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不道徳を取り除く (Ⅰコリント5:1~8)

メッセージ

2013年4月21日富里キリスト教会

「不道徳を取り除く」
(Ⅰコリント5:1~8)

1.教会の性的不道徳の問題

「現に聞くところによると、あなたがたの間にみだらな行いがあり、しかもそれは、異邦人の間にもないほどのみだらな行いで、ある人が父の妻をわがものとしているとのことです。それにもかかわらず、あなたがたは高ぶっているのか。むしろ悲しんで、こんなことをする者を自分たちの間から除外すべきではなかったのですか。」(5:1~2)とパウロは言っています。

コリント教会の事例では、「父の妻をわがものとしている」というのです。これがどのような事情かということは詳しくは書かれていませんが、おそらく、自分の父親の後妻となった女性か、あるいは父との愛人関係にあったような女性かも知れません。その女性と性的な関係を持ち、なおかつ一緒に住んでいた息子がいたというのです。それが半ば公然となされていました。そして教会では何とも思わない、むしろ自分たちの処置を寛大だとさえ考えて高ぶってさえいました。しかし、ひそかに心痛めていた教会員の方が、パウロにそのことを知らせてきました。

このような性的に乱れた関係は、異邦人の間にもないほどのみだらな行為だと、パウロは言っています。女性の方は教会員ではなかったようです。そういう事件もさることながら、パウロを一番悲しませたことは、そういう不祥事を教会が放置していたということです。いやむしろ、放置しているどころか、高ぶっていると言っています。これは、自分たちはキリストの教会であるから、このようなみだらな関係を続けている兄弟に対して、大いなる愛と寛容をもって、自分たちが寛大な処置をとって容認しているということではないかと思います。

我々はキリストの愛の故に自由である。多少間違いはあっても、それは大した問題ではない。教会だからこそ、そういう行為も大目に見られてもいいのではないか、ましてやここはコリントの町だから、コリントの町の伝統と習慣から言えば、そういうことは大した問題ではないと考えていた節があります。ユダヤ人のクリスチャンのように律法的ならず、あまり固いこと言わなくてもいいじゃないですか。そんなことを言っていると、コリントでは伝道できませんよと言わんばかりです。このことがパウロを大いに悲しませ、聖なる怒りを持ってこの手紙を書かせたのでした。パウロの心の中では、すでにそのようなみだらな行為を行って、罪の意識も良心の呵責もない男性をすでに裁いていますと言っています。

2.教会総会と除名について

5:3から読んでみましょう。
「わたしは体では離れていても霊ではそこにいて、現に居合わせた者のように、そんなことをした者をすでに裁いてしまっています。つまり、私たちの主イエスの名により、私たちの主イエスの力をもって、あなたがたと私の霊が集まり、このような者を、その肉が滅ぼされるようにサタンに引き渡したのです。それは主の日に彼が救われるためです。」(5:3~5) 

「あなたがたとわたしの霊が集まる」ということは、教会総会の場で決定を下すということです。具体的にはどのようなことかと言いますと、私たちも先月教会総会を持ちましたが、コリント教会が直ちに臨時の教会総会を開いて、そのような不品行を公然と行っている者に対する教会の処分をはっきりとするようにということです。たとえパウロがその場に同席していなくても、その総会にはパウロも霊的な意味で出席して、教会総会の決議に賛同することにしているというのです。

その判断とは、このような者を、「その肉が滅ぼされるようにサタンに引き渡す」ことでした。これは一体どういうことでしょうか。尋常ではない表現ですし、教会らしくないずいぶんと厳しい処置のような気がします。サタンに引き渡すということは、具体的には除名あるいは除籍処分にしなさいということです。これがサタンの手に引き渡すということです。つまり、教会籍がなくなる、あるいは除籍されるということは、神の支配から外されて、この世の支配、即ちサタンの支配に移されるということです。

その目的は、彼の肉が滅ぼされるためであると言っています。つまり、肉の中には罪がありますから、彼がこれ以上、地上で自分自身を汚れるまましておかないように、サタンの試みにさらされるということではないかと思います。サタンの手にかかることによって、多くの試練や苦難の中を通されるということではないかと思います。そのような苦しみの中で、彼が真に悔い改めて本心に帰ることを願っているかもしれません。あるいは、もう一つの解釈は、これ以上罪を重ねて救いから漏れてしまうことのないように、彼の肉体を滅すこと、即ち死に渡されるということかも知れません。その時に、肉体は滅びますが、終わりの時つまり主の再臨の時には、彼の霊は救いにあずかることができるという解釈です。

