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ヤコブとエサウ (創世記25:27~34)

メッセージ

2011年7月17日富里キリスト教会
「ヤコブとエサウ」
(創世記25:27~34)
1.問題を抱えたイサクの家族

「イサクは、妻に子供ができなかったので、妻のために主に祈った。その祈りは主に聞き入れられ、妻リベカは身ごもった。ところが、胎内で子供たちが押し合うので、リベカは、「これではわたしはどうなるのでしょう」と言って、主の御心を尋ねるために出かけた。主は彼女に言われた。「二つの国民があなたの胎内に宿っており、二つの民があなたの腹の内で分かれ争っている。一つの民が他の民より強くなり、兄が弟に仕えるようになる。月が満ちて出産の時が来ると、胎内にはまさしく双子がいた。先に出てきた子は赤くて、全身が毛皮の衣のようであったので、エサウと名付けた。その後に弟が出てきたが、その手がエサウのかかと(アケブ)をつかんでいたので、ヤコブと名付けた。リベカが二人を産んだとき、イサクは60歳であった。」(創世記25:21~26)

双子の兄弟の出産場面が、こんなに細かく描かれている箇所は他にはないでしょう。それほど、この双子の赤ん坊の出産は特徴的でした。お腹にいる時からすでにけんかが始まっていたのです。母体の危険を感じ、何か尋常ならざる思いがして、リベカはわざわざ神様に伺いに出かけてゆきました。二人ともとても信仰深い夫婦だと言ってよいでしょう。

しかし、この神様の家族にも親子関係、夫婦関係の問題がありました。それは、生まれた子供を、父は先に生まれた長男のエサウを愛し、母はいつも静かな弟のヤコブの方を愛したのでした。本来、親は子供をえこひいきしないで、どちらにも愛情を注ぐのが本当の親です。でも母は、静かな性格のヤコブを愛し、父は元気で野山を駆け回るエサウを愛しました。狩で手に入れた獲物を食べるのが、父親の楽しみでした。この親の偏愛は、子供の心に将来、暗い影を落とさないとも限りません。当然、親が子供を偏愛すれば、夫婦関係もおかしくなってきます。ましてや、兄弟同士の間柄もうまく行くはずがありません。

クリスチャン・ホームでも、問題のない家庭はありません。お母さんに愛されてもらわなかった、お父さんの愛を知らないで育ったという方々もおられるかもしれません。あるいは、兄弟同士でいつも反目していたとか、その人の人格形成に暗い蔭を落としていることがあります。でも、そういう家族関係に中でも、神様の救いの御計画は着実に進行していくと言うことを覚えたいと思います。また、そういう私たちの弱さや悲しみを通しても、神の祝福は推し進められて行くと言うことを、今朝のヤコブとエサウのお話から学んでみたいと思います。

2.兄エサウ

まず最初に、兄エサウの方ですが、たまたま先にお腹から出てきたので、長男になったのですが、どちらが長男、次男という判定は難しいですね。もしかしたら、胎児の時から、先に出るために争っていたかも知れません。長男が神の祝福を受け継ぐ者とされていたからです。たまたまエソウが勝って、先に胎を出たわけです。遅く出た弟は、負けてなるものかとエソウのかかとをつかんで出てきました。

エソウは、まさに野の人として実直に育ち、これと言った欠点はなかったと思います。ですから、エサウの欠点と言えば、この霊的な飢え渇き、神様を覚え、神を意識すると言う点において不感症だったのではないでしょうか。神様を意識し、神様はいるんだ、この世界は神様が造られたんだと言うような思いをもって育ったかどうかです。兄エソウは、筋骨隆々スポーツマンタイプ、体力と腕力には自信があります。それだけ、神と言うものに頼らなくても自分は生きてゆけると自信を持っていたのではないでしょうか。そこが神様の祝福と言うものを少し軽んじてしまう結果となり、そのすきを弟に狙われてしまったのではないかと思います。一つの事件が起こりました。聖書を読んでみます。

「二人の子供は成長して、エサウは巧みな狩人で野の人となったが、ヤコブは穏やかな人で天幕の周りで働くのを常とした。イサクはエソウを愛した。狩の獲物が好物だったからである。しかし、リベカはヤコブを愛した。ある日のこと、ヤコブが煮物をしていると、エサウが疲れきって野原から帰って来た。エサウはヤコブに言った。「お願いだ、その赤いもの(アドム)、そこの赤いものを食べさせてほしい。わたしは疲れきっているんだ。」彼が名をエドムと呼ばれたのはこのためである。ヤコブは言った。「まず、お兄さんの長子の権利を譲って下さい。」「ああ、もう死にそうだ。長子の権利などどうでもよい」とエサウが答えると、ヤコブは言った。「では、今すぐ誓って下さい。」エサウは誓い、長子の権利をヤコブに譲ってしまった。ヤコブはエサウにパンとレンズ豆の煮物を与えた。エサウは飲み食いしたあげく立ち、去って行った。こうしてエサウは、長子の特権を軽んじた。」(創世記25:27~34)

よっぽどエサウはお腹がすいていたんですね。「死にそうだ」と言っています。でもたったいっぱいの豆のスープで、いくらお腹がすいたとは言え、長男としての権利を譲ってしまうとは、あまりにも軽率と言えば軽率な軽はずみな行為でした。見えない神様の祝福ですから、今すぐどうなると言うことでもありません。日常生活に大きな変化があるわけではありません。エソウは、そういう目に見えない、不確かな霊的な財産を軽んじ、スープいっぱいで弟にそんな絵空事のようなものを譲ってもよいと考えたのでしょう。

