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マリアの賛歌 (ルカ1:39~56 ヨハネ1:5)

メッセージ
2017年12月17日富里キリスト教会
   
        「マリアの賛歌」
                   (ルカ1:39~56、ヨハネ1:5)

1.祈りはきかれる

今回こうして、一人の兄弟の死を通して教えられたことは、わたしは奥さんの祈りが聞かれたのではないかと思います。たとえ9年前になくなってはおられますが、お母さんの祈りは天国でも成されていたのではないでしょうか。今日のみ言葉にありますとおり、1:45「主がおっしゃったことはかならず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」と言うエリサベトの言葉にあるとおりです。たとえ祈っている本人が先に死んでしまっても、その祈りは祈り続けられていると言うことです。そして主のもとに届けられていると言うことです。本人は死んでも、その人の祈りはまだ生きているのです。生と死を支配し時間を支配しておられるお方の耳に届いているのです。

教会でも、奥さんだけがクリスチャンと言うご夫妻はいます。もしかしたら、奥さんが先になくなってご主人が後に残るかもしれません。そのとき、ご主人の救いを願っていた奥さんの祈りはもう終わった、途絶えてしまったと思うかもしれません。でも、わたしは今回の出来事を通して、わたしたちの祈りは続いているのです。生きているのです。それは、たとえわたしが死んでも、祈りの声は主の耳元に届いているからです。この歴史も時間も支配しておられる方は、わたしたちが死んでも生きて働いてくださいます。ですから、祈りましょう。祈りは聞かれます。そしてやはり、願うことは、生きているうちにイエス様を信じて天国への切符を手に入れてもらいたいと言うことです。元気なうちに信仰に入って残された人生を有意義に、神様に仕える最高の人生を送った方がいいじゃないですか。

来週は一人の82歳の兄弟のバプテスマ式を行う予定になっています。先週の週報にも書きましたが、先月のスモールグループの時に、彼はこういいました。「先生、わたしこの度、洗礼(バプテスマ)を受ける決心をしました。わたしももう年ですし、死ぬ間際に受けるよりは、今受けて、あと何年生きるかわかりませんが、残された人生を有意義に過ごしたいです。」と。わたしもその時、「アーメン、そのとおりです。」と答えました。ぜひ生きているうちに、元気なうちに神様を信じて、意義のある豊かな人生を歩んでいただきたいと願っています。

このイエス様のお誕生と言うクリスマスの、どこかしら心がうきうきする季節に、ある意味で悲しい三つの出来事を経験しました。でもこのとき、わたしに一つのクリスマスのみ言葉が浮かんできました。先ほどのマリアの「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように。」(ルカ1:38)と言う言葉、そしてエリサベトの「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」(1:45)と言う言葉です。

I was taught by third events that our prayer is living and being heard by God .One brother's wife
who had gone to heaven several years ago was a Catholic believer. By her prayer and testimony her family asked me to save their father at his last breath .So I and her cousin could go to the hospital and asked his faith. I realized his wife's prayer is living after her death .Because the Lord is living now and controlling our history and the time. So our pryer is living too.Let us pray not to give up and pray eagerly. Our prayer is being heard by God. Elizabeth said “Blessed is she who has believed that what the Lord has said to her will be accomplished”(Luke 1:45)

     

2.闇は光に勝たなかった

そしてもう一つの言葉が頭をよぎりました。それは「光は闇の中に輝いている。そして、闇はこれに勝たなかった。」(ヨハネ1:5)というヨハネの言葉です。(新共同訳は「暗闇は光を理解しなかった」となっている。また新改訳「闇はこれに打ち勝たなかった」、現代訳「闇の世界は決してこれに打ち勝つことできない」とあります。)新共同訳よりは、前に暗記していました口語訳聖書の「闇はこれに勝たなかった」と言う言葉を思い出しました。この言葉を共同訳で探しましたが、なかなか見つかりませんでした。少し訳が違っていたからです。でも元は「闇はこれ(光)に勝たなかった。」と言う言葉です。新改訳では「打ち勝たない」、現代訳では「決してこれに打ち勝つことはできない」と強調しています。