3.古いパン種をきれいに取り除きなさい

5:6から読んでみましょう。「あなたがたが誇っているのは、よくない。わずかなパン種が練り粉全体を膨らませることを、知らないのですか。いつも新しい練り粉のままでいられるように、古いパン種をきれいに取り除きなさい。現に、あなたがたはパン種の入っていない者なのです。キリストが、私たちの過越しの子羊として屠られたからです。だから、古いパン種や悪意と邪悪のパン種を用いないで、パン種の入っていない、純粋で真実のパンで過越し祭を祝おうではないか。」(5:6~8)

つまり教会の中には、いつも新しい練り粉でできた純粋で真実のパンを用いて礼拝をしなさいということです。聖書では、パン種は良い意味でも用いられることはありますが、ふつうは悪い意味に用いられています。つまり、小さな塊でも、やがてはパンを大きく膨らませてしまうからです。たとえ小さなことでも、放っておくと教会全体に悪い影響を及ぼすということです。

また膨らむということは自分を誇るということ、中味がないのに酵母の出す炭酸ガスを使ってパンを膨らませ大きく見せようとするからです。ですからこの悪いパン種を、教会の中からきれいに取り除かなければなりません。私たちの交わりの中からも、悪いパン種である自分を誇るということや、分裂分派や、不道徳な行為や悪いことを徹底的に取り除く必要があります。教会の中にそのままに放置してはいけないということです。

私たちの礼拝も、古いパン種である自分を誇ることや悪意とか邪悪といったものを一切除き去って、キリストの御言葉という新しい純粋なパンをもって礼拝をしなさい、それが主にある兄弟姉妹の礼拝であり、交わりなのですとパウロは勧めています。教会の中の純粋さと真実を保つことです。たとえ一粒であっても、古いパン種を教会に留めておいてはいけないと言っています。

4.不道徳な者を裁きなさい

最後の聖書個所を読んでみましょう。5:9からです。「わたしは以前手紙で、みだらな者と交際してはいけないと書きましたが、その意味は、この世のみだらな者とか強欲な者、また、人の物を奪う者や偶像を礼拝する者たちと一切つきあってはならない、ということではありません。もし、そうだとしたら、あなたがたは世の中から出て行かねばならないでしょう。わたしが書いたのは、兄弟と呼ばれる人で、みだらな者、強欲な者、偶像を礼拝する者、人を悪くいう者、酒におぼれる者、人の物を奪う者がいれば、つきあうな、そのような人とは食事も一緒にするな、ということだったのです。外部の人々を裁くことは、わたしの務めでしょうか。内部の人々をこそ、あなたがたは裁くべきではなりませんか。外部の人々は神がお裁きになります。『あなたがたの中から悪いものを除き去りなさい。』」(5:9~13)

パウロは教会の外部の人は神様が裁きますが、あなたがたは、教会の内部の人を裁きなさいと言っています。これは少し厳しい言葉のような気がします。特に「兄弟と呼ばれる人で」とありますが、これはクリスチャンで、教会員の中でということです。とりわけ、「みだらな者」というのは性的な不道徳を何とも思わないで、公然と教会の中でふるまっている人です。もちろん隠れてしていることも罪です。「強欲な者」、「偶像礼拝をする者」「人を悪くいう者」「酒におぼれる者」「人の物を奪う者」がいれば、そういう人とは付き合わないように、また一緒に食事をしてもいけないというのです。

それは何故かと言いますと、そのような悪いことをする人と付き合う人は、本人が知らず知らずのうちに、その悪の中に引き込まれてしまう危険性があるからです。サタンは巧妙ですから、解らないように兄弟姉妹を小さな悪の中に誘い込みます。もし、ここに述べられているような六つの悪が解ったならば、それを取り除かなければなりません。そのためには、その罪を明らかにすることです。そして食事もしてはいけないということです。もちろん、そういう人は自分でも悪いことをしているなということはうすうす気がついてはいると思いますが…。

そのことを指摘し、注意し、時には叱ることも大事だと思います。それでも止めない場合には、付き合わないようにしなさいとパウロは言っています。臨時総会を開いて、その悪を会衆の前に明確にし、悪から離れるように教会全体として勧告し処罰することです。大事なことはそのような悪いことを、隠したままにして置いたり黙認していてはいけないということです。そうしますと、どんどんと悪いことをエスカレートさせてゆきますから、早めに指摘することです。その方が、将来的にはその人のためにもまた教会のためにもプラスになるからです。

教会も牧師も、そのような小さな罪や悪には目をつむることなく、また見逃すことなく、信仰を持ってしっかりと対応して行くことを教えられました。みだらなことを行うことや偶像を礼拝することだけではなく、人を悪くいう者つまり悪口を言う者も厳しい処分を免れません。「内部の人々をこそ、あなたがたは裁くべきではありませんか。」とパウロは言っています。お互いに、時には厳しく指摘し合うこと、叱責することも教会の真の兄弟姉妹の交わりの証明ではないでしょうか。そのような相互批判、相互牧会を通して富里教会が聖められて、霊的にも成熟した教会になって行くことを願っております。  (岡田 久)

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