すのです。今週は、特に成田でSGがあります。山﨑さんやリーダーの方が声をかけて新しい人を自分の家に招きます。そこで、聖書を学び祈り交わりをします。伝道の場であり訓練の場に、自分の家がなるわけです。

しかし、この時には、まだ疑う弟子も中にはいました。11人の弟子の中で疑う者もいたわけですから、本当に信じていた人はわずかでした。それでも、弟子たちは、疑いつつも、半信半疑であっても福音を携えて全世界に出かけて行きました。それぞれの宣教の地に遣わされるのです。成田の方は成田に、佐倉の方は佐倉に、富里は富里に、八街の方は八街に遣わされて行って、そこで家族、友人、親戚、近所の方々に福音を宣べ伝え、主の復活の証人となって行くのです。

ここで、主は「行って」と言っています。マルコによる福音書ではもっとはっきりと、「全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。」となっています。出て行くこと、この世界に、すべての人々に遣わされていることが大事です。礼拝が終わって、やれやれ、礼拝が終わった、あとはまた普通の生活に戻ろうかと言うのではなく、それぞれが自分の宣教の地に遣わされているのです。自分の遣わされた町に行って、一人一人が宣教師となって行くのです。世界祈祷週間は、単に海外の宣教師のためだけではなく、私たちのための伝道と祈りの週間でもあるのです。

少しでも、このイエス様の御言葉に忠実になりたい、イエス様がそうしなさいとおっしゃったら、どうのこうのと無駄口をたたかず、「解りました。」とその通りに実行するクリスチャンでありたいと願っています。そのためにも、まず「出て行って」全ての人に、すべての被造物に福音を語るものでありたいと思います。

2.弟子づくりとバプテスマ

さて実は、この主の御命令の中で、いつも心に引っ掛かっている言葉があります。それは、「全ての民をわたしの弟子にしなさい。」と言う言葉と「彼らに父と子と聖霊の名によってバプテスマを授けなさい。」と言うご命令です。ふつうは、まずバプテスマを授けてから、弟子としての訓練が始まるのではないでしょうか。富里教会でも、まずバプテスマを受けてから、「拡大する人生」を学びます。それから「マスターライフ」の学びに入ります。キリストの弟子となるように、基本的な学びと訓練を受けます。

しかし、イエス様は、ここでは、先に弟子となってから、バプテスマを受けるようにと言っているような気がします。ですから、イエス様を信じて、「拡大する人生」を学んだり、教会学校のリーダーをしたり、スモールグループのリーダーをしたり、自分でデボーションができるようになり、しっかりと信仰を身に着け人々を導くようになってから、バプテスマを授けて教会員の一員としなさいと言うような順番になっています。

ですから、バプテスマを受けて、キリストのからだの一部である教会員となり前に、まずキリストの弟子としなさいと言っているような気がしてなりません。例えば、スモールグループに新しい人が来ました。その人はそこで、聖書を学びながら交わりをし、徐々に、グループのリーダーになって行けるまでに成長して行きます。そして、もうすっかりリーダーとして一人前に聖書を読み、自分でグループを起こしたり導いたりできるようになってから、バプテスマを受けて教会員としなさいといっているのではないかと考えたりしています。

それだけ一人の魂を、時間をかけて、一人一人の愛のサポートを通して、またグループでの受け皿を通して、時間をかけて育てて行くことが必要ではないでしょうか。誰でも、何年間は、その教会学校の成人科やスモールグループで養われてゆくうちに、少しづつ自分でも御言葉を話したり、メンバーのことを気にかけたりしながら、実践的な牧会伝道の訓練をグループで受けて行くのではないでしょうか。それがスモールグループであり、成人科の活動でないかと思います。そのためにも、リーダーはいつも自分がリーダーをするのではなく、時にはメンバーにやらせて見ながら、少しづつやり方を伝授して行けばいいのではないかと思います。これが、「全ての民をわたしの弟子としなさい」と言うイエス様の御命令ではないでしょうか。

