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万物の終りが迫っている (Ⅰペテロ4:1~11)

メッセージ

2013年12月29日富里キリスト教会歳晩礼拝

「万物の終わりが迫っている」
(Ⅰペテロ4:1~11)

1.欲望の生活はもう十分です

今日の個所を読んでみましょう。「キリストは肉に苦しみをお受けになったのですから、あなたがたも同じ心構えで武装しなさい。肉に苦しみを受けた者は、罪とのかかわりを断った者なのです。それは、もはや人間の欲望にではなく神の御心に従って、肉における残りの生涯を生きるようになるためです。かつてあなたがたは、異邦人が好むようなことを行い、好色、情欲、泥酔、酒宴、暴飲、律法で禁じられている愚像礼拝などにふけっていたのですが、もうそれで十分です。あの者たちは、もはやあなたがたがそのような乱行に加わらなくなったので、不審に思い、そしるのです。彼らは、生きている者と死んだ者とを裁こうとしておられる方に、申し開きをしなければなりません。」(Ⅰペテロ4:1~5)

この終わりの時に臨んで生きている私達は、心の武装をしなければなりません。それは、信仰を持った後でも、この世の罪や悪が絶えず私たちの心を狙って誘惑し、神様から引き離そうとして働くからです。私たちは、弱い者です。たとえバプテスマを受けた後でも、罪の誘惑に負けてしまうことがあるかもしれません。お金に手を出してしまうことがあります。女性に手を出してしまうことがあるかもしれません。そして、痛い経験をして、初めて心から悔い改めて、もう一度やり直します。苦しい思い、痛い思いをしなければ、心から悔い改めないような頑固な私たちです。でもその繰り返しが、信仰生活かも知れません。

ペテロもそういう肉に生きていたクリスチャンに対して、「もうそれで十分です。」と言っています。クリスチャンなのに、いつまでそんな生活を続けているのですかと戒めています。クリスチャンでありながら、好色、情欲、泥酔、酒宴、暴飲、偶像礼拝に明け暮れていた人々に対して、もういい加減にしなさい、肉にどっぷりつかった生活はその辺でやめておきなさいと言っています。今は、昔のようにそんなことにうつつを抜かして生きている時代ではない。もうすぐキリストの再臨が起こる最期の時に差し迫っているのだから、いい加減に目を覚ましなさいと言っています。

2.祈り、愛、もてなし

イエス様がいつ来られてもいいように、常に目を覚ましていることです。主は必ず、思いがけない時にやって来られます。その時まで、私たちはどのような生き方をしたらいいかが、4:7以下に書かれてあります。「万物の終わりが迫っています。だから、思慮深くふるまい、身を慎んで、よく祈りなさい。何よりもまず、心を込めて愛し合いなさい。愛は多くの罪を覆うからです。不平を言わずにもてなし合いなさい。」(4:7~9)私たちの信仰生活の、基本がここに三つ述べられています。一つは「祈りです」。そして「愛し合うこと」と「もてなし合うこと」です。 

A.「思慮深くふるまい、身を慎んで、
よく祈りなさい」

そして、私たちの祈りの生活が妨げられないためには、二つのことが求められています。「思慮深く振舞うこと」と「身を慎むこと」です。「思慮深く」は英語では「Clear Minded」となっており、「身を慎む」はSelfcontrolled となっております。つまり、良い祈りができるためには、常に自分の心をクリアにしておくことです。心の中に、何か人を許せない、苦い思いや憎しみなどと言った固い心を持っていては、御旨にかなった祈りになりません。

また、自分自身をコントロールして神に喜ばれる生活、敬虔な信仰深い生活を心がけて行かなければ祈りに精彩を欠きます。先ほど申しましたように、毎日飲んだくれた生活をしていては、祈りどころの話ではありません。自分の生活をコントロールして、規則正しく決められた時間に祈る、夜更かしはしない、アルコールは控えめにする。みだらな映画や画像を見ない。3節にありますように、「かつての古い自分のように、好色、情欲、泥酔、暴飲暴食におぼれないことです。」そういう生活はもう十分しただろう、いい加減眼を覚ましなさい、そして、これからは努めて祈りの生活に励みなさいというのです。

B.「心を込めて愛し合いなさい」

祈りともう一つ、この終わりの時に必要なことは、心を込めて愛し合うことです。なぜなら、愛は多くの罪を覆うことになるからです。私たちが、うわべだけではなく、心から愛し合うことによって、相手の罪を覆い隠すことができます。人間は誰でも弱いです。クリスチャンであっても罪を犯すことも失敗することもあります。罪を犯した本人はもちろん、自分の罪を悔い改めなければなりませんが、問題は傷つけられた方の人が、相手の罪や過ちを赦すことができるかどうかです。

