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ルツの信仰 (ルツ1:7~22)

メッセージ
2019年9月8日富里キリスト教会
「ルツの信仰」
(ルツ記1:7~22)
1.人生の選択

「ナオミは住み慣れた場所を後にし、二人の嫁もついて行った。故国ユダに帰る道すがら、ナオミは二人の嫁に言った。『自分の里に帰りなさい。あなたたちは死んだ息子にもわたしにもよく尽くしてくれた。どうか主がそれに報い、あなたたちに慈しみを垂れてくださいますように。どうか主がそれぞれに新しい嫁ぎ先を与え、あなたたちが安らぎを得られますように。』」(ルツ1:7~9)

ナオミは、故郷ベツレヘムにも神様の恵みが回復されて、食べ物が十分に与えられるようになったといううわさを聞いて、国に帰る決心をしました。そして残された二人の嫁と一緒に、モアブの地を去ってベツレヘムに向かいました。そしてその道すがら、すなわち帰りの旅の途中に、二人の嫁に対して、自分と一緒について来なくてもいいから、あなたがたはそれぞれ自分の実家に帰って、新しい生活をしなさいと勧めたのでした。

昔からいったん嫁いだ嫁は、その家の者ですから、夫が死んだからと言って自分勝手に、実家に戻るわけにはいきませんでした。その家と運命を共にして、家名を守るしきたりになっていました。ですから兄が死んだ場合には、その家の弟と結婚して子供を作って、その家の家名を守る義務があったのです。日本では昔、戦争で戦死した兄の代わりに、弟さんと結婚してその家の家名を守るというしきたりが日本にもありました。

ですからナオミも、この二人の嫁を里に帰す理由を述べています。それはもう自分は、あなたたちのために、再婚して弟の三男を産む力もない、たとえ自分が再婚して三男を産んだとしても、その子が成人して結婚できるようになるまで、兄嫁が未亡人のまま待っているということもできないでしょう。だから今のうちに実家に戻って、だれかと再婚して幸せな家庭を築きなさいと勧めてくれたのです。嫁の将来を理解してくれていた良い姑さんでした。(1:11~13)
三番目の息子が生まれて育つまで、再婚せずに待っている嫁の姿を見ることの方が自分にとってはつらいと言っています。(1:13)

わたしは何故、お母さんがモアブを出発する前に、そういうことを言ってくれなかったのだろうかと不思議に思いました。出る前に、さあ自由にしなさいと言ってからモアブを出ればいいものを、一緒に出てベツレヘムへの旅の途中で実家に帰りなさいと言ったのです。場面的には、後ろにモアブの自分の故郷、そしてはるか目の前には、自分たちの見知らぬユダの地ベツレヘムの町が待っています。二人の嫁にとっては、全く見知らぬ土地であり、知らない人々、知らない生活が待っています。住み慣れた家に戻るか、それとも見知らぬ世界に姑と一緒に飛び込んでゆくかの選択を迫られた場面です。

皆さんでしたら、どうされるでしょうか。ナオミと一緒に見知らぬ世界に飛び込んでゆくでしょうか。あるいは自分の住み慣れた故郷モアブの地に帰って行くでしょうか。その選択と決断の場面がこの「帰る道すがら」という場面設定ではなかったかと思います。オルパもルツも、たとえモアブの地に住んでいたとしても、ユダヤ人の夫の家に嫁ぐことは大きな決断があったと思います。全く違う習慣と文化を持った外国人の家に嫁ぐのですから。

そして最初は、自分たちも、イスラエルの家の宗教としきたりに従って生活していたと思います。しかし、その家の神様が、自分たちに夫の死という不幸をもたらしたのです。いったん新しい信仰生活に飛び込んではみたものの、そこに夫の死という不幸と苦難が待っていた場合、わたしたちはどうするでしょうか。ああ、やっぱりイスラエル人の神は、幸福の神ではなく不幸の神なんだと言って、その信仰の道を捨ててしまうのでしょうか。夫が死んだから、不幸になったから先が見えないからと言って、その道から離れてしまうのでしょうか。

