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万事を益とされる神の救いのご計画 (ローマ8:18~30)

メッセージ
2021/9/26
富里キリスト教会礼拝説教
「万事を益とされる神の救いのご計画」
(ローマ書8:18〜30)

①苦しみの中にある被造物
聖書という書物は、旧約39巻、新約27巻の合わせて、全66巻の書物が一つに合わさったものです。そして、その文章には章とか節とかがついています。しかし、元々聖書の原典には、この章とか節とかがついていたわけではありません。時間をかけて信仰者たちが聖書を読みやすくするため、また、みながすぐに同じ箇所を開くことができるようにするためにつけられたものです。その先人の労苦による恩恵を私たちはうけとっているわけです。そして、新共同訳聖書においてはさらに小見出しがついています。この小見出しをつけるのにも多くの労苦があったことでしょう。
今日の箇所にも小見出しがついています。それは将来の栄光という言葉です。「将来の栄光」これこそ私たちクリスチャンの希望であり、祝福です。信仰によって義とされ、救われた私たちは神の子となり、キリストとともに天の国を受け継ぐ共同相続人として永遠の命という、これ以上ない喜びと栄光が与えられるのです。そのような輝かしい未来が私たちを待っているのだ。これが今日の結論でありますし、実際今日の箇所の最後のパウロの言葉は

「神はあらかじめ定められた者たちを召し出し、召し出した者たちを義とし、義とされた者たちに栄光をお与えになったのです。」

といったものです。しかし、小見出しに将来の栄光とあり、最後の結論でも栄光が語られていますが、実際この箇所で語られている大半の内容は苦しみ、うめきについてです。将来の栄光という言葉は裏を返せば、現在は苦しみの中にある、こういった現実が突きつけられたりもするのです。この箇所ではそんな将来の栄光と現在の苦しみとの対比がなされているのです。そしてパウロは比較しつつも将来の栄光と比べたら今の苦しみなど取るに足りないのだと、冒頭で言い切ります。

ローマ8:18
「現在の苦しみは、将来私たちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないと私は思います。」

一般論の話で言いますと、このような言い方はあまり共感力がなく、相手の気持ちに寄り添っていないと評価されるかもしれません。今は苦しいけど、このあときっといいことがあるから、そんな苦しみなんか取るに足らんのだ。苦しんで泣いている人に向かって、このようにそんなの取るに足らんと言われたら、きっとその人は腹をたてるのではないでしょうか。少なくとも、私だったら、「なんだこいつ、人の気持ち全然わかってねーな。」と腹を立ててしまいそうです。
でもこういう論法はよくある話でもあります。苦しみを超えた先に栄光が待っているというやつです。受験などで言えば、夏がんばって泣いたら、春には笑えるぞといった、いいまわしですとか、スポーツとかでもここを乗り換えたら勝利が待っているぞと、コーチが鼓舞したりなどします。栄光を人参のごほうびのようにして、ぐっと我慢するわけです。
最近、オリンピックがありましたが、私はアテネ五輪のあるシーンが特に印象が残ってまして。それは体操団体の金メダルが確定する最後の鉄棒での演技で実況アナウンサーが最後に「伸身の新月面が描く放物線は、栄光への架け橋だ。」と叫んで選手がピタッと着地したシーンでしたが、とても印象に残っています。
苦しみを超えた先の栄光の勝利。こういうものは確かに感動を生みます。このような結果を残した人は確信を持って今の苦しみは取るに足りないというでしょう。その気持ちもよくわかります。しかし、頑張ることが苦手な私などは、しんどい最中や辛い時に、そう言われるとちょっとその言葉を信じることができず、冷たい人だなと腹を立ててしまいそうです。
しかし、パウロは決して冷たい人ではありません。このパウロのいう将来の栄光とは、やがて主イエスが再臨された時、完全にこの体が贖われ神が新たに用意された新天新地で神と共に永遠に生きるというものです。
この素晴らしさと比べたら取るに足らないのだということなのです。苦しみを知らないわけではありません。むしろ、パウロはいつも苦難の只中にいました。あなたの苦しみが軽いと言っているのではないのです。私たちに用意されている栄光がすごすぎるということなのです。苦しい時こそ、その栄光を見上げろとパウロは言っているのです。
そして、パウロは苦しいのは決してあなただけではない。この地上にある全ての被造物が苦しみ、呻いているのだと言います。被造物とは神に造られた存在という意味ですのでこの地上、自然のすべてでもあり、そこには私たち全人類も含まれます。
聖書ではアダムとエバが神への不従順という罪を犯した時から、その罪ゆえにこの地上も呪われたものとなったと書かれています。人だけでなく罪によってこの地も、痛み、苦しんでいるのです。この世界は美しく、素晴らしい。そう思うこともたくさんあります。神様が造られた世界ですから、それもまた当然です。しかし、その神に造られた地球は罪によって傷つき、うめいている事実もまたあり、そのうめきは年々増しているようにも思います。
そして、それは人間の貪りの罪によってなされています。CO2の大量発生による温暖化。そしてそれに伴う異常気象。自然災害。プラスチックゴミも増え、海の生き物が傷ついたりもしています。そしてコロナウイルスによるパンデミック。地球の呻きを私たちはもう無視することはできません。
しかし、キリストは十字架をもってこの地上の全てを贖ったと聖書は語っています。罪に痛むこの世界でありながらも、今この地上は少しずつ回復もしていっているのです。そして、再び主がこの地に来られた時、このすべての被造物が完全回復するとも聖書は約束しています。この世の最後の時、この痛んだ世界にも救いの完成がなされるのです。
その世界のことを新天新地と言い、私たちはその新しい世界で神と共に永遠に生きるのです。その時が来るのを、この被造物、地上の全てがうめきながら待ち続けているのです。

