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万民の祈りの家 (イザヤ56:1~8)

メッセージ
2018年11月4日富里キリスト教会
「万民の祈りの家
(イザヤ書56:1~8)
1.異能人と宦官の救い

当時、イスラエルの民の中には、外国人の人々もいました。彼らは神の救いに入っていない民として、「異邦人」という名前で呼ばれていました。また、他にも宦官という人々もいました。彼らは、王妃や宮廷に仕えるために、男性でありながら、去勢されて仕えていた人々です。そういう人は神の集会に集うことはできないと律法では礼拝参加を禁止されていました。(申命記23:2)イスラエルの社会にあっては、たとえ信仰共同体でありましても、差別されていた人々がいたのです。

わたしたちの群れの中ではどうでしょうか。そういうことはないでしょうか。わたしは外国人だから、救いから外れているとか、教会では肩身が狭い思いがするとか。先日、転入会の決心をされました菅原りつ姉が、今週から転入会のための準備クラスに出席しております。菅原姉は、バプテスト教会の方ではありませんでしたので、もう一度バプテスト教会とは何かという、わたしたちの教会の主義主張についてしばらく学ぶことになっています。

同じクリスチャンであり、プロテスタント教会に属していても、出身教会が違うことによって学びをしてからバプテスト教会の仲間に加わるのですから、当時異邦人であったり、宦官として体に傷をつけているということが分かった時には、明確に区別されていたわけです。ですから、同じ信仰者でありましても、そういう方々がどんなにつらい思いをしたかということです。でも預言者イザヤは、こういっています。「主のもとに集ってきた異邦人は言うな、主はご自分の民とわたしを区別される、と。宦官も、言うな、見よ、わたしは枯れ木にすぎない、と。」(56:3)

自分が劣っている、神への信仰の点において、肩身の狭い思いがするというように、自分を卑下してはいけないと言っています。子供を産むことができないから、自分は枯れ木のような存在だと卑下することはないのです。(優生保護法の違法性)これからは、異邦人であろうとユダヤ人であろうと、健常者であろうと、生涯があろうと、宦官であろうとそういう区別や差別は一切退けられたのであって自分を卑下する必要はないと言っています。あなた方は大手を振って、主の民としてわたしののもとに来なさいと言っています。

But there are some people who was called foreigner and eunuchs among the Israelites. They felt prejudice and discrimination. They said
“The Lord will surely exclude me from his people and I am only a dry tree.” (56:3) Do you feel like that? Our church invites anybody who want to be involved our membership . We will never discriminate by his birth and nations and races and disorders and handicaps. We are all the family of the God. And we are brothers and sisters in Christ.

2.安息日を守り、恵みの業を行いなさい

大事なことはどんな国籍であろうが、生まれがどうであろうが、身体的に障害や欠点があろうが、そういう者は神の前では何ら問題にならないということです。何人であろうが、どんな欠点を持っていようが、大事なことは安息日という礼拝の日を守り、神との契約を守ること、つまり神の御言葉に従うことが大事なのです。

「なぜなら、主はこう言われる。宦官が、わたしの安息日を常に守り、わたしの望むことを選び、わたしの契約を固く守るなら、わたしは彼らのために、とこしえの名を与え、息子、娘を持つに勝る記念の名を、わたしの家、わたしの城壁に刻む。その名は決して忘れられることがない。また、主のもとに集ってきた異邦人が、主に仕え、主の名を愛し、その僕となり、安息日を守り、それを汚すことなく、わたしの契約を守るなら、わたしは彼らを聖なるわたしの山に導き、わたしの祈りの家の喜びの祝いに、連なることを許す。彼らが焼き尽くす献げ物といけにえをささげるなら、わたしの祭壇で、わたしはそれを受け入れる。わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる。」(56:4~7)

自分の生まれや、出身や人種や民族で人は区別されない、また自分の肉体的精神的障害や欠点でも区別されない。大事なことは、「常に安息日を守る」ことです。そして神様との「約束を固く守る」ことです。そして神様の望むことを行い、主を愛し、その御名を尊び、主の僕となって仕えることが求められています。今日の教会に当てはめますと、バプテスマを受けて教会員となったという形だけのクリスチャンではなく、毎週の礼拝をきちんと守り、神を第一とした生活をし、神様の御言葉を読み、その御言葉に従う生活です。(岩波先生のアシュラム、「朝の5分があなたを変える。」)