私たちは、自分を傷つけた相手を赦すことができずに、信仰を持っているが故に、悩み苦しみ呻くときがあります。眠れない時があります。拭い去っても、拭い去っても、いつまでもしつこくまとわりついて来る憎しみや怒りがあります。

有名な主の祈りの中の第五番目の祈りです。「我らに罪を犯すものを、我らが赦す如く、我らの罪も赦したまえ。」という祈りです。「自分に罪を犯したものを、わたしが赦しましたから、わたしの罪をも赦して下さい」という祈りです。この主の祈りでは、相手の罪を赦すことなく、自分の罪ばかりを赦して下さいと願うのは、正しい祈りではないと言っています。先ほどの祈りのところでも、クリアマインド(Clear minded)で祈りなさいと言いました。明らかな心、苦い根や固い石を取り去ってから祈りなさいと言いました。これが、「愛は多くの罪を覆うからです。」ということではないでしょうか。赦し合える教会です。

C.「不平を言わずにもてなし合いなさい」

愛があり、熱心に祈る教会ならば、そこには自然におもてなしの心があります。しかも、ぶつぶつ言って、いやいやながらおもてなしをするのではなく、皆さんよろこんで自分の家に皆さんを迎え入れています。日本の教会ほど、牧師が信徒の家に入るのが難しい国はないと言われています。心が、開放されていないからです。家の中と表と態度や生き方が違うのです。表の顔は信仰深くても、家の中では、この世の人と同じように神のない生活をしているならば、誰も家に入れたくはありません。自分のきたない醜い部分を見られたくないからです。

おもてなしどころではありません。「おもてなし」ではなく「お断り」の生活です。英語の聖書では、「おもてなし」は「Hospitality」となっています。このおもてなしは、バプテスト教会の特徴のようなものです。バプテストと言ったら、おもてなしのアットホームな教会というのが特徴です。どこの教会に行っても、バプテストの雰囲気があります。先日初めて礼拝に来られた恒松睦子さんも、
「バプテスト教会で生まれて、バプテスト教会に来れてよかった。」とおっしゃっておられました。

3.神の栄光のために

最期に私たちの奉仕は、自分のためでも、誰かのためでもありません。神様の栄光のために行うものです。10節から読んで終わりにしたいと思います。「あなたがたはそれぞれ、賜物を授かっているのですから、神のさまざまな恵みの良い管理者として、その賜物を生かして互いに仕え合いなさい。語る者は、神の言葉を語るにふさわしく語りなさい。奉仕をする人は、神がお与えになった力に応じて奉仕しなさい。それは、すべてのことにおいて、イエス・キリストを通して、神は栄光をお受けになるためです。栄光と力とが、世々限りなく神にありますように、アーメン。」(4:10~11)

神の御言葉を語る者も、教会の中のいろいろな奉仕をする者も、神様がその人にお与えになった力に応じて奉仕をしなさいと言っています。自分ができないことは、無理にする必要はありません。今現在の自分に与えられている賜物、信仰の程度、霊的な力に応じて、できる範囲でベストを尽くせばいいというのです。説教のうまい下手の程度の差はあってもいいのです。自分が今できることを精一杯やればいいのです。

なぜなら、教会の奉仕は、自分でやっているというのではなく、神様がその人に霊的な賜物を与えて用いているからです。私たちは単なる管理人に過ぎないのです。主人は神様です。用が済めば、神様が「はい、もうあなたは引退してもいいですよ。」と言って下さいます。私たちの進退は、神様が決めるのであり、人事権は神様が持っているのです。ですから、教会の奉仕はいくら自分がしたいと思ってもできないし、逆に自分はしたくないと思っても、神様が命じることですからしなければなりません。私たちに必要なことは、主に従うという従順な心です。

ですから、私たちはもっともっと謙虚になって、神様がこのような私をも用いてくださいますならば、感謝です。と言って、自分の与えられている力に応じて奉仕をすればいいのではないでしょうか。これが、この万物の終わりの時に臨んでいる私たちの生き方なのです。万物の終わり、地球の最期が近づいているからと言って、焦る必要もうろたえる必要もありません。自分が今置かれているところで、精いっぱい仕えて行くことです。「祈り」と「愛」と「もてなすこと」、そして今自分に委ねられている奉仕を精一杯取り組むことが、この万物の終わりの時代に生きるキリスト者の生き方なのです。    (岡田 久)

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