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世の終わりに臨むキリスト者の生き方 (Ⅰテサロニケ5:1~11、16~24)

メッセージ

2012年12月30日富里キリスト教会
「世の終わりに臨むキリスト者の生き方」
(Ⅰテサロニケ5:1~11,16~24)

1.主の日はいつ来るのか

「兄弟たち、その時と時期についてあなたがたに書き記す必要はありません。盗人が夜やって来るように、主の日は来るということを、あなた方自身よく知っているからです。人々が、『無事だ。安全だ』と言っているそのやさきに、突然、破滅が襲うのです。ちょうど妊婦に産みの苦しみがやって来るのと同じで、決してそれから逃れられません。」(Ⅰテサロニケ5:1~3)

「その時と時期」と申しますのは、その前の個所に記されている主の再臨の時です。その時には、最初に信仰を持って死んだ人が先に甦り、それからまだ生きているものが霊のからだに復活して天に上げられます。そのような、死人の復活と主の再臨が同時に起こる日はいつなのかということが、最大の関心事となって来ます。私も知りたいです。しかし、聖書には、「その日、その時は、誰も知らない。天使たちも知らない。ただ、父だけが御存じである。」(マタイ24:36)とあります。イエス様も知らないと言っています。

ただ、突然やって来ることは確かですが、その予兆があると記されています。突然やって来ることを、ここでは盗人、泥棒のたとえで言っています。確かにそうです。泥棒が、「いつ何時にあなたの家に盗みに入りますよ。」と言ったら、どこの家でもその日は寝ずの番をして、泥棒を撃退しようとします。しかし、主の再臨の時期は誰にも知らせないで、世の人々が、安全だ、無事だと安心している時に、突然、襲うと記されています。

そういう時代だからこそ、私たちは、生真面目に日曜日には礼拝に出席し、清い生活を心がけます。世間の人々から見たら、クリスチャンほどばかばかしい人々はいないと思っているのではないでしょうか。よく友達に会うと、「お前は真面目だよなあ、酒もたばこもギャンブルもやらない、何が楽しみで生きているのかなあ。」と冗談に交じりに言われます。それはやはり、イエス様がもうすぐ来るということを知っているからです。いかがわしい場所に行って、快楽にふけっているところに、突然イエス様が来られたらどんな言い訳をするでしょうか。

第一テサロニケの4:16を見てみますと、まず最初に合図の号令がかかります。それから大天使の声がします。何か、今から主が天から降って来られるという知らせがあると書いています。その時に、トランペットが全世界に鳴り響きます。どんな音でしょうか、全世界に鳴り響く音です。また、Ⅱテサロニケ1:7~9では、イエス様は、天使たちを率いて燃え盛る火の中を天から降って来られるとあります。そして、信じている者は、復活のからだに変えられて天に上げられ、信じていない者は、主の前から切り離されて、永遠の破滅という刑罰を受けると記されています。

この予告は、私たち信じている者が、更に信仰をしっかりと持って聖い生活を目指し、愛の絆を固く保っていることのために預言されています。クリスチャンが眠ってしまって、信仰を忘れることのないように警告しています。また、まだ、信じていない人は一日も早く主を信じて、共に神の子、光の子となって主のもとに帰ることを願って書かれております。

2.主の再臨に私たちはどう備えるか

このように、主の再臨が差し迫っている今日、私たち主を信じその到来を待ち望んでいる者は、どのようにしてその時に備えたらよいのかという点について、次に考えてみたいと思います。この第一テサロニケ5章には、その時を待つ私たちの在り方が、はっきりと記されています。私はここに、私たちの心の持ち方と、どのような生活態度で生きて行けばよいのかが記されています。

A)心の備え

「しかし、兄弟たち、あなたがたは暗闇の中にいるのではありません。ですから、主の日が、盗人のように突然あなたがたを襲うことはないのです。あなたがたはすべて光の子、昼の子だからです。私たちは夜にも暗闇にも属していません。従って、他の人々のように眠っていないで、目を覚まし、身を慎んでいましょう。眠るものは夜眠り、酒に酔う者は夜酔います。しかし、わたしたちは昼に属していますから、信仰と愛を胸当てとして着け、救いの希望を兜としてかぶり、身を慎んでいましょう。神は、私たちを怒りに定められたのではなく、私たちの主イエス・キリストによる救いにあずからせるように定められたのです。」(Ⅰテサロニケ5:4~9)

この最後の、「神は、私たちを救いにあずからせるように定められている。」という言葉に励まされました。私たちに、神に選ばれ救われました。私たちの救いの根拠は神にあります。ですから、主の再臨に際してあわてることも焦ることもなく、信仰と愛と希望をしっかりと保って、日々主に仕えて行く者でありたいと思います。神様は、私たちがイエス様の十字架の贖いによって罪赦されて、救いにあずかるように定めておられると言っています。ここに私たちの救いの根拠がありますので、動じることなく目を覚まして祈って行きましょう。