わたしは今回の三人の兄弟の死を通して、確かに、死、葬儀と言う悲しい出来事ではありましたが、でもこの三人は主を信じて天国に旅立ってゆきました。ある人は100歳まで生きて主に仕えました。ある人は牧師として伝道と教会形成に励まれ、道半ばですが一生懸命働いて主の許へと旅立ちました。ある人は最後の最後まで、思いはあっても決心できずに、死の間際に助けを求めて救われました。それぞれが、いろんな出会いと生涯を通して、この世に来られた命の言を見ることができたのではないでしょうか。

今日、見渡せばこの世界は闇です。戦争の噂が絶えません。一瞬にして全世界が核戦争によって、灰に帰するかもしれません。死者を乗せた漂着船が日本の海岸に押し寄せています。権力者の汚職がはびこっています。そういう闇が支配する時代にわたしたちは生きています。そういう暗闇の世界に、神の御一人子イエス・キリスト様が肉をとって来てくださったのです。ヨハネ1:4に「言のうちに命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中に輝いている。暗闇は光を理解しなかった。・・・その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。」(ヨハネ1:4,5,9)とあります。これがクリスマスの出来事です。

この命を与える光がこの世に来てくださったのです。これがクリスマスのメッセージであり喜びの源泉です。まことの光が世に来られて、すべての人々の心を照らしています。この闇に輝いている一筋の命の光を、この三人の兄弟たちは見て生きてきました。そしてその命の光のうちに、安らかに息を引き取って天に帰ってゆかれました。死と闇はこの命の光に決して打ち勝つことができません。「死は勝利に飲まれれてしまった」とのみ言葉のとおりです。

つまりイエス・キリストは、肉をとってこの世に来られ、わたしたちの罪を贖ってくださるために来られました。それは御子を信じる者が、誰でも罪赦されて神の子の身分をいただき、神の御許に帰るためなのです。キリストはわたしたちの罪のために十字架にかかられて死なれ、三日目に死人の中から復活されました。そして今も聖霊様を通してわたしたちと共にいてくださいます。ですからこのキリストの十字架の光に照らされた者は、神の子となる資格をいただくのです。この御子はすでに世に来られて、贖いの業を成し遂げられました。

キリストをこの贖いの働きから遠ざけようとした悪魔の闇の力は、ことごとく失敗しました。闇の勢力は光の勢力に打ち勝つことはできなかったのです。それどころか、光が闇に勝利をされました。それはイエス・キリストの十字架によってです。ですから、この召された三人の兄弟にとって、死は何の力も持ちません。すでに墓の蓋は開けられ、主は復活されされました。ですから主を信じたものにとっては、この最後の死の力は、もはや何の力も及ぼすことはできないのです。彼らは共に、信仰を持って主の御許へと上ってゆかれました。今も、この永遠の命の光は闇の中に輝いています。闇が暗ければ暗いほど、御子の恵みの光はますます大きく光り輝いています。

From these last event of my brother's departure I remember the one Word of the bible. That is John
1:5 “The light shines in the darkness ,but the darkness has never overcome it ”Now we are living in
the darkest world hearing the rumor of the war seeing the corruptions of authority. The power of the darkness is overwhelming us .But these three brothers have gone to the heaven closer to God seeing the light of life . The power of darkness never overcome their eternal life in Jesus Christ.
they had gone to heaven willingly delight overcoming the death of the power of the darkness.
This is a graceful gift of Christmas.

