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メリバの水 (民数記20:1~13)

メッセージ

2011年10月9日富里キリスト教会
「メリバの水」
(民数記20:1~13)
1.モーセの罪

さて、例の通り、民の反撥に出会ったモーセとアロンは、早速神様の前に行きました。この民の不平不満は、一回ではありません。何度も何度も起ってきました。しかし、そのたびにモーセは主のみ前に行って、どうしたら良いか尋ねています。

「モーセとアロンが会衆から離れて臨在の幕屋の入り口に行き、そこにひれ伏すと、主の栄光が彼らに向かって現れた。主はモーセに仰せになった。『あなたは杖を取り、兄弟アロンとともに共同体を集め、彼らの目の前で岩に向かって、水を出せと命じなさい。あなたはその岩から彼らのために水を出し、共同体と家畜に水を飲ませるがよい。』モーセは命じられたとおり、主のみ前から杖を取った。そして、モーセとアロンは会衆を岩の前に集めて言った。『反逆する者らよ、聞け。この岩からあなたたちのために水を出さねばならないのか。』モーセが手を上げ、その杖で岩を二度打つと、水がほとばしり出たので、共同体も家畜も飲んだ。」(20:6~11)

主はモーセに、「杖を取り、共同体を集め、岩に向かって、水を出せと命じなさい。」と言いました。そしてモーセは、主が命じられたとおりに杖を手に取りました。二人で、会衆を岩の前に集めました。そこまでは良かったのです。しかし次の行為が神様の意に反した行為でした。それは、「反逆する者らよ、聞け。この岩からあなたたちのために水を出さねばならないのか。」と言ったことです。そして次に、「杖で、岩を二度も打った」ことです。この言葉と行為が、神の御心に反しました。

A.「反逆する者らよ、聞け」(言葉の罪)

今回は、あまりにも反抗的でわがままな民の態度に業を煮やしたのか、ついに怒りが爆発し、「反逆する者らよ!」とつい言ってしまいました。そして、堪忍袋の緒が切れたのでしょうか「いつまで、我々は、お前たちのわがままを聞いて、お前たちのためにその要求に答えなければならないのか。」と言ってしまったのです。あんなに神の前では信仰深そうにふるまい、主の前にはひれ伏して、神の御栄光が現れるほどの信仰を示したばかりでしたのに。激しい怒りの声です。民数記12:3に「モーセという人はこの地上のだれにもまさって、謙遜であった。」とあります。旧約聖書の中で最も謙遜な人物であったモーセが、ここでは、自分の感情をむき出しにして、まるで自分が今まで民を養ってきたかのような暴言を吐いたのです。

神様はこのモーセの言葉の中に、あたかも今まで自分が民を率いて来たかのような傲慢な心を見ました。神様からすれば、「ああ、モーセ、お前までもわたしをないがしろにし、自分をまるで神のようにふるまうのか。」と思ったに違いありません。主の御心を悲しませる言葉でした。民の不信仰が、指導者モーセまで襲ってしまっていたのです。

詩編106:23と32~33(P.946)までを読んでみましょう。
「主は彼らを滅ぼすと言われたが、主に選ばれた人モーセは、破れを担って御前に立ち、彼らを滅ぼそうとする主の怒りをなだめた。・・・彼らはメリバの水のほとりで主を怒らせた。彼らをかばったモーセは不幸を負った。彼らがモーセの心を苦しめたので、彼がそれを口に乗せたからであった。」とあります。

あんなに神と人との間に立って、人の不従順の故に神との破れた関係をとりなし、仲介してきたモーセなのに。このメリバでは、民の不平不満の声に負けて、モーセ自身も言ってはいけない言葉を吐いてしまいました。民が神の御心に背いただけではなく、モーセ自身も、神の御心に背き、神の霊に逆らったのでした。神の御心は、たとえイスラエルの民が心かたくなで神の御心に従わずとも、彼らを見捨てることなく顧み、慈しみと憐れみを持ってどこまでも彼らを愛し通すことでした。モーセはその神の思い反し、神の霊に背いた言葉だったのです。

2. 岩を二度打った(罪の行為)

第二番目のモーセの罪は、主から受け取った杖で、岩を二度打ったことです。神様は、モーセに「岩に向かって、水を出せと命じなさい。」と言いました。しかし、怒りの感情に燃えるモーセの耳には入らなかったようです。せっかく主の前にひれ伏して、主の御心を尋ねたにもかかわらず、彼は主が命じられたこととは別なことをしてしまいました。岩を杖で二度も打ってしまったのです。どうして彼は、そのような過ちをしてしまったのでしょうか。

実はこの水についての事件は、エジプトを脱出したすぐ後でも起こっております。出エジプト記の17:1~7(P119)までに同じような記事があります。17:4からを読んでみましょう。「モーセは主に、『わたしはこの民をどうすればよいのですか。彼らは今にも、わたしを石で打ち殺そうとしています』と叫ぶと、主はモーセに言われた。『イスラエルの長老数名を伴い、民の前に進め。また、ナイル川を打った杖を持って行くがよい。見よ、わたしはホレブの岩の上であなたの前に立つ。あなたはその岩を打て。そこから水が出、民は飲むことができる。』」

この時の水をマサ(試す)の水と言っています。民が神を試したからです。この時には、モーセは必死に神に助けを求め、どうすべきかを尋ねています。そこで、主はモーセにあのナイル川で血を水に変えた杖を持って行き、その杖でホレブの岩を打つことを命じられました。そしてモーセが岩を打つと、そこから水がほとばしり出ました。

メリバと似たような事件がかつてあったのです。モーセは、この時も神様から杖をいただき、この杖を使って岩をたたいて水を出しました。ですから、もしかしたら、彼は前回と同じように岩を打つとそこから水がわき出ると思ったのかもしれません。以前もそうだったから、今回もそうに違いないと、早合点したのではないかと思います。

ここで気をつけなければならないことは、人間の経験とか慣れということです。
神様が杖を持って行きなさいと言ったから、今回も岩を打つことを命じたと、モーセは思いました。でもそれは、モーセの思い込みでした。神の御言葉通りにすべきでした。前回こうだから今回もそうだという、人間の思い込みは気をつけなければなりません。絶えず、新しく、その都度その都度、神から聴いてゆくことです。主イエスも「あなた方は、どのように聴くか注意しなさい」と言われました。(マルコ4:23)主はモーセに「打ちなさい」ではなく「岩に命じなさい」と言いました。

モーセは、神の御言葉に真剣に向き合い従うことを忘れました。そして、腹立たしさまぎれに、岩を二回も打ってしまったのです。初めの一回は、「前もこうだったから」と、自分の経験に頼って打った一撃です。次の打ち方は、民の強情さに腹が立って、自分の怒りの感情を岩にたたきつけました。八つ当たりです。それはまるで、「神様がお前たちをこんなに怒っているんだぞ。40年経ってもまだそんな信仰か!いい加減にしないとお前ら全部を滅ぼして懲らしめてしまうぞ。」と言わんばかりの行為だったのです。脅しているのです。これはあたかもモーセが神の役割を演じているかのようにさえ思えます。言い換えると、モーセはこの時点で自分をまるで神のように示し、イスラエルの支配者のような態度を取ったのです。

民数記20:11では、「モーセが手を上げ、その杖で岩を二度打つと」とあります。そうでしょうか。本来神から授かった杖は、上に高くあげるべきではなかったでしょうか。主が「杖を取れ」と言ったのは、打つためではなく、杖を高く上げてどこまでも神への信頼を示し、祈るためだったのではないでしょうか。杖は神への絶対信頼を表すしるしです。あのエジプト脱出の時にも、モーセに主は「杖を高く上げ、手を海に向かって差し伸べなさい」(出エ14:16)と命じました。モーセは、杖を高く上げ、手を海に差し伸べたところ、海は二つに分かれました。

アマレク人との戦いでも、モーセは神の杖を手に持って、高く掲げました。モーセの杖が高く上がっている時に、イスラエルは優勢になりました。(出エ17:8~13)神の杖は本来、「主に信頼しています。」という信仰告白の杖であり、祈りの杖であり、救いを与える(十字架の)杖なのです。人を打ったり懲らしめたりするためのものではありません。「あなたの杖、それがわたしを力づける」(詩編23:4)のです。

3.キリストはモーセよりも強い

第一コリント10:4(P.311)にこういう言葉があります。「皆が同じ霊的な飲み物を飲みました。彼らが飲んだのは、自分たちに離れずについて来た霊的な岩からでしたが、この岩こそキリストだったのです。」と。パウロは、あの水が噴き出した岩は、キリストだったのですと説明しています。キリストがいつも共に歩んでくださり、彼らの必要に応じて霊的な飲み水を与えてくれました。神に対する不平や不満が出るのは、霊的に乾いてくると文句が出てきます。そして、実は民ばかりではなく、指導者のモーセ自身も霊的に渇き切っていたのではないでしょうか。40年間の疲れが出たのかもしれませんし、40年間の経験がモーセの心に慢心を起こさせたのかもしれません。

確かにのども乾きもあったでしょう。でも霊的に満たされていれば、多少の渇きも我慢できます。しかし、姉のミリアムが死に、兄のアロンも年を取って来て、果たしてあの約束の地に我々が入れるだろうかという不安もあったのではないでしょうか。そして、モーセ自身も岩なるキリストに対して自分の感情をぶつけ、イエス・キリストを苦しめてしまいました。モーセの罪が岩なるイエス・キリストを打ったのです。

確かにモーセも人ですが、民の罪の破れを担って、神にとりなし、その苦しみを共に担うべきでした。でも、今、岩なるキリストがモーセの破れを担って下さいました。たとえモーセのいら立ちや怒り、不信仰がありましても、キリストは命の水を拒むことなく、モーセと民のために、杖で打たれつつも、霊の糧である命の水を出して下さったのです。

私たちもモーセと同じ人間です。時には不平や不満、怒ることもあります。投げやりになることもあるでしょう。でも、岩なるキリストは、さらなる大きな愛と恵みと忍耐を持って、私たちの弱さや破れにもかかわらず、願いを聞いてくださる方だということです。この岩なるキリストこそ、モーセに勝る私たちのとりなし手、罪の贖い主です。自分たちの罪や弱さのゆえに、キリストを傷つけ、悲しませてしまう私たちです。でも、いつもそのような愚かで弱い私たちの願いに答えてくださる、岩なるキリストの愛と忍耐に感謝したいと思います。                           (岡田 久)

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