ようこそ、富里キリスト教会の公式ホームページへ

ヨブの信仰 (ヨブ37:21~38:3)

メッセージ

2016年2月21日富里キリスト教会

「ヨブの信仰」
(ヨブ記37:21~38:3)

1.突然襲う苦難の意味

わたしたちの教会においても、また生活の中でも突然予期しない災難が起こることがあります。今日のヨブ記の主人公ヨブは、信仰あつく真面目な信仰者でした。ところがある日、ヨブの家畜や召使が盗賊に襲われて全員殺されてしまいました。またヨブの息子娘たちが食事をしているところに大風が吹いて来て、家がつぶされて一瞬のうちに、全員死んでしまいました。そしてヨブ自身も体中にかゆい皮膚病ができて、素焼きのかけらで体中をかきむしらなければならないひどい状態になりました。いかがでしょうか、もし皆さんがヨブと同じような被害に遭い、同じような状態になってしまったらどうするでしょうか。ヨブの妻が言ったように、「神を呪って死んでしまった方がまし」(2:9)なのでしょうか。しかし、このヨブの妻も信仰がないと言えばそれまでですが、一般的な人々の考え方を代表しているような気がします。

前回2月7日は、どうして正しい人がこんなにも苦難を負わなければならないのかということで、「苦難の意味」について語らせていただきました。若いけれども聖霊に満ちた一人の友人エリフの口から、次のようなことを学びました。人生の苦難は、「自分の罪を悔い改めて、神の御言葉を聞くための耳を開いてもらうためのものである」ということが一つです。そして二番目に「苦難はそういう意味で、わたしたちの真の信仰を鍛えるための人生の教師でもある。」ということを学びました。ですからクリスチャンは苦難を避けるのではなく、苦難を受け止め、そのことをも喜ぶ者になりたいということを語らせていただきました。そして今日は、エリフの知恵に満ちた言葉によって、ようやくヨブの心が開きかけたところで、神様が突如として嵐の中から、ヨブに語りかけて来るところを見てみたいと思います。

2.無知をもって神の経綸を無にしてはいけない

37:21のエリフの言葉から見てみましょう。彼はこう言っています。「今は、光は見えないが、それは雲の彼方で輝いている。やがて風が吹き、雲を払うと、北から黄金の光が射し、恐るべき輝きが神を包むだろう。全能者を見いだすことはわたしたちにはできない。神は優れた力を持って治めておられる。憐れみ深い人を苦しめることはなさらない。それゆえ、人は神を畏れ敬う。人の知恵はすべて顧みるに値しない。」(ヨブ37:21~24)これはエリフの言葉ですが、神の光は雲の彼方で輝いているというのです。たとえ今は、苦しみや疑いや迷いの雲で目の前が塞がれていても、やがてその疑惑の雲が吹き払われて、神の御顔の光がヨブの心を照らす時が来ると彼は預言しているのです。

人間のできることは、「我々には全能者である神を見いだすことはできない」(37:23)ということを思い知ることなのです。そして、人間にできる唯一のことは、「神を畏れ敬うこと」これが人間の本分だということです。このヨブ記、詩篇の次に来ます文学書のコヘレトの書(伝道の書)にも、人間の本分は唯一このことであると結論付けております。それは「神を恐れ、その戒めを守ること。これこそ人間のすべてである。」(コヘレト12:13)と。だから今は見えずとも、やがて雲が吹き払われる時が来る、その時を待ちなさいとエリフは言っています。

そしてこのエリフの言葉のすぐ後に、突然神がヨブに向かって語りかけました。
「主は嵐の中からヨブに答えて仰せになった。『これは何者か。知識もないのに、言葉を重ねて、神の経綸を暗くするとは。男らしく、腰に帯をせよ。わたしはお前に尋ねる、わたしに答えてみよ。』」(ヨブ38:1~3)と。神は、嵐を起こして、ヨブの目をふさいでいた雲を吹き払いました。そして嵐の中からこう語りかけました。「知識もないのに、言葉だけを並べ立てて、神の御計画を曲げているものは誰か。一体お前は何様のつもりか。」と。

「神の経綸」といいますのは、「神の御計画、予定、プログラム」という意味です。神には神の計画や予定があるのだから、人間であるお前は一体何様のつもりでわたしに言葉を並べ立てているのか。そして38:4から天地万物、宇宙のこと、動物、鳥たちのことまでをあげて、何も知らないくせになぜ文句ばかりをいうのかとヨブを戒めました。何の知識も知恵もないのに、いったい自分は何様のつもりでわたしに論戦を挑んでいるのかと言われたのです。

しかし神はそれでも承知しませんでした。更にこう言いました。「男らしく、腰に帯せよ。お前に尋ねる。わたしに答えてみよ。お前はわたしが定めたことを否定し、自分を無罪とするために、わたしを有罪とさえするのか。」(40:7~8)と厳しく迫りました。神の側に非があると言わんばかりにヨブは迫っていたのです。そのヨブの自分という罪を指摘されました。そして今度はベヘモットを知っているかと尋ねました。これはカバのことです。またレビヤタンを知っているかと尋ねました。これは鯨です。もちろんヨブは見たことさえありませんでした。「なぜなんにも知っていないのに、神の経綸(計画)を隠そうとするのか。今度はわたしが尋ねる。わたしに答えてみよ。そうしたらお前の言い分を聞いてあげよう。」(42:3,4)と神は言いました。