3.御言葉の光

そしてこの光と言うのは、御言葉の命の光です。メッセージです。説教です。皆さんの証の言葉です。クリスチャンとしての証の生活です。この言葉を聞いたとき、わたしたちの魂も霊も心からの歓喜の声を上げるのです。マリアとエリサベトが出会って、マリアがエリサベトに挨拶をしたら、エリサベトのお腹に入っていた胎児も喜んで踊りました。いいですか、この命の言葉は、、胎児でも聞き分けることができるのです。1:41に「マリアの挨拶の言葉をエリサベトが聞いたとき、その胎内の子がおどった。」とあります。このすべての人を照らすまことの言葉は、命の言葉です。この言葉を聞くものに命を与え、光を与え、生きる力と希望を与える言葉です。胎児でもそれを聞き分けることができるのです。

よく「赤ちゃんに聖書の言葉を聞かせても分かるかしら。」と疑うお母さんもいます。でも聖書では、赤ちゃんはおろか、胎児でもこの命の言葉をちゃんと聞き分けて感情を表すことができます。マリヤの証の言葉を聞いて、エリサベトのお腹の赤ちゃんが喜んで躍り上がったのです。どんなにかお母さんは驚いたことでしょう。先月も役員会で、今度子供たちにもしっかりとメッセージを聞かせましょうと言うことが話し合われました。子供が聖書のお話分かるだろうか、おとなしく聞くだろうかと言う心配の声もありました。

でも聖書には胎児でも、しっかりとメッセージを聞くことはできるとあります。マリヤの挨拶の言葉が、母エリサベトのお母さんの耳から入ってゆくのです。胎児は、そのメッセージに反応することもできます。そして驚いたことには、なんと胎児でも聖霊に満たされているとあります。ルカ1:15に「(ヨハネは)すでに母の胎にいるときから聖霊に満たされていた」とあります。胎児でも聖霊に満たされることができるのです。そうであれば、教会の幼子たちでも十分に聖霊に満たされることができるということです。教会では、いつも子供たちを二階の部屋に行くようにしていますが、今度はちゃんとこの前の席に座って子供も説教を聴けるようなプログラムを作ることができたらと願っています。

And the light is the Word of life and the message of the sermon and our word of testimony .
When Elizabeth heard Mary's greeting word , her baby danced in her womb. So even the baby in mother's womb was able to hear the word of life and moreover the baby will be able to fill the holy spirit in his mother's womb. This is a Christmas message too. The smallest baby and poorest
woman was elected as a God' servant through the holy spirit.

  

2千年前に、この世にそしてわたし達のところに、命の言、光の言が来て下さいました。そしてその光の言葉は、今も闇の中に輝いています。闇が全世界を覆っていますが、それでもこの光に照らされた人々の上には、神様の命と安らぎが漂っています。たとえ闇の世界がどこまでも大きく、広がっていましても、闇は光に打ち勝つことはできません。そして子供だけではなく、胎児の心さえ照らし出すことができるのです。病気で病院のべッドで、クリスマスを過ごさなければならない人のところにも来て下さいました。病んでいる人、困っている人、悲しんでいる人、希望をなくしている人、すべての人を照らしてくださっているのです。

ガリラヤは貧しい町です。貧困と社会の底辺の人達の住んでいる土地柄です。しかしそういう、貧しい人々、身分の低い人のしかも一人の女性のところにキリストが来てくださったのです。これがクリスマスの恵みです。名もない一人の人のところに、キリストが来て下さったのです。人生の最後を病院のベッドの上で過ごしている一人の兄弟のところへも、イエス・キリストは来て下さいました。そして聖霊様を通して救いへと導き、今は奥様と一緒に主の許に居られると信じております。

マリアは聖霊に満たされて、心からあふれ出てくる神への讃美の声を抑えることができませんでした。それがこのマリアの賛歌です。「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。身分の低い、この主のはしためにも、目を留めてくださったからです。今から後、いつの世の人も、わたしを幸いな者というでしょう。」(1:47~48)学問も学歴もない、貧しい田舎の一人の女性の口からすばらしい讃美の歌がほとばしり出ました。聖霊によってこみ上げてくる、自分の真実の思いがほとばしり出てきたのです。マリアは声高らかに主を讃美しました。こんなわたしをも主のはしため、主の僕として選んでくださった主の大きな恵みを感謝せずに入られませんでした。わたしたちもマリアと同じように、主によって選ばれ、主の僕とさせていただいた者です。マリアと共に心から主を讃美しようではありませんか。 

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