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不安から生まれる偶像という虚構 (出エジプト32:1~14)

メッセージ
2020/09/27
富里キリスト教会礼拝説教
「不安から生まれる偶像という虚構」
(出エジプト32:1〜14)

①偶像を作る人間の罪
イスラエルの民は荒野の旅の中シナイ山へとたどり着き、十戒、律法が与えられ、それを受けてイスラエルは神の民として生きることを主と約束、契約をしました。イスラエルの民はモーセを通して神様の言葉を聞き、

「わたしたちは主が語られたことを全て行い、守ります。」

とはっきりと神様に約束をしたのです。
そして、その後モーセはその教えと戒めを記した石の板を授かるために再びシナイ山に登り、四十日四十夜こもったのでした。そこでモーセは幕屋建設に対する細かい指示を受け、神様が語り終えた後、神の指で記された石の板を授かります。まさに契約の完成の瞬間といっても良いでしょう。ある意味出エジプト記のクライマックスです。モーセのテンションもマックスだったことでしょう。しかし、その一方でその時、イスラエルの民はとんでもないことをしでかしていました。この落差たるやとんでもないものです。これが今日の物語になります。

32:1−2
「モーセが山から中々降りてこないのを見て、民がアロンのもとに集まってきて、『さあ、我々に先立って進む神々を造ってください。エジプトの国から我々を導き上った人、あのモーセがどうなってしまったのか分からないからです』と言うとアロンは彼らに言った。『あなたたちの妻、息子、娘らが着けている金の耳輪をはずし、わたしのところに持って来なさい。』」

シナイ山から四十日四十夜、いつまでたってもモーセが帰ってこないことにイスラエルの民は不安を覚えました。この不安が、神への信頼を神への疑いへと変え、罪を生んでしまいます。不安だから私たちのために神を造ってくれとアロンに頼むのです。人が神を、自分たちを導く、ものいわぬ神を造ろうとしたのです。とても都合のいい存在です。自分たちの不安を消すため、欲望を満たすために人が造り上げたものが偶像といえるでしょう。偶像礼拝とは、その行為そのものよりも、偶像を求めるその心にこそ罪の問題があるのです。
この民の要望に対してアロンは押し負けてしまいます。アロンは金の耳輪を出すよう提案します。そういったら出すことを惜しみ、考え直すかもしれない。そう思ったのかもしれません。しかし、それが裏目に出ました。なんと、民は喜んで金の耳輪を出したのです。不安によって盲目となった民はもはや、常軌を逸していました。そのような民に同情してしまったのか、圧力に耐えきれなかったのか、とにかくアロンは妥協してしまい、偶像を造ることを許してしまいます。
これは、どれだけ周囲から圧力をかけられたとしても絶対にやってはいけないことでした。この金の仔牛像の罪は今後、イスラエルの代表的な罪として何度も旧約聖書の中ででてきます。偶像礼拝の罪は非常に重いのです。十戒の最初の戒めです。最も大切な事柄だといってよいでしょう。私たちはどのような状況にあっても生けるまことの神のみを神とし、逆にまことの神以外のもの、神ならぬものを神としては決していけないのです。
これは、他宗教を信じるなという単純な話ではありません。人間が自分にとって都合の良いものを神として造り上げてしまうことが問題だと言っているのです。アロンは金の仔牛像を指し「これこそあなたの神々」だと宣言しました。人間が神を造り上げ、人間がこれが神だと宣言する。主導権を完全に人間が握ろうとしているのです。これはもはや自分自身が神となっていると言って良いでしょう。偶像礼拝とは本質的に自分自身を礼拝していると言えるのです。
これは、厳しいようですが神に造られた被造物である人間の神に対する反逆だと言えるものではないでしょうか。そして、それらの偶像礼拝から生まれるものは人間にとって非常に都合のよいものです。商売繁盛、家内安全、健康、子宝、恋愛、学業成就。そのような人間が生きていく中で求める願望、いわゆる現世利益を叶えてくれることを求める存在です。
それらの願い自体は必ずしも悪いものとは言いませんが、人間がその願いを叶えるために神を造り上げることはとても空しいことです。偶像という言葉は木や石を掘る、切り取るという動詞に由来していますが「無いもの」を意味する呼び名があり、無いという意味から空しいという意味にも使われています。
無いもの、存在しないものにお願いすることほどむなしいことはないでしょう。私たちは「私はある ヤハウェ」と力強く宣言されるこの世で唯一存在される生けるまことの神様を信じているのです。そして、その神さまが私たち人間を造られたのです。人が神を造るではなく、生けるまことの神様が私たち人間を造られた。私たちは造る側ではなく、造られた存在なのだ。そのような認識がとても大切ですし、そこにこそまことの喜びがあるのです。

②偶像礼拝のむなしさ
ここで、少し注目したいのは、彼らは完全に主なる神、ヤハウェを忘れたわけでもなかったことです。金の仔牛像をエジプトから導き出した神だとも言っています。霊で見えない神様を見えるように具現化して、それを主と崇めたのでした。もちろんそれも十戒の第二戒を破る大きな過ちなのですが、それによってイスラエルの民たちは後ろめたさから目をそらすようにどこか自分たちにいいわけしていたのかもしれません。「まあ、違う神様に乗り換えたわけでもないし。これぐらいはいいんじゃないかな。」こういった感じだったかもしれません。
しかし、それは神様がお決めになったことではなく、彼らが勝手に判断して決めたことでした。小さな妥協のつもりでも、その認識が状況をさらにタチの悪いものとします。彼らは、祭壇を築き祭りをおこない、全焼のいけにえ、和解のいけにえをささげ、座って飲み食いし、立っては戯れました。
全焼のいけにえや和解のいけにえはレビ記でも規定されているれっきとした正しい律法です。しかし、座っては飲み食いし戯れた。これはカナンの偶像礼拝者が常に行っていることを表す表現です。そして、この戯れとは当時の異教によく見られた性的に乱れた不品行を表しています。つまり、これはまことの主への礼拝と異教の宗教行事とがごちゃまぜになっているのです。
アロンは主の名を祭のうちに保持することによって神の礼拝の外観を維持しうる希望を持っていたかもしれません。もしかしたら、ぱっと見はどこか礼拝しているように見えたかもしれません。しかしその中身は本当に最悪でした。もはやカオスです。外面だけ取り繕っても、その中身、心の中心には神はいませんでした。人間中心、自己中心がそこにありました。偶像礼拝という名の自己礼拝です。でも民はその事実に気づいていません。むしろ良いことをしているとすら思っていたことでしょう。私たちは今、神様を礼拝しているんだ。と。
本来良いものであってもいつの間にかそれが偶像となってしまう。そういうことは私たちにも往々にしてあります。牧師、教会、仕事、奉仕、ときには家族ですら偶像になりうることを私たちは気をつけねばなりません。
牧師のいうことは全て正しい、牧師先生こそ私のよりどころだ。逆に牧師が、この働きは私のものだ、この教会は私がいなければだめだ、ここは私の教会だ。仕事こそ私の生き甲斐だ。これがなければ生きている意味がない。家族が私の全てだ。神様よりも大切なものだ。この奉仕は私だけのものです。私がやるべきだし、私を外すというのであれば、別の教会に行きます。厳しいことを言うかもしれませんが、これらは全て偶像礼拝です。あなたの心の中心には何がいますか。そこに神様以外のものがあるのであればそれはあなたの心に潜むもっとも厄介な偶像です。
ただ、それが罪だと責めているわけはありません。これはどれほど信仰が成熟していたとしても、誰にでも起こりうることですし、何より語っている私自身が一番受け止めなくてはいけない言葉だと思っています。牧師こそが一番この罪に陥りやすいかもしれません。サタンが熱心さを利用して狡猾にすっと心の中心をいつのまにかすげ替えてしまうのです。そのため、私たちは常に自分を振り返り、自己吟味し心のメンテナンスをする必要があるのです。その都度気づいて立ち返れば大丈夫です。今日がその一つの機会であるように思います。それゆえに語っております。

③モーセのとりなし
話を聖書に戻しましょう。このイスラエルの民の有様を見て、神様はお怒りになられます。エジプトからその力強い御手で、民を救い出し荒野の道のりも常に守られ、マナなどの食べ物も主は与えられました。その恵みを受けて民は、「わたしたちは主が語られたことを全て行い、守ります。」と固く約束を結んだにも関わらず、言ったそばから彼らは堕落し、神に背を向け偶像礼拝を始めたのです。神様は、怒りとともに大きな悲しみを持たれたことと思います。
本当に滑稽なイスラエルの民の姿です。しかし、この姿をだれも笑うことはできないでしょう。これが、愚かで弱い人間の現実の姿であることをしっかりと踏まえたいのです。教会につながり、信仰決心に至り、救われ、あんなに神様のためにとか言ってたのに、すぐ忘れ、疑ってしまう。私なんかは本当に彼らの姿が自分自身に見えて仕方がありません。
神様はこのように愚かで頑なな民を滅ぼし、モーセだけを生かし、大いなる民にするとまで言われました。これを聞いたモーセの反応はどうだったでしょうか。自分の栄誉を取るか、それとも民のために命がけで神様を説得するか。みなさんだったらどうしますか?ある意味究極の選択を迫られた時でした。
モーセの選択は神様と民の間に入り、命がけでとりなしをするということでした。モーセは本当に愛が深いですね。モーセはここで大きく分けて3つのことを言いました。
一つは、イスラエルは神ご自身が救われた「ご自分の民」であるということです。モーセはこのことを強調しました。そして二つ目は、民を滅ぼしたらエジプト人から神ご自身が笑われてしまうということでした。さいごに、三つ目はアブラハムから続く契約の効力の永続性についてです。あなたはどこまでも契約に誠実なお方ではないですか。モーセはそのようにとりなします。民のためでもありながらモーセは、神ご自身のご性質に訴え、なにより主の御名が汚れないためにもと必死にとりなすのでした。願わくは御名があがめられますように、という祈りです。このモーセのとりなしの祈りはみこころにかなったものでした。彼の心の中の中心は自分ではなく、神と隣人への愛でした。このモーセの姿を見て神様は思い直されました。

④思い直す主に表れるキリストの十字架
主はこのモーセの必死な捨て身の姿を良しとされ、思い直されたのです。この思い直すと訳されている言葉は原語でナーハムと言い、この言葉の語幹は「憐れむ」という意味でも用いられます。この言葉が旧約聖書で神さまに関連して用いられているのは約30回ほどあり、その多くは神さまがその愛と義のゆえに心と態度を変えられる場合に用いられています。
主は、モーセを憐れんだゆえに思い直されたのでした。それは、モーセのこのとりなしが、自分の命を差し出してでも彼らを助けたい。それほどの覚悟が備わった祈りだったからです。現にこの後モーセは再び、民をとりなす時があるのですがそのとき、このように言っています。

32:32
「今、もしもあなたが彼らの罪をお赦しくださるのであれば・・・。もし、それがかなわなければ、どうかこのわたしをあなたが書き記された書の中から消し去ってください。」

この切実なモーセの思いによって主の憐れみが起こされたのです。この命をかけてとりなすモーセの姿を見て、みなさんはあるお方の姿が浮かんできませんか。そうです、イエス様です。イエス・キリストの十字架です。モーセのこの姿は、まさに石を投げられ、唾を吐く者たちに対して「父よ、彼らをおゆるしください。自分が何をしているのか知らないのです。」と十字架上でとりなされたイエス・キリストの姿そのものです。そしてイエス様は復活され、天に昇り、今もなお罪深い私たちのためにとりなし続けてくださっているのです。
モーセの姿を見て、父なる神様は憐れまれました。しかし、もっと言えばこの命をかけて民をとりなすモーセの姿すらも、人の罪をとりなすイエス・キリストの憐れみそのものが表れているように思います。思い直す神、命をかけてとりなすモーセ。ここにあるのは神と人の姿ですが、ここに愛と憐れみに満ちた父、子、御霊の三位一体なる主なる神様そのもののお姿が見えます。

◎結
今日の箇所の中心ポイントは偶像礼拝、そしてとりなしでした。私たちは目に見えるわかりやすい偶像だけでなく、目に見えない心の奥に潜んでいる偶像にいつの間にか流され、心の中心を神様から違うものにしてしまう。そんな弱さ、愚かさをもつ罪深い人間です。しかし、そんなどうしようもない人間でありながらも、その罪をとりなし憐れんでくださる神様がおられるのです。その憐れみが最大限に表されているものがイエス・キリストの十字架です。主は、その憐れみのゆえに私たちの全ての罪への怒りをご自身で全て受け取ってくださったのです。ただただ、私たちを愛するゆえの救いの御わざです。
その深い神の愛と憐れみを受け、私たちは2度と神を悲しますまいと偶像から離れ、心の中心に神様を置いて、神を中心として生きていこうではありませんか。そして、その主に憐れまれた者として、クリスチャン、ノンクリスチャン問わず、今もなお偶像に取り付かれている者をさばくのではなく、その人のためにとりなし、祈る者となりましょう。なぜなら、私たちも今なお、大牧者であられるイエス・キリストにとりなされている者だからです。
人間の不安、願望が目に見える形で現れた偶像、しかしその実態は存在しない空しいものです。また、人間の願望、欲望という偶像は目に見えなくともいつの間に心の中心を占め、それによって自分自身を苦しめます。これもまたむなしいものです。しかし、見えない霊でありながらも「わたしは在る」とその存在を高らかに宣言される生けるまことの神様が真におられます。そしてそのお方は愛と憐れみのゆえに人となって見える形で現れ、全ての罪を贖ってくださったのです。生けるまことの神様はこのようなお方なのです。この生けるまことの神様のみを私たちの主として、生きてまいりましょう。

武井誠司

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