人生の本当の岐路に立たされていたのは、ナオミではなく、この二人の嫁だったのです。ですから、この物語は、やはり母ナオミが主人公ではなく、異邦人の嫁が主人公の物語であり、彼らがどう判断し、どう決断するかが問われていたのです。それがこの「故国に帰る道すがら」だったのです。

わたしたちもそうです。信仰生活に入ったはいいものを、突然襲ってくる困難や試練や不幸の出来事。その時どう判断するかです。何だこんなはずではなかった、こんなことでは信じたかいがない、信仰をもったかいがない、と言ってその道を捨ててしまうかどうかです。クリスチャンならそういう試練は誰でも経験します。昔の自分、元の生活に戻ってしまうかどうかが問われているのです。

With Naomi’s two daughters-in-law she left the place where she had been living and set out on the road that would take them back to the land of Judah. She said to the two daughters-in-law “go back, each of you, to your mother’s home.” This is the scene on the way between Bethlehem and Moab. Two daughters-in-law were asked one decision that go to Bethlehem where they did not know or Moab where they used to live. They were asked a decision of faith to go with her mother to the unknown land or back to their mother’s homeland. They were tested as a believer. When we believe in Jesus we are also tested to go with Jesus to the unknown world or go back to our old world.

2.ルツの信仰

嫁のオルパとルツは、最初は「御一緒にあなたの民のもとへ帰ります。」と言ってくれました。しかし、ナオミがあまりにも同行することを止めさせようとしたものですから、とうとう二人の嫁の間にも、決心がぐらついてきました。そこを読んでみましょう。「二人は声をあげて泣いた。オルパはやがて、しゅうとめに別れの口づけをしたが、ルツはすがりついて離れなかった。ナオミは言った。『あのとおり、あなたの相嫁は自分の民、自分の神のもとへ帰っていこうとしている。あなたも後を追って行きなさい。』ルツは言った。『あなたを見捨て、あなたに背を向けて帰れなどと、そんなひどいことを強いないでください。わたしは、あなたの行かれるところに行き、お泊りになるところに泊まります。あなたの民はわたしの民、あなたの神はわたしの神。あなたの亡くなる所でわたしも死に、そこに葬られたいのです。死んでお別れするのならともかく、そのほかのことで、あなたを離れるようなことをしたなら、主よ、どうかわたしを幾重にも罰してください。』」(1:14~17)

最初は一緒についてきた二人の嫁でしたが、オルパは、やがてナオミに別れの接吻をして、自分の家に帰って行きました。その時ナオミはこう言いました。「あなたの相嫁は自分の民、自分の神のもとへ帰っていこうとしている。」と。オルパは、良い嫁でした。夫にも姑にもよく仕えてくれました。しかし、最終的には、オルパは、自分の民、自分の神のもとへと帰って行ったのです。ですから、この道すがらの出来事は、ただ単に、家に帰るということではなく、二人の信仰が試された出来事でもあったのです。

別にオルパは、自分の神のもとへ帰っていったから、神様の祝福から離れて、最期は惨めな不幸の生涯を送ったというわけではありません。おそらくオルパも、実家に帰って行って再婚して幸せな生活を送ったのではないでしょうか。しかし、大事なことは再婚して幸せな生活を送って生涯を閉じるということではないのです。ここで試されているのは信仰の決断です。

ではルツはどんな決断をしたでしょうか。姑のナオミが、しきりに実家に帰って、再婚して新しい生活を築いて幸せになりなさいと勧めれば勧めるほど、ルツは別れることを拒みました。「ルツはすがりついて離れなかった。」とあります。さらにナオミは、「あなたも相嫁のオルパの後を追って自分の民、自分の神のもとへ帰って行きなさい」とさえ言っています。しかし、そういえば言うほど、ルツはナオミについて行こうとしました。ルツの決心はそれほど堅かったのです。「ルツはすがりついて離れなかった。」「そんなひどいことを言わないでください。」「あなたの亡くなる所で、わたしも死にます。」「死別以外で姑目と離れるなら、神がわたしを罰して下さるように。」とさえ言っています。ここにルツの絶対離れないという決心のほどがうかがわれます。

今日、嫁と姑の問題が、昔も今も大きな社会問題になっています。嫁、姑戦争と言われるほどすさまじいものがあります。現代でしたら、若いお嫁さんは、夫が死んだらすぐに自分の実家に戻ってしまうことでしょう。姑が行かないでくれと言っても、絶対、帰ります。お母さんはお母さんで自分のことは自分でして下さいというでしょう。

では一体なぜこれほどまでに、嫁のルツを引き止めたものが何だったでしょうか。それはやはり、ルツが言っているとおり、「あなたの民はわたしの民、あなたの神はわたしの神。」と言った告白ではなかったでしょうか。ルツは、10年間の結婚生活を通して夫や姑と生活を共に体験してきました。そしてそこで、イスラエルの神、ナオミや夫の信じている神のことを教えられ、また知ったのではないでしょうか。

そしてその神は、幸せな結婚生活、楽しい家庭生活よりも、もっと大きな偉大な方であるということを知ったのではないかと思います。幸福な家庭や結婚よりも、それらをはるかに超えて大きな祝福と恵みをもって自分たちを生かし支えていて下さるお方だということです。目に見えない神様の祝福を信じたのです。そのお方に寄りすがったのです。そういう夫や姑の信仰生活を10年間、共に体験する中で、ルツは自分がついて行くのはこのお方だと信じたのではないでしょうか。

自分の本当の主人は、ナオミではなく、ナオミが証して下さったイスラエルの神こそ、自分が生涯、何があってもついて行くべきお方だと信じたからではないしょうか。今は先が見えない、真っ暗闇の生活かもしれない、そしてこれからもベツレヘムに行っても、自分の知らない世界、知らない文化習慣の中での生活が待っている。しかも未亡人で生活の当てもない、お母さんを支えて行くのは自分しかない。むこうに見えているは、暗闇と苦労の生活です。

「今は光が見えないが、それは雲の彼方で輝いている。」(ヨブ記36:21)という有名なみ言葉があります。未知の世界の向こうに輝く光を、ルツは信じ、見ていたのではないでしょうか。それはあのベツレヘムの村の上に輝く救いの光、ダビデの星、御子イエス・キリストの光だったのではないでしょうか。ルツは、その暗闇、苦しみ、孤独の彼方に、すべてのものをご支配しておられ、愛と憐みに富んだ主がおられるということを信じて、ついて行く決心をしたのではないかと思います。ここにルツの信仰がありました。ルツが姑のナオミに縋りついていたのではなく、ナオミを生かし助けて下さるナオミの神様の恵みと憐れみに、縋りついていたのではないかと思います。

新約聖書に出てきます長血の病を持った女性が、必死になってイエス様の服の裾に触れたように、ルツも必死になって、ナオミに縋りついたのです。「あなたの民はわたしの民、あなたの神はわたしの神。」と告白しました。それは憐れみ深い神、愛の神、縋り付く者を決して見離さないお方だということを信じていたからです。ここにルツの信仰が明らかになりました。ルツはこの愛と恵みの神を、はるか彼方に仰ぎ望んでいたのです。

Naomi eagerly encouraged them to return to their mother’s home. Soon Orpah accept her mother word, she kissed her mother-in-law saying good-by. But Ruth clung to her. She said “don’t urge me to leave you or to turn back from you. Where you go I will go, and where you stay I will stay. Your people will be my people and your God my God. Where you die I will die, and there I will be buried. This is a confession of Ruth’s faith. Naomi cared for their happiness on the earth, and Orpah chose that. But Ruth was looking forward invisible God’s blessings and fortunes over the earthy happiness. She has learned and believed in these blessings during her marriage time. Ruth chose it and decided to follow Naomi’s God. She may clung to God’ hand more than Naomi. What do you see in the future and which way do you chose.

3.ナオミの神

こうしてナオミとルツは、二人で岐路に着きました。二人がベツレヘムに着きますと、町中の女たちが集まってきました。そしてナオミに声をかけたのです。
おそらく夫も死に、二人の息子も死んでしまった。そして異邦人の嫁一人だけを連れて帰ってきたということが町中の話題になったと思います。特に女性の間で話題になりました。ナオミにとってはまさに苦い里帰りでした。ナオミは自分に起こった出来事をこう言っています。「全能者がわたしをひどい目に遭わせた。」「主はわたしをうつろにして帰らせた。」「主がわたしを悩ませた。」「全能者がわたしを不幸に陥れた。」と。

二重、三重の苦難を彼女は負わせられました。誰でもこんな神様なら信じたくないと思うほどです。空しくさせる神、悩ませる神、不幸の神です。皆さんはいかがでしょうか。こんな神様だったら信じたくないと思うかもしれません。でもヨブ記の中にこうあります。「神は貧しい人をその苦難を通して救い出し、苦悩の中で耳を開いて下さる。」「苦難を経なければ、どんなに叫んでも、力を尽くしても、それは役に立たない。」(ヨブ記36:15,19)

たとえ今は光が見えず、暗闇の中を歩いているように思える時でも、やがて主の光が射しこむ時が来るのです。今はマラ(苦い)時を過ごしていても、やがてはナオミ(快い)という時期がやって来るのです。そういう真っ暗闇の人生の中にも、すでに神様の救いの光が射しこんで来ていたのです。それが最後の「二人がベツレヘムに着いたのは、大麦の刈り入れの始まるころであった。」(1:22)という言葉に隠されています。

Naomi said to her people “ Don’t call me Naomi which means comfortable, call me Mara which means bitterness, the Almighty has brought misfortune upon me.” Naomi lost everything and returned lonely with only her daughter-in-law Ruth. Precisely her life was a failure one and defeated one. But psalmist said “ Those who sow in tears will reap with songs of joy. He who goes out weeping carrying seed to sow, will return with songs of joy, carrying sheaves with him.”
(Psalm 126:5-6) Even if our life looked a failure and defeated one, God will give us a blessing through many sufferings. The sign of God’s blessings appeared a following verse “the barley harvest was beginning.” (Ruth1:22) Form here tha God’s blessings will appear and give many blessings upon them. Because one Gentile woman Ruth will give birth to David’s grandfather. She will the origin of the glory of Israelites in spite of a Gentile woman. For she clung the mercy of God by her faith.

だめだ、失敗だ、つらいということが次々に起こっても、やがてそれらの苦難や不幸を通して、大きな収穫の時がやって来るということです。詩編の御言葉にこうあります。「涙と共に種を蒔く人は、喜びの歌と共に刈り入れる。種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は、束ねた穂を背負い、喜びの歌を歌いながら帰ってくる。」(詩編126:5)今はまだ涙と苦い気持ちしかないかもしれませんが、やがて主は、そういう人に喜びと大きな収穫を与えて下さるということが、この最後の言葉の中に預言されていたのです。

そしてルツの信仰を通して、ボアズとの再婚を果たし男子が与えられました。そしてその子の孫としてダビデが生まれてくるのです。こうして何にも代えがたい霊的な最高の祝福をルツもナオミを神様からいただきます。わたしたちは決してマラ(苦い)で終わる人生ではありません。わたしたちのこの信仰には、大きな報いと祝福が備えられています。大きな収穫が備えられています。それは主にあって快い(ナオミ)という神様の約束された名前のとおりなのです。
(岡田 久)

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