②うめきをもってとりなす聖霊
そして、苦しみ、うめいているのはこの地上だけではない。私たち人間も罪に苦しみうめいているのだとパウロは言います。

ローマ8:23
「被造物だけでなく、霊の初穂をいただいている私たちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを心の中でうめきながら待ち望んでいます。」

霊の初穂をいただいている、聖霊が与えられていることは私たちが救われていることを証明しています。イエス・キリストを私の救い主と信じ、告白することは聖霊の力によってのみなされることだからです。聖霊は私たちの救いの証、しるしなのです。
では、なぜすでに救われているはずなのに、私たちは罪に苦しみ、うめくのでしょうか。それは未だこの救いは途上にあり、完成しているわけではないからです。私たちは、すでに救われていながらも、救いの過渡期を過ごしているとも言えるのです。臓器移植などをして、新しい臓器を体に入れた時、最初は拒絶反応を起こし抵抗をする免疫という働きが起こります。新しい臓器は薬を投与しながら時間をかけて痛みを覚えながら、それこそうめきつつ少しずつ本人の身体になじんでいきます。同じように私たちの魂に聖霊が注がれた時、元々いた肉の性質が反応して戦いが起こるのです。
ですから、この苦しみというものは変わりつつある証拠でもあるのです。今までは戦いようもなかった罪と、今私たちは戦い、苦しんでいるのです。肉と霊の戦いが現実にあるのです。このことは、今までもなんども語ってきました。この戦いに対する実感を多くのクリスチャンは持っているはずです。
地上がうめくように私たちもうめき、葛藤し、戦いながら救いの完成へと近づいているのです。この苦しみは決してネガティブなものではなく、希望に続くものなのです。苦しみは私たちの魂が死から命へと変えられていっている証なのです。それゆえの苦しみなのです。

Ⅱコリント5:4
「この幕屋に住む私たちは、重荷を負ってうめいておりますが、それは地上の住みかを脱ぎ捨てたいからではありません。死ぬはずのものが命に飲み込まれてしまうために、天から与えられる住みかを上に着たいからです。」

そして、この苦しみは一生続くものではありません。苦しみの先
には将来の栄光、永遠の喜びという希望が待っているのです。苦しみが一生続くと思うと、もう人間耐えられませんよね。狂ってしまいますよ。だからこそ、私たちはその苦しみの中で希望を見上げるのです。そして、その希望が決して消えない平安を与えてくれるのです。

Ⅱコリント4:17−18
「私たちの一時の軽い艱難は、比べ物にならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。私たちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。」