皆さんがエソウの立場だったらどうされますか。実は私たちも、アブラハムの子孫であり、この神様の祝福を受け継ぐものとされております。目に見えませんが、「レフ・レハ―、わたしが指し示す地に行きなさい。わたしはあなたを祝福する。」という召しをいただいた者です。そして、神を信じてバプテスマを受け、神に属する者となりました。

でも、生活に困り、食べる物もなくなり死にそうになった時に、誰かが、「あなたに一杯のそばを与えるから、その代わり信徒手帳をわたしに下さい。キリスト教徒であり富里キリスト教会員であるという祝福の権利をわたしに譲って欲しい。」と言ったらどうしますか。「そんな天国の約束と言った目に見えない祝福より、目の前の一杯のそばの方が良い、クリスチャンの資格と権利なんて今はなんの役に立つと言うのだ。」と言って、権利を譲ってそばを食べますか。

エサウは、目に見えないから、それよりは今、自分に必要なものを第一にしました。新約聖書にこうあります。「また、だれであれ、ただ一杯の食物のために長子の権利を譲り渡したエサウのように、みだらな者や俗悪な者とならないよう気をつけるべきです。」(ヘブライ12:16)と。私たちも教会に与えられた、そして私たちクリスチャンに与えられた、神様の恵みと祝福を軽く見るべきではありません。礼拝、主の晩餐式、祝祷、そして祈ることのできる特権、献金できる特権、伝道の祝福など、この目に見えない神の祝福を軽んじることのないようにしたいものです。

4.弟ヤコブ

一方、弟のヤコブは、兄のかかとをつかみながら出てきましたから、「かかと」あるいは「他を押しのける」という意味のヤコブと言う名がつけられました。成長するにつれて、穏やかな性格で家の周りの仕事をして、兄のように野山を駆け回ると言うようなことはありませんでした。でも、性格とはうらはらに、長男の目に見えない霊的な祝福を自分のものにしようと、虎視眈々とすきを狙っていました。そして、母リベカが弟のヤコブを愛していました。

ある日、狩からお腹をすかして兄のエサウが帰ってきました。ちょうど作っていたレンズ豆のスープを見て、兄は食べさせてくれと言いました。エサウが、その時に「赤いもの、赤いものを食べさせて欲しい!」と言ったので、エサウの子孫をエドム(赤い)人というようになったと書かれてあります。確かに、この死海の南の方は、胴がたくさん取れるせいか土地そのものが赤いのです。まるで、月面に着陸した宇宙飛行士のような気分になるほど異質な世界でした。

それにしても、ヤコブは人の弱みを付け込んで自分の利益を図るという、ユダヤ人特有のずるがしこさがあります。同じ兄弟なのに、そこまでして兄を欺かなくても良いのではないかと思います。気前よく、食べさせてやれば良いじゃないかと。

でも、神様は初めから、弟のヤコブを愛し、エサウを憎んだのです。新約聖書のローマ書にこういう言葉があります。「その子供たちがまだ生まれもせず、善いことも悪いこともしていないのに、『兄は弟に仕えるであろう』とリベカに告げられました。それは、自由な選びによる神の計画が人の行いにはよらず、お召しになる方によって進められるためでした。『わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ』と書いてあるとおりです。」・・・これは人の意思や努力ではなく、神の憐れみによるものです。」(ローマ9:11~13、16)

今までは、その家族の長男が父の家督を継ぎ、その家に与えられた神の祝福も受け継ぎました。しかし、神様は、兄の弱みに付け込み、更には父をも欺いて、神の祝福を奪い取ろうとしたこのずる賢いヤコブを、最初から、生まれる前から愛していたと言うのです。次男であり、本来は神の祝福から遠く離れたものです。神の祝福からは外れていた者です。しかし、神様はその自由な御意志により、愛そうと思う者を愛し、憎もうと思う者を憎み、憐れみたい者を憐れみ、慈しみたい者を慈しむのです。これは神様の自由な意志によるのであって、何人と言えども、その意志に異議を差し挟むことは出来ないのです。

さて、そこで目を私たちに向けてみて下さい。本当に、今思えば神様の気まぐれのような出来事を通して偶然、神の救いに預かり、アブラハムに与えられたと同じような神の祝福に預からせていただいている者です。でも、実は神様は、私たちが生まれる前から、天地万物が造られる前から、イエス・キリストにあって、私たちをあらかじめ前もって神の子としてお選びになってくださっていたのです。神様の一方的な恵みによって選ばれた者なのです。今日、こうしてあるのは、自分の行いや努力ではなく、ただただ神様の一方的な愛の選びによるものだということを覚えたいと思います。また、誰かが「お前なんか、神を信じる資格もない。祝福なんかあるものか。」と言っても、私たちの側にはその根拠と理由はありませんが、神様の側にはその理由と根拠があるのです。

だからこそ、私たちはこの一方的に与えられた恵みの故に、この目に見えない神の祝福を無駄にしてはいけないし、軽々しく取り扱ってはいけないと思うのです。ヤコブのように、この恵みの賜物をしっかりと握りしめて、最期の最期まで手放すことのないようにしたい者です。この神様の恵みの救いをしっかりと握りしめて、この世の欲や不品行に負けて、サタンに奪われないようにしっかりとこの信仰を持っていたいものです。

ヤコブはこれから、神様の祝福を盗んだ者として、いろんな苦しみに出会ってまいります。でも、そのことを通して、彼の信仰が少しづつ育てられ成長して、ついには神と顔と顔を合わせてまでになります。そして、ついに「イスラエル」神が支配したもうという名前をいただくことになります。今までは、我が強くて、「神をも支配しよう」としてきた男が、長い人生の信仰の旅路の果てに、「神に支配される人(=イスラエル)」へと造りかえられてゆきます。それがこのヤコブの物語です。あと二回、ヤコブの信仰の物語を見てゆきます。(岡田 久)

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