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ヨベルの年 (レビ記25:1~12)

メッセージ

2011年11月2日富里キリスト教会
「ヨベルの年」
(レビ記25:1~12)
1.ヨベルの年とは

「ヨベル」とはヘブライ語で「雄羊の角」という意味があり、この年には雄羊の角を国中に吹き鳴らす習慣がありました。英語ではジュビリー(=jubilee)と言います。これはどういう年かと申しますと、ユダヤ人にとりまして1週間の終わりの7日目が安息日であるように、年にも安息の年が定められました。7年目ごとに最後の年を安息年としました。これはイスラエルの民が、約束の地カナンに定住した日から始まります。そして、この7年を7回繰り返しますと7×7で49年になります。そして、翌年の50年目をヨベルの年としました。ですからこの年は、7年目の安息年と翌年のヨベルの年と二年続けて盛大な祭りの年となります。

特に、この50年目のヨベルの年は、大きく分けて、三つのことがあげられます。まず「安息年」と「土地の返却」と「奴隷解放」です。このようにして、7年目ごとに安息年が来て土地を休ませ、さらに50年ごとにヨベルの年が来て財産や奴隷が解放されることにより、社会の格差を是正し、人間同士の搾取や貧富の差を解消して、人は同じ神の民であり、かつては皆奴隷に過ぎなかったことを思い返して、神を礼拝することを命じたのです。神様は、イスラエルに約束の地カナンを与えましたが、与えっ放しにすることなくどこまでも責任を持って、彼らの生活を見守っていたのです。

A.7年目ごとの土地への安息(安息年)

まず最初に、畑への安息を見てみましょう。レビ記の25:3から読んでみます。「六年の間は畑に種を蒔き、ぶどう畑の手入れをし、収穫することができるが、七年目には全き安息を土地に与えねばならない。これは主のための安息である。畑に種を蒔いてはならない。ぶどう畑の手入れをしてはならない。休閑中の畑に生じた穀物を収穫したり、手入れせずに置いたぶどう畑の実を集めてはならない。土地に全き安息を与えねばならない。」(レビ25:3~5)

畑に種を蒔き、実を実らせるのは人間の働きによるものですが、主のための安息であるとありますから、本当は神様が毎年、実がなるように働いていてくださるのではないでしょうか。休耕することによって、神も人間も土地も共に休むことが大切だと言っています。実際、畑は何年かに一度は休ませないと地力が落ちてくると言われています。そして、7年目に自然に生じた作物は、刈り入れないで、奴隷や雇人や寄留者や家畜や野生の動物のためにそのままにしておかねばなりませんでした。誰が畑に来ても、安息年には自由に食べることが赦されたのです。

これはあの天地創造の時に、神様が全被造物を創造して、7日目に休まれ安息日を定めたように、第7年目は、この世界は主の創造によって造られたことを覚え、すべての労働から解放されて神様の創造のみ業を思い返し、すべての被造物、奴隷も寄留者も動物も植物も神のみ業を感謝してゆっくりと1年間休む年としたのではないかと思います。

B.所有地の返却

次に土地の返却がヨベルの年に行われました。25:13から読んでみます。
「ヨベルの年には、おのおのその所有地の返却を受ける。あなたたちが人と土地を売買するときは、お互いに損害を与えてはならない。あなたはヨベル以来の年数を数えて人から買う。即ち、その人は残る収穫年数に従ってあなたに売る。その年数が多ければそれだけ価格は高くなり、少なければそれだけ安くなる。その人は収穫できる年数によってあなたたちに売るのである。相手に損害を与えてはならない。あなたの神を畏れなさい。わたしはあなたたちの神、主だからである。」(レビ25:13~17)また、「土地を売らねばならないときにも、土地を買い戻す権利を放棄してはならない。土地はわたしのものであり、あなたたちはわたしの土地に寄留し、滞在するものにすぎない。」(23)とあります。

ヨベルの年には、借りていた土地、買った土地を全部元の所有者に返さなければなりませんでした。それは、お金持ちだけが、その資本力を使ってどんどんと土地を買い占めて、土地と資本が一部の人に偏ることを防ぐためでした。ですから、土地の売買は皆、ヨベルの年まであと何年だから、この土地はこれくらいの価値があると評価して売買しました。

これは資本主義を排除するための神の知恵です。誰でも、ユダヤ人だろうがアメリカ人だろうが長い年月の間、お金を儲けるものと貧しい物、土地を買い占める者と手放す者が出てきます。そして資本、お金が一人の人に集中するという弊害が出てきます。このヨベルの年の土地の返還と契約の解消は、資本と土地が一部の人々に独占されないための方策でした。大富豪とか大財閥という者を、世に存在させないための神の掟なのです。土地はもともと神の所有物だということを万民が、とりわけ契約の民であるイスラエルの人々は、肝に命じなければなりませんでした。

これは、23節に述べられていますが、神様が「土地はわたしのものであり、あなた方は例外なく、わたしの土地に寄留し滞在している者に過ぎない者である」ことを知らしめるためでした。土地に執着し、土地を売買して、土地から不当な利益を得ることによって、神のものをないがしろにすることのないように戒めたものでした。土地の真の所有者は神だということです。土地は神のものであり、あなた方はただそこに寄留している者にすぎないのだということを悟らせるためでした。