B)生活態度の備え

更に14節にこうあります。「兄弟たち、あなたがたに勧めます。怠けている者たちを戒めなさい。気落ちしている者たちを励ましなさい。弱い者たちを助けなさい。すべての人に対して忍耐強く接しなさい。」と言っています。仲間の中には、長い間教会を休んで信仰が鈍ってしまったり、あるいは病気になって気弱になって信仰を失いかけている人があるかもしれません。あるいは信仰が弱くて、人につまずいて休んでしまっている人もいるかもしれません。あるいは悪魔に誘われて、道を踏み外している人もいるでしょう。そういう人をお互いに厳しく戒め、叱り、時には励まし、助けなさいと言っています。 

このようにお互いに助け合い、励まし合うために私たちは、毎週こうして集まって来ます。そして主を礼拝し、共に交わりを持ちます。特に、教会学校の成人科においては、どんなに助けられたり、励まされたりしていることでしょうか。また、水曜祈祷会で共に膝を交えて祈り合うこともかけがえのない集まりです。私たち一人一人は、サタンと戦う祈りの戦士です。またそれぞれの家庭でスモール・グループを通して御言葉を学びながら、励まし合ったり、助け合ったりして伝道しています。

特にパウロが、私たちに勧めていることは、5:16~18の御言葉です。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」
クリスチャンでも、教会に行っていても、喜べないこと、喜べない時があります。祈れない時もあります。感謝できないこともあります。でも、神様が一番私たちに求めていること、そしてこの終わりの時に望んでいる私たちが、今一番大事にしなければならないことは、この喜びと祈りと感謝なんです。

3.こんな自分でも大丈夫か?

最後に、こんな自分でも再臨の時には、ちゃんと復活してイエス様のところに行くことができるのだろうか、果たしてそこまで自分が霊的に成長し再臨の時を待つことができるだろうかという疑問に答えてみたいと思います。正直申しまして、イエス様が再臨した時に、果たして自分はちゃんと信仰を持って復活のからだに変えられて、天に上ることができるだろうか。もしかしたら、クリスチャン失格者となって、地獄の火の中に投げ込まれるのではないだろうかという心配も正直言ってあります。

パウロはそのように不安を抱く私たちのためにこう言い切っています。5:
23から読んでみましょう。「どうか、平和の神御自身が、あなたがたを全く聖なる者としてくださいますように。また、あなたがたの霊も魂も体も何一つ欠けたところのない者として守り、私たちの主イエス・キリストの来られるとき、非のうちどころのないものとしてくださいますように。あなたがたをお招きになった方は、真実で、必ずそのとおりにしてくださいます。」(5:23~24)

パウロ先生自身も、私たちが本当に主の再臨にふさわしい聖なる者へと変えられるように、いや変えてくださるようにと神様に祈っています。そして、私たちの霊も魂も体も全てが、何の欠点もないものとなり、非のうちどころのないものにしてくださるようにと祈っていて下さっています。私たちは、このパウロの切なる祈りに支えられています。そして、最後に、真実な神様は、必ずそうして下さるはずですと断言しております。すなわち、わたしたちが主の再臨の時までに、何の欠点もない、非のうちどころのない、完全なパーフェクトなクリスチャンになるように成長させ、造り変えて下さるということです。(ガラテヤ6:15、Ⅱコリント3:17~18)

でも、私たちが呼ばれるかどうか、それはすでにイエス様の御心の中にあります。イエス様が、私たちに目をとめて呼んでくださり、こうして御前に招いてくださっているのです。主の再臨の時に、どうしてイエス様が私たちを呼ばないはずがあるでしょうか。こうして尊い救いに召されている私たちの名前が、呼ばれないはずはありません。

たとえ箸にも棒にもかからないようなクリスチャンでありましても、あるいは牧師の末席を汚すような、取るに足らない者でありましても、主は、必ず、私たちを訓練し、養い、成長させて下さり非のうちどころのないものとしてくださいます。何の欠点もない完全なものにしてくださいます。そのことを信じます。皆さんはどうですか。

ですから、今日からでもいいです。共に悔い改めて、もっと主の御そば近くに行きましょう。祈りをもって、賛美をもって、感謝をもって、礼拝をもって、愛の業をもって、福音宣教をもって、聖書の朗読と学びをもって主のみそば近くに、行こうではありませんか。私たちを救いへと招いてくださった方は、真実な方ですから、必ずそのようにして下さいます。だから、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことに感謝しなさい。」と言っているのではないでしょうか。そのような信仰の確信と感謝の心をもってこの年末年始を過ごしてまいりたいと願っています。         (岡田 久)

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