この見えない希望が私たちを支えるのです。人生における苦しみとは罪との戦いだけではありません。病気、死別、失敗、貧困、人間関係のもつれ。そんな苦しみの中で「なんで私がこんな目に・・・。辛すぎます。信じられません。もうどう祈ったらいいかわかりません。祈れませんよ、神様・・・。」
このような言葉にならない、うめきのような祈りをすることが私たちにはあります。本当に辛い時とは言葉すら出てこないものなのです。
このような時、人は本当に孤独を感じると思います。この世界の中で私はひとりぼっちだ。しかし、神様はそのように苦しむものを決して一人にはさせません。聖霊となってわたしたちのこのうめきをとりなしてくださるのです。この弱い私たちを助けてくださるのです。聖霊様は助け主とも言われたりしますが、この助けるというギリシャ語は「共に」「代わって」「引き受ける」という3つの単語が一つとなった造語です。聖霊様は私たちと共に苦しまれ、代わりに苦しまれ、その苦しみを全て引き受けてくださるのです。
苦しみを共に、代わりに、引き受けて。聖霊のとりなしとはまさにイエス・キリストの十字架の贖いそのものです。そのうめきの中で私たちの祈りは御心にかなったものへと変えられていくのです。

③万事を益とする神の計画
そして、呻きのような祈りは聖霊のとりなしの中である確信に導かれていきます。その確信が8:28の言葉です。

「神を愛する者たち、つまり、ご計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、私たちは知っています。」

あの悲しかったことも、苦しかったことも辛かったことも、私をいじめていたあの人も、敵も味方も失敗も成功も、ことごとく神と出会いこの恵みに生きるためのご計画。神の子として幸いな関係を築き、喜びと平安の中で生きていくためのご計画。人として、クリスチャンとして成長するためのご計画。全ての出来事が私の人生を益とするためのご計画だったのです。その事実を私たちは知っているのだとパウロは力強く実感を込めて言います。
そしてパウロが実感するように私たちクリスチャンの中でも、このみことばに対して強い実感を持たれている方も多いのではないでしょうか。
あのとき、本当に辛かった。教会にいたくなかった。悲しかった。なぜ私の大切な人がいなくならなければならないのか。苦しかった。自分の病をうけとめることができない。孤独だった。一人一人の人生に痛み、苦しみ、うめきがありました。それでも神は私を愛しているし、私も神を愛している。時にグラつきながらも神を信じて踏みとどまった。そして、時を経て人生を振り返ったとき、むしろ私と神様の関係はより深まっている。そういうことに気づくのです。
痛み、苦しみを通った分、今まさにそのさなかにある人の気持ちがわかり、聖霊のようにそのうめきをとりなし、その人のために祈れる者となっている。そういう自分に気づくのです。それは、きっとキリストの十字架の苦しみという恵みを少しだけ知ることができたということでしょう。
そして、その信仰の守りの根拠は自分の意志の力ではなく神にあるのだとパウロは語ります。この事実に私なんかは本当に安心感を覚えます。神を愛する者=ご計画に従って召された者たちとあります。まず神が私を愛し、召し出してくださったからこそ、自分は神を愛する者となったのだということです。私たちの自由意志も尊重されながらも、この計画は全て神様のお膳立ての中でなされているのです。神が召し出してくださったからこそ、私たちはどんな状況においても踏みとどまることができたのです。どんなに苦しくとも主に信頼して希望を見上げ続けた。その人の信仰は本当に素晴らしいものです。しかし、そこには神の確かな守りがあったということを私たちは決して忘れてはなりません。
神が召した者は、何があっても信仰はなくならず、その人生にある苦しみすら益とされるのです。圧倒的な神の恵みの御手によって私たちは抱きしめれ、守られながら生きているのです。
この恵みの確かさ、キリストの十字架と復活の確かな希望、将来の栄光を見上げた時、この現在の苦しみは私たちにとってやはり取るに足らないものなのだと言えるのです。苦しみの中にあっても、それすらも益とされる確かな神のご計画を信じ、目の前の苦しみではなく、見えない栄光を見上げて共に生きてまいりましょう。

武井誠司

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