礼拝を第一として、何があってもまず主の前に出る礼拝第一の生活をする人のことです。「神の国と神の義をまず求めなさい。」という生活をすることです。もしバプテスマを受けても、また教会員となって名前が記されても、その人が礼拝にも来ない、祈りも聖書も読まない生活に堕落して行ったらその人はどうなるでしょうか。受けない方が良かったとさえ言いたくなります。何のためのバプテスマなのでしょうか。せっかくの神様の恵みが無駄になってしまいます。

そして残念ながらそういう人が多いのです。昨年2017年度までのバプテスト連盟全体で見てみますと、在籍会員が33,689名、現在会員が14,212名となっています。つまり、在籍から現在会員を引いた残りの19,477名が、幽霊会員、他行会員となっているということです。バプテスマを受けた人の内58%が礼拝を守らない、月約献金もしないで他行、別帳会員になっているということです。単純に言いますと、10人バプテスマを受けて6人は来なくなっているということです。

その理由は何かと言いますと、これはもうはっきりしています。「安息日を守らない」ということです。まず信仰生活で第一のこの安息日、今日で言いますと主日礼拝を守らないということです。一回休んで、また休む、もう三回休んでもなんともなくなると、それが普通になってきて礼拝を守らなくてもいいようになります。牧師から見て、礼拝を2回休むとイエローカード、3回休むとレッドカードが出てしまいます。皆さんどうですか、普通は1回休んだだけでも、その週は何か気分が悪くなったり、落ち着かなくなったりします。生活がうまくいきますか?いかないですね。そして次の週に礼拝に出て、やっと落ち着きます。生活が安定します。そういうことはないでしょうか。

皆さん覚えているでしょうか。9月の岩波先生の特別礼拝を。先生も、バプテスマを受けても来なくなる人が10人のうち6人もあるということで、何とかしてそういう人を出したくない、どうしたらいいだろうかと考えてアシュラム運動を始めました。「朝の5分があなたを変える。」この朝の5分を取らない人が実に多いのです。バプテスマを受けたときは、一生懸命やりますが、そのうち日々の生活の中でも祈らなくなってきます。聖書からも遠ざかってきます。すでに信仰の火が消えかかっています。

そういうクリスチャンが何とか生き延びるために、わたしたちの教会では「拡大する人生」をするようにしています。子の学びも、信仰生活の最初に、「まず真剣になって朝の静聴の時間を持ちましょう」という所から始まっています。主の安息を守らなくなる人の、パターンは決まっています。「朝の5分の祈る時間聖書を読む時間をとっていない」ということ、そして「真剣に信仰生活に取り組んでいない」ということです。つまり自分の生き方に真剣味が欠けている人です。こういう人は、やがて残念ながら消えてゆきます。

God says “To the eunuchs who keep my Sabbath, who hold fast to my covenant. I will give them an everlasting name. ・・・and to the foreigners who keep the Sabbath and hold fast to my covenant. I will bring them to my holy mountain and give them joy in my house of prayer.” (56:4-7) The God says to foreigners and eunuchs not to

discourage yourselves. It is most important thing that is not your birth and nations and races and handicaps and disorders but your good behaviors to keep the Sabbath and obey to the God’s word.

There are many ghost members in our churches. They have only baptized and then they did not read the Bible and did not pray to the Lord and did not keep the Sunday worship. They have left our communion unfortunately. Brothers and sisters let keep our Sunday worship every week and read the bible everyday and pray to the Lord every morning earnestly and seriously.

わたしたちはもっともっとへりくだる必要があります。バプテスマを受けた、会員になったというのは、信仰生活のスタートです。これから一生懸命主日礼拝を守り、聖書を学び、祈りに専念しますということのスタートに立ちましたということなのです。それが受けたとたんにどうして、それを忘れてしまっていてよいのでしょうか。自分たちがなぜ救われたのかをもっとへりくだって、謙遜になって勘上げてみる必要があります。わたしたち異邦人の救われたのは、本来は神というものに何のかかわりもなかったものが、イエス・キリストの十字架の贖いによって神の子とされ、恵みによって無償で霊のイスラエルに加わることが赦されたものです。祈ることを許されたものです。

3.へりくだって祈る教会

57:15にこうあります。「わたしは、高く、聖なるところに住み、打ち砕かれて、へりくだる霊の人と共にあり、へりくだる霊の人に命を得させ、打ち砕かれた心の人に命を得させる。」と。つまりわたしたちは罪赦されたものです。いかに自分が罪深いものであるかということです。その自分の罪に気づかせてもらい、無条件で罪赦されて神の前に立つことを赦されたものです。その尊い救いの恵みを忘れていないでしょうか。そもそも自分の罪を知っているでしょうか。自分の罪に気づいているでしょうか。そのことなしには、この恵みは解かりません。

先週、学んだあのダビデのように、自分の犯した罪の大きさに気づいているでしょうか。何か善人になろうとして信仰に入ったのでしょうか。慈善活動をするために信仰に入ったのでしょうか。信仰とは、自分のこの奥深い罪の事実に圧倒されて、神の前に只ひれ伏すことによってのみ知ることができるものです。聖書はすべてこの罪からの救いだけが書かれています。神とわたしたちを繋ぐものは、この罪の赦しの一点のみです。

そういうへりくだった魂に対して、神様はご自分のお名前を示してくださいました。誰でも「イエス様!」「神様!」と呼べば応えてくださるようにしてくださったのです。それが祈りです。罪を赦してもらった者だけが、呼ぶことのできる特権です。ですから56:7に「わたしは彼らを聖なるわたしの山に導き、わたしの祈りの家の喜びの祝いに、連なることを許す。彼らが焼き尽くす献げ物といけにえをささげるなら、わたしの祭壇で、わたしはそれを受け入れる。わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる。」(56:7)とあります。

わたしたちが主の安息を守り、主に仕え、主の名を愛し、その僕となって主に仕え、その約束を固く守るならば、「祈りの家の喜びの祝福に連なることを許す」と言っています。わたしたちは神様に赦されて祈りの家に入ることができるのです。それは何にも代えがたい喜びの時間です。ですから、自分で朝の5分を祈りとか、寝る前に祈るとか、午後3時の祈りをするということは、自分の義務や日課ではなく、神様に許されて祈りの場に行かせてもらっているのです。主に赦された者でなければ、祈りの場に入ることができません。

そういう民が集まって祈るところが祈りの家なのです。教会の礼拝であり、教会の祈祷会であり、スモールグループの祈りの時なのです。祈ることを許されているものの集いなのです。そこは神様の祝福の場なのです。

The Lord said “I live in a high and holy place, but also with him who is contrite and lowly in spirit, to revive the spirit of the lowly and to revive the heart of the contrite.” (57:15) the God want us to be contrite and lowly in spirit. Please do not forget we are a sinner and far from the God. Once we were sinners and foreigners and gentiles
far from the God. But according the God’ grace and mercy we were save unconditionally. God saved us through our confession of sin. The only line to bind the God and us is our confession of sins. The man who confess his sins is contrite man and brokenhearted man and lowly in spirit. So let us come to the Lord and pray with confession of the sins and joy of salvation. We were permitted to be in the prayer meeting.
Those who come to the prayer meeting and worship are true spiritual Israelites. Church is a house of prayer for all nations.

わたしたちの教会も皆さん良く祈ってくださいます。朝は7,8名、夜は2,3名ですが、教会の礼拝出席に比べたら、祈祷会の出席は高い方ではないでしょうか。夜ももっとたくさんの方々が来てくださることを願っています。そして何よりもわたしが感謝していることは、今まで10年間、皆さん方が祈祷会に集まって下さって、牧師と共に祈りを続け、支えてくれたということです。それは本当に感謝なことです。そして今でも集まって、熱心に祈っていてくださいます。わたしたちもこの祈りをもって、今度は教会堂を立て上げようではありませんか。会堂を立てるのは、予算や献金ではありません。祈りです。祈りがなければ会堂は建ちません。

「わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる。」(56:7)とあります。教会という建物の前に、まずわたしたち自身が集まって祈って行こうではありませんか。教会は祈りの場所です。祈る人の集まりです。誰でも参加できます。すべての人の祈りの家であると言っていますから、この喜びの席に、祝いの席に、感謝をもって集いましょう。(岡田 久)

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