そのためにも、牧師はリーダーに御言葉と牧会の働きを委ねる必要があります。いつまでたっても、牧師が御言葉のリーダーをしていては、信徒リーダーが育ちません。また、牧会を牧師だけがしていては、いつまでたっても子供のような信徒ばかりになってしまいます。イエス様も「あなたがたの手で五つのパンと二匹の魚を分け与えなさい。」と言って、弟子たちの手に御言葉を委ねました。そうしたら、たった五つのパンと二匹の魚が、あっという間に増えて、五千人の人々を養うまでになったではありませんか。これは、イエス様が宣教の働きを弟子たちに委ねたからです。手渡して実際に弟子たちに配らせたからです。そのようにして、主は伝道の初めから、弟子訓練をしてきました。一緒に、生活し、一緒に伝道しながら、自分の業を弟子たちに教えたのです。

3.教えなさい

私たちは、バプテスマを受けてから、さらにもっと深く聖書の御言葉を学びます。これが「主の御言葉を教えなさい」と言うご命令です。教会の働きは、この御言葉の教育と言っても過言ではありません。私たちが御言葉に立つことができるように、訓練し、御言葉を教えることができるように教育するのです。教育と言う言葉は、学校を連想してしまいますが、でもやはり、最後はみ言葉をしっかり立ち、じっくりと学んだ人が残って行きます。今年度の教会標語は、この御言葉を教えなさいと言うご命令から取りまして「真理の御言葉を正しく宣べ伝える」と言う題にしました。

これは牧師にあてた標語ではありません。教会員一人一人が、自分で御言葉をしっかりと正しく教えることができるようにと言う願いを込めたものです。そのためには、実際に、信徒にその御言葉の働きを委ねなければならないと思います。イエス様は、何度も申しますが、「あなたがたの手で、食物をやりなさい。」と言いました。これは、弟子である信徒一人一人の手で、御言葉を配る、すなわち語ることではないかと思います。いま、富里教会では、教会学校のショートメッセージを信徒の方が語っております。また、成人科はもちろん信徒リーダーが導いております。また、スモールグループも、徐々に信徒の手に渡すようにしております。

そのようにして主は、私たちに、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」とおっしゃって下さるし、実際に現れ出て一人一人を慰め励まし共にいてくださるのです。ですから、この世の終わりまで共にいるということは、この礼拝の中に、教会学校の中に、スモールグループの中に私たちが共に集まる時に、また主のために働く時に共にいるということです。主の共にいて働いて下さるということです。(ただ、何もしないで世の終わりを待つことではありません。)

4.世の終わりまで共にいる

この最後の「世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」と言う御言葉は、この世の終わりに際して、主が現れて私たちを天国に導いて下さるという印象を持ちます。確かに今は、終末の時であり、世界の破滅が間近に迫っている時代です。世の終わりが来ることは聖書もはっきりと預言しております。この世的には、科学が発達して月にまで人類が移住して、地球がダメでもそこに住むとか、世界平和の時が実現するというような虚しい期待を持たせていますが、聖書でははっきりと世の終わりが来ると予告しています。

そして、その時に主を待ち望む者はすべて救われます。その最後の時を、この20節の御言葉は行っているのかなと思うような気がしますが、果たしてそうでしょうか。むしろ、この主が共にいるということは、今述べましたように「出て行って伝道する時」「弟子づくりをする時」「バプテスマを施す時」「御言葉を教える時」に、イエス様が共にいてくださるということを言っているのではないでしょうか。つまりイエス・キリストの再臨の時だけではなく、私たちが、主の御命令に従って、出て行って弟子訓練をし、御言葉を教えている時に、主が共にいて共に働いて下さるということの方が強いような気がします。

全世界に出て行きましょう。団地にマンションに地域に一歩足を踏み出しましょう。主の御言葉をもってです。また疑いや恐れ、心配を持ったままでけっこうです。自分にしかない、たったわずかの賜物、この五つのパンと二匹の魚を素直にイエス様に差し出せばいいのです。その小さなものを、そのわずかしかないものを、これしかないものを主は豊かに祝福して用いてくださいます。
                             (岡田 久)

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