このようにして神はヨブの目の前に現われて、神は神、人間は人間にすぎないということを厳しく問いただしたのです。たとえ未曾有の苦難がその人を襲ったとしても、そこに神様の御経綸があるというのです。聞くのはお前ではない。わたしが尋ねるからお前は答えられるなら答えてみよと言いました。むしろ人間は、神に対して反論して問い詰めるのではなく、黙って畏れかしこんで神の語る御言葉に耳を傾けるべき存在だということを悟らせたかったのです。無知の言葉をあげつらって、神を問い詰めることなど本末転倒だというのです。むしろお前は男らしく腰に帯して立ちなさいと言いました。

3.男らしく、腰に帯をせよ

では一体「男らしい信仰」とはいったいどういう信仰でしょうか。皆さんはどんな信仰が男らしい信仰だと思いますか。逆に、男らしくない信仰とは何でしょうか。別な言葉で言いますと、「女々しい信仰」です。いつもはっきりしない、信じているのか信じていないのか分からない中途半端な信仰を言っているのではないでしょうか。ここまでヨブは、神を信じていましたが、あまりの悲劇に、神に対して文句を並べ立てて来ました。それも一つの信仰といえば信仰ですが、いつまでも自分の非劇、苦難、被害者の立場に立って、「なぜ?なぜ?」という思いで過去を引きずっていた信仰ではなかったでしょうか。

過去に縛られるなと言っても無理なことかも知れません。3・11の人々は今もその傷から立ち直れないで、次々と息を引き取って行っています。当然です。ヨブと同じです。自分の息子や娘が全員被害に遭ったのです。この間の、長野のスキーツアーバスの事故でもそうです。若い将来のある大学生が大勢、突然死んでしまいました。親御さんからみたら、悔やんでも悔やみきれないでしょう。その怒りを誰にぶつけたらいいですか。ヨブはそれを神にぶつけ、とことん食い下がったのです。

レオン・ボナーという人がこのヨブの嘆きの姿を油絵に描きました。一人の年老いた老人が、灰の中に座り込んで、やせ細った手を下げて、ただ天を見上げているすがたです。見るも哀れな目を覆いたくなるような絵です。わたし達もそうではないでしょうか。いくら信仰を持っていても、人生の大きな災難や悲劇や苦難に出会うとき、心がなえて折れてしまうことがないでしょうか。そしてそこから立ち上がれずに、いつまでもその場に座り続けていることはないでしょうか。

ですから、ここで神様がヨブに呼びかけた「男らしく腰に帯する」ということは、そういう人生の悲劇や辛い出来事から解放されて、立ち上がりなさい、生まれ変わって新しい人生を歩みなさいということではないでしょうか。わたしはこのヨブという人は、とても生真面目で、一日三回お祈りし、自分の息子たちの罪のためにも贖いの生贄を献げていたのです。もしかしたら、息子たちが神に対して罪を犯すかもしれないと思って、彼らの代わりにも動物の生贄を献げていました。本当に真面目で信仰深かった。それだけに息子娘が死んでしまったのですから、彼は神に向かって叫んだのです。一体私のどこが悪かったのですかと。

しかし、それが実はヨブの私が、私が、自分が、自分がという自分の義、自分の主張、自分の信仰故の正しさだったのではないでしょうか。彼自身の大きな罪だったのです。この自分という罪、自我という罪を気づかせ、捨てさせるために神はヨブの子供たちを取り去りました。彼に塗炭の苦しみを味わわせたのです。そして、その自分という罪を捨てさることを迫ったのではないでしょうか。いつまでも過去のことにこだわっていないで、そして神の前に立つことです。天に目を向け立ち上がることです。これが男らしい信仰ではないでしょうか。

ヨブはこの神の顕現に出会ってこう告白しています。「あなたのことを、耳にしてはおりました。しかし今、この目であなたを仰ぎ見ます。それゆえ、わたしは塵と灰の上に伏し、自分を退け、悔い改めます。」(42:5~6)と。これが男らしく、腰に帯して立ち上がる信仰です。「自分を退ける」信仰です。口語訳では「自分恨む」とあり、新改訳では「自分さげすむ」となっています。ここにヨブの今までの罪がありました。自分というプライドであり、自分という信仰だったのです。今初めてヨブは神の前に、自分の罪を認めて悔い改めました。そしてその苦難に目を留めるのではなく、神に目を向ける時、神を見上げる時、わたしたちは初めて立ち上がることができます。

これが男らしく、腰に帯をして立ち上がる信仰ではないでしょうか。ヨブはこの未曾有の苦しみという経験を通して、信仰の何たるかを初めて知ることができました。自分では信じていたつもりでも、いつの間にかそこには、自分という自我、わたしの信仰という神への反逆があったのではないでしょうか。長い葛藤の時がかかりましたが、このようなヨブの叫び声に、神は答えて下さったのです。42:5~6を現代訳聖書ではこう記しています。「わたしはあなたのことを今までは頭で知っていました。しかし、今は、はっきりとあなたがわかりました。それで、わたしは自分の罪を知り、悔い改めます。」(42:5~6現代訳)と。

わたし達も男らしく、腰に帯して立ち上がる信仰をいただきたいものです。この後神は、ヨブの祈りに答えて、元の境遇に戻し、財産をもとに戻されました。そして遠ざかっていた兄弟や親せきが訪れるようになり、新たに七人の息子と三人の娘が与えられました。そして以前よりも更に豊かな祝福をいただき、140歳まで長寿を保ち、年老いて穏やかな死を迎えました。

powered by Quick Homepage Maker 4.50
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional