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メリバの水 (民数記20:2~13)

メッセージ

2015年8月16日富里キリスト教会

「メリバの水」
(民数記20:2~13)

1.彼らは徒党を組んでモーセとアロンに逆らった

「イスラエルの人々、その共同体全員は、第一の月にツィンの荒れ野に入った。そして、民はカデシュに滞在した。ミリアムはそこで死に、その地に埋葬された。さて、そこには共同体に飲ませる水がなかったので、彼らは徒党を組んで、モーセとアロンに逆らった。民はモーセに抗弁して行った。『同胞が主の御前で死んだとき、我々も一緒に死に絶えていたらよかったのだ。なぜ、こんな荒れ野に主の会衆を引き入れたのです。我々と家畜をここで死なせるためですか。なぜ、我々をエジプトから導き上らせて、こんなひどいところに引き入れたのです。ここには種を蒔く土地も、いちじくも、ぶどうも、ザクロも、飲み水さえもないではありませんか。』」(民数記20:1~5)

水がないと言うことで、民はリーダーのモーセに逆らったのです。しかも一人では責めるのに弱いと言うことで、仲間を連れて徒党を組んでやってきたのでした。以前に、モーセに逆らったコラ、ダタン、アビラム一家が250名ものリーダーを抱き込んで、徒党を組んでモーセに逆らったことがありました。しかし、神様は彼らの悪意を見てこの三家族を地震を引き起こして地面の下にのみ込んでしまいました(民数記16章)。今回も、こんなにつらく苦しい旅だったら、いっそのこと彼らのように滅ぼされて死んでしまっていた方が良かったなどと、理由にもならない理由をあげてモーセたちに迫ったのです。それだけ、この旅路はきつかったのでした。不平と文句と犯行の連続です。民数記というよりは、「つぶやきと反乱記」と言った方がいいかも知れません。

「なぜ、我々をエジプトから導き上らせて、こんなひどいところに引き入れたのです。ここには種を蒔く土地も、いちじくも、ぶどうも、ざくろも、飲み水さえもないではありませんか。」(20:5)と文句を言っています。確かに解ります、エジプトを出てから、40年間、毎日毎日、マナという決まりきった味も何もない食べ物だけです。たまには、自分たちで作物を作って食べたい、果物を食べてみたいです。焼肉をしたい、鍋を囲んで食べたいと思います。ここは飲み水さえないではないですかと、民の不満と怒りは頂点に達しました。いつも頂点に達しています。モーセたちも何度も身の危険を感じました。

ある牧師の就任式で、「わたしはこの教会に、皆さんの不平不満を受け止めるために来ました。ここに鞭があります。どうぞこれで私を気が済むまで叩いて下さい。」と就任のあいさつをしたのを覚えております。まさに牧師は、そのような運命を負わされて遣わされるものなのだなあと思った時があります。荒野の大変さより、身内の仲間の反抗の方が大変です。モーセはその度に神様の前に出て、この民はわたしの手には負えないと言って、胸の内を打ち明け、悩み嘆きを訴えています。

2.モーセとアロンの罪

この水の問題で、モーセがどうしたか見てみましょう。
「モーセとアロンが会衆から離れて臨在の幕屋の入り口に行き、そこにひれ伏すと、主の栄光が彼らに向かって現われた。主はモーセに仰せになった。『あなたは杖を取り、兄弟アロンと共に共同体を集め、彼らの目の前で岩に向かって、水を出せと命じなさい。あなたはその岩から彼らのために水を出し、共同体と家畜に水を飲ませるがよい。』モーセは、命じられたとおり、主の御前から杖を取った。そして、モーセとアロンは会衆を岩の前に集めて言った。『反逆する者らよ、聞け。この岩からあなたたちのために水を出さねばならないのか。』モーセが手を上げ、その杖で岩を二度打つと、水がほとばしり出たので、共同体も家畜も飲んだ。」(20:6~8)

モーセとアロンは民から不平不満が出ると、決まって主の臨在の幕屋の入り口に行って主の前にひれ伏しました。彼らを助けるのは、自分たちに賛成するグループでもなく、支援者でもなく神以外にありませんでした。孤独な戦いです。下手したら民全体が彼らに反対しているかもしれません。でも、彼らが逃れて行く唯一の場所がありました。それは神の御前です。一切を主に委ねて、神の前にひれ伏すことだけです。この度のトラブルから逃げ出してもいい、彼らと闘ってもいい、でも何よりも大事なことは神の前に立つことです。そして神様の判断を仰ぐことです。

主はモーセに「あなたは杖を手に取って、兄弟アロンと共に共同体を集め、彼らの目の前で岩に向かって、水を出せと命じなさい。」と言いました。前回のホレブの山では、「わたしはあなたの前に立つから、その岩を杖で打ちなさい。そうすれば、そこから水が出て、民はその水を飲むことができるから」と言いました。今回は、杖を手に取るようには言いましたが、岩に向かって水を出せと言うだけで、水が出る。そして、その水を飲ませなさいと言いました。

ところが今回は、前回と違いました。神様はモーセに「岩に向かって、水を出せと命じなさい」と言いました。ところがモーセは、手をあげて、手に持った杖で岩を二回打ったのです。すると岩から水が激しくほとばしり出て、民と家畜は喜んで水を飲むことができたのです。その時モーセはこう言っています。「反逆する者らよ、聞け。この岩からお前たちのために水を出さねばならないのか。」と。

いかがですか。このモーセの言葉を聞いて皆さんはどう思いますか。あの謙遜な人、モーセの言葉とは思えないほどのきつい言葉ではないでしょうか。「反逆者よ」と言っています。そして「私がお前たちのためにいつもこうして水を出さなければならないのか。」と言っています。リビングバイブルでは、「さあ、わからず屋ども、この岩から水を出してやるから、ありがたく思え。」と訳しています。

モーセも人間です。神ではありません。堪忍袋のひもが切れて、彼の怒りや激しい感情が出てしまいました。神様が、「岩に対して水を出すようにと命じなさい」と言ったにもかかわらずに、彼は二回も岩を打ちたたいています。わたしは、おそらく前回ホレブの山では岩を一回打てと命じて水を出してもらったのだから、今回も岩を打てば出るのだろうと彼が思い込んでしまったからではないかと思います。かつての経験が、モーセを神に不忠実な態度を取らせてしまいました。これが、神の目から見て「モーセがわたしを信じなかった」と言う理由ではないでしょうか。

詩篇の記者もこの時のモーセの心境を歌に詠んでいます。「主は彼らを滅ぼすと言われたが、主に選ばれた人モーセは、破れを担ってみ前に立ち、彼らを滅ぼそうとする主の怒りをなだめた。・・・彼らはメリバの水のほとりで主を怒らせた。彼らをかばったモーセは不幸を負った。彼らがモーセを苦しめたので、彼がそれを唇にのせたからである。」(詩篇106:23、32~33)これは、あまりにも民がモーセを困らせたので、つい、彼も神の霊に背いて軽率な言葉、感情的な怒りの言葉が口から出てしまったということです。彼らをかばったモーセがかえって、不幸を負ってしまったと言う詩篇です。このような民の不満、そして指導者モーセの不信仰と不従順にもかかわらず、神は民のために前と同じように、岩から水を出して下さいました。しかし、その後モーセとアロンに対して本当に厳しい裁きが下されます。

3.神の聖なることを示さない罪

「主はモーセとアロンに向かって言われた。『あなたたちはわたしを信じることをせず、イスラエルの人々の前に、わたしの聖なることを示さなかった。それゆえ、あなたたちはこの会衆を、わたしが彼らに当てる土地に導き入れることはできない。』これが(メリバ)の水であって、イスラエルの人々が主と争ったところであり、主が御自分の聖なることを示された土地である。」(20:12~13)

神様は、このカデシュのメリバの水事件で、二人の犯した罪を二つ述べています。それは、一つは「わたしを信じなかった」こと、そしてもう一つは「神の聖なることを示さなかったこと」であると言っています。モーセとアロンは何を信じなかったのでしょうか。それは、神様の御言葉を信じなかったのです。「岩に向かって『水を出せ』と言いなさい」と、主は命じました。しかし二人がしたことは、言葉を使って命じることではなく、杖を使って岩を打ったのです。彼らは、自分の今までの経験に頼りました。あのレフィデイムのホレブの山でしたように、岩を打てば水が出ると思い込んだのです。神の二度目の新しい御言葉を無視して、自分たちの経験と勘に頼ったのです。しかも感情まかせに二回も打ちました。前回は一回打って水が出たから、今度は二回打てば確実に出るだろう、もっと大量の水が出るかもしれないと思いました。

岩は一回打てばいいのです。二回も打つ必要はありません。パウロはこう言っています。「(先祖は荒野で)皆が同じ霊的な飲み物を飲みました。彼らが飲んだのは、自分たちに離れずについて来た霊的な岩からでしたが、このいわこそキリストだったのです。」(Ⅰコリント10:4)と。つまり水を出す岩はキリストのことを指しています。そしてこの霊の岩を打つということはイエス・キリストを十字架につけると言うことです。キリストがわたし達の不平不満と言う罪の身代わりになって、神様の罰を受けて叩かれて下さり、それによってわたし達にキリストの罪の赦しを得させる命の水が注がれるのです。

イエス・キリストの十字架の贖いの死が一度でいいように、荒野の岩なるキリストが打ちたたかれるのも一回でいいのです。その岩なるキリストを二度も三度も叩くと言うことは、一度罪赦されたにもかかわらず、再び自分の罪によってキリストを苦しめ、その血を流させるという意味があるのです。今回の事件によって、キリストは民のためにも、またモーセとアロンの罪のためにも再び贖いの血を流さなければなりませんでした。これが彼ら二人の不信仰です。罪の贖いは一度で十分だったのです。(ローマ6:10、ヘブライ9:28)神に反抗して争ったのは、民だけではなく、モーセもアロンも争ったのです。それが、このメリバの水事件だったのです。

次に「神の聖なることを示さなかった」と言うことは、彼ら自身も聖なる祭司として神に仕えるべきでした。「聖」とは読んで字のごとく、「耳」で聞いて、「口」で祈ることによって、神が自分の主人(王)であることを証することです。つまり神の御言葉への徹底的な服従によって、神がわたし達の主人であることを証する生活です。でも二人は、神の御言葉を信ぜず、自分を主として自分の経験や勘で事を行いました。神の聖なることを民に証ししなかったのです。むしろ、岩を叩くことによって、自分の方が神を支配している、自分の思うままの神に仕立てあげてしまったという大きな罪を犯したのです。

神を神の座から引き降ろしてしまったのです。神だけが聖なる方であり、わたしたちはその方の御前には信仰を持ってひれ伏して従うほかないと言うことを証しなければならないのです。神を自分の主人とすることです。しかし、二人はストレスによって、つい神を自分に仕える僕のように取り扱ってしまいました。ここに二人の大きな罪があったのです。

その結果、モーセもアロンも約束の地に足を踏み入れることができないと言い渡されます。申命記32:51~を読んでみましょう。「あなたたちは、ツインの荒れ野にあるカデシュのメリバの泉で、イスラエルの人々の中で私に背き、イスラエルの人々の間で私の聖なることを示さなかったからである。あなたはそれゆえ、わたしがイスラエルの人々に与える土地をはるかに望み見るが、そこにはいることはできない。」(申命記32:51~52)

こうしてモーセは最後に、約束の地をはるかに見渡すことができるネボ山に上り、そこから約束の地を見て最期を迎えることになります。あんなに苦労してイスラエルの民を導いてきたモーセは、たった一回の失敗、過ちで約束の地には入れないという結果になってしまいます。でも足は踏み入れることができなくても彼は信仰を持って、この約束の地をすでに手に入れ、信仰を持って安らかに眠ることができました。モーセはイエス・キリストの予型ではありますが、やはり神ではなかった。一人の罪をもった人間であったと言うことの証拠です。イエス様だけが、その生涯罪を犯すことはありませんでした。神御自身だったからです。

そして、神は、この一緒について来た霊の岩であるイエス・キリストを通して、常に民のために、そしてモーセとアロンのためにも、その打たれた岩の傷から、恵みの水を流して彼らを養ったのでした。これが「神が聖なるお方である」ということのしるしです。つまり、ご自身の御独り子イエス・キリストの贖いによって、いつも弱い私たち、いつも文句ばかり言っているわたし達ですが、そのようなわたし達のためにも常に命の水をもって罪を洗い流し養っていて下さるお方だということです。これが「聖なる方、愛である方」の真の姿であり思いだったのです。モーセはどこまでも、この愛と恵みに富んだ主の御言葉を愛と忍耐と寛容をもって語り続けるべきでした。そのことによって神が聖なるお方であることを民に示し続けるべきだったのです。

そういう弱い私たち、そして群れのリーダーであり、牧者でありながら、時には感情が先だって罪を犯してしまう私です。神様の御心を示すことができないわたしたちです。でも、そういう私たちのためにも、常にそばにいて、愛と寛容と憐れみをもって、命の水で養い聖めて下さるお方がおられます。メリバの水は、わたしたちすべての罪を洗い清めて下さる恵みの水なのです。この命の水を出して下さる岩こそ、十字架のイエス・キリストご自身だったのです。このお方こそ、わたし達の聖なるお方です。どんな罪をも、洗い聖めて下さるお方がいることを覚えて、この信仰の旅路を共に歩んで行きたいと願っています。

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