C.奴隷の解放

そして三番目に神が命じたのは、奴隷の解放でした。労働による収入、財産、土地、これらはすべてもともと神の所有物です。自分の持てる物をすべて神に帰すこと、すなわち神に返すことによってお互いに神の民の一員であるという絆を強めるのがヨベルの年なのです。今日、高度に資本主義の発展した世の中では、一握りの人にのみ富が集中し、土地も集中しております。そしてその資本にまつわる人間の欲が暴走してもはや止まるところを知りません。富める者はますます富んでゆく、貧しい者はますます生きにくくなってゆく、そういう社会です。歯止めのきかない社会です。神様そういう人間の欲とむさぼりの連鎖に何とか歯止めをかけようとしたのです。

そしてイスラエルの民が、土地や資本に束縛されて、この世の罪の暴走と欲の連鎖の渦に巻き込まれてしまわないようにと、ヨベルの年を制定されました。土地を打って無一物になった者、身売りをしてしまったもの、借金で路上生活をしなければならなくなった者にも、ヨベルの年には、自分の土地が返却され、畑にある物は、誰でも自由に食べることが赦されたのです。すべてがリセットされる年なのです。誰でも人生が新しくやり直せる年なのです。それがヨベルの年でした。ですから、ヨベルの年にはイスラエル中の町のあちこちで、牛の角のラッパが高らかに鳴り響きました。

人間はもともと、神に造られたものであり、神の所有物なのです。私たちの主人は神様です。しかも、全員がそうだというのです。商売が上手でお金が手に入り、多くの人を買い、また土地も次々と手に入れることができても、ヨベルの年には、それを全部手放さなければならないのです。そして、その人は自分も神の所有物の一部であることに気が付かなければなりませんでした。

3.今はヨベルの年

ヨベルの年には、イスラエル中に、ヨベル(雄羊の角)のラッパが声高らかに鳴り響きました。エルサレムでも神殿でも、町々山々でヨベルの角が吹き鳴らされて解放の時を告げ知らせました。そして身分が元通りに回復したこと、そして神の安息に共に入ったことが告げ知らされました。そしてこのヨベルの年が言わんとしているのは、人々の罪の束縛からの解放と身分の回復、そして神の全き安息に入ることでした。それが、イエス・キリストの福音だったのです。彼らは、ヨベルの年を覚えながら、やがて来る真の解放と回復の時を待ち望んでいたのです。

イエス・キリストの福音の知らせそのものが、人々をこの世の罪と欲から解放するヨベルの角笛だったからです。その角笛を聞く者は、誰でも今までの罪の束縛から解放され、罪の負債をイエス・キリストの尊い血潮を持って買い戻していただけるのです。自分で、土地や生活の借金を払って自分の土地、身体を買い戻す必要はありません。イエス・キリストの十字架が、私たちの罪の負債を帳消しにしてくださったのです。新しく再出発することができるようにしてくださったのです。

ですから、主はこの解放の年を予言したイザヤの言葉を引用して、今日、ここにヨベルの年が実現したと宣言しました。神の子羊イエス・キリストの宣教の第一声はこうです。ルカ4:18から読んでみます。「『主の霊が私の上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主が私に油を注がれたからである。主が私を遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。』イエスは巻物を巻き、係りの者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。そこでイエスは、『この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した。』と話し始められた。」
                       (ルカ4:18~21)

神の子羊イエス・キリストこそ、真に安息を与えてくださる方です。そして、無一文になり身を持ち崩してしまった私達を、もう一度、神子としての身分を回復しさせてくださるお方です。そして何よりも、わたしが犯した罪の数々を、御自身の尊い血潮をもって贖い取って下さったお方です。そのお方の語る御言葉、神の福音こそヨベルの年が示そうとしていた救いの知らせだったのです。イエスこそ安息の主です。イエスこそ回復への道です。そしてイエスこそ罪の贖いの供え物として、私たちの罪の代価として神に捧げられた贖いの子羊です。
イエス・キリスト以外に私たちの人生を、リセットしてくださり、新しい人生へと再出発させてくれるお方はいません。誰でもこのお方の言葉を聞いて信じるなら、その人はまぎれもなくヨベルの年の祝福にあずかることができるのです。神様から下さった一方的な解放と回復のプレゼントです。

イスラエルの人々は、ヨベルの年を何度も何度も祝いながら、罪から解放されて神の子としての身分を回復していただく恵みの時を、待ち続けてきたのです。そして今や、このヨベルの年が実現しました。イエス・キリストこそヨベルの年そのものです。今がヨベルの年です。今が恵みの年です。解放の年です。誰でもこの知らせを聞いて、主を受け入れるならば、ヨベルの恵みに無償であずかることができます。そしてまた、この恵みにあずかった者は、出て行って、町のあちこちでヨベルの年の到来を人々に告げ知らせたいものです。さあ、私たちも出て行って、羊の角、ヨベルのラッパを声高らかに吹き鳴らそうではありませんか。                        (岡田 久)

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