マリアの信仰 クリスマスイブ燭火礼拝
2010年12月24日富里教会 イブ・キャンドル礼拝
「マリアの信仰」
(ルカ1:26~38)
1. マリアの戸惑いと恐れ
ルカによる福音書の1章6節からもう一度読んでみましょう。
「6ヶ月目に、天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。ダビデ家のヨセフという人のいいなづけであるおとめのところに遣わされたのである。そのおとめの名はマリアといった。天使は、彼女のところに来て言った。『おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。』マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。」(ルカ1:26~29)
マリアはヨセフのいいなずけでした。最近はあまりありませんが、昔はよくいいなずけの夫婦というものが日本にもありました。親同士が結婚を決めて約束する場合です。この当時の婚約期間はたいてい12ヶ月、1年となっていまして、その間、婚約者は互いに結婚について聖書から学んだり、家事や結婚生活について準備をする期間でした。いわば、花嫁修業の期間だったのです。とは言っても、親が決めたことですので、実質的には結婚したも同然でした。婚約を解消するためには離婚手続きをしなければならないほど法的宗教的に厳格な婚約期間でした。
女性にとっては、人生のハイライト、一番輝いて美しくなる時です。でもこの婚約中は相手とは会うことも手を握ることもできません。おたがいに自分の家で純潔を守りながら、やがて来る結婚式の日を聖書から教えられつつ心待ちにしておりました。
ところがマリヤは相手のヨセフとは手さえ握ったこともない仲なのに、ある日突然、天使ガブリエルから、「おめでとう、恵まれた女よ。あなたは身ごもって男の子を産む。」と告げられたのです。どんなにマリアが驚いたか、想像を絶するものがあります。34節でマリアは、「どうして、そんなことがありえましょうか。私は男の人を知りませんのに。」と答えています。
皆さんでしたらどうするでしょうか。婚約中に、いくら天使からのお告げだといっても、子供ができてしまったのです。突然告げられた妊娠の知らせ、しかも男の子だというのです。もし、これが婚約者のヨセフに知れたら、離婚させられ婚約解消です。下手をしますと、マリヤは姦通罪で石打の死刑を受けなければならないかもしれないのです。どんなにか、この若い一人の女性の心は動揺したことでしょう。
クリスマスの出来事とは、ある意味では戸惑いと不安の中で起こったことでした。つまり、自分の人生の絶頂期、何もかもうまく行ってばら色のような未来を思い浮かべていたことが、突然打ち砕かれたのです。自分の人生設計、将来への理想が突然打ち砕かれたのです。この突然の知らせは、本当は最高のプレゼントですが、その反面、自分が願っていたこと、希望していたことが突然打ち砕かれ、夢への道が閉ざされてしまう苦悩の出来事でもありました。
3.おめでとう、恵まれた女よ
今日ここに、自分が願っていたこととは違うことになってしまったと思っている方がおられるでしょうか。あるいは、自分が希望していた道が、突然閉ざされてしまった方がおられるでしょうか。あるいは、何で自分にこういう納得できないことが起こったのかと、戸惑っておられる方はいないでしょうか。でも、それがある意味では、神様から与えられたあなたへのクリスマスプレゼントなのかもしれません。マリヤもそうでした。とてもクリスマスプレゼントとは思えないような出来事が彼女の身に起こったのです。
でも天使ガブリエルは、マリアにこう告げました。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。」「神にはできないことは何一つない」(1:28,30,37)と。
マリヤは聖霊様によって身ごもりました。聖霊様は、父、子、聖霊なる三位一体の中の一人の神様、聖霊なる神様です。私たちクリスチャンもそうです。聖霊様が私たちの心に臨む時、心の扉が開かれて、イエス・キリスト様が私たちの心の中に入って下さいます。これが信仰です。自分で信じたのではなく、聖霊なる神様が働いて心が開かれ、イエス・キリスト様を心の中にお迎えできたのです。これが、神様からの一方的なプレゼントなのです。
ですからマリアは、いわば新約聖書の中の初めてのクリスチャンと言って良いかも知れません。クリスチャンは聖霊様を通して、心の中にイエス・キリスト様を宿し、そのことを神様のみ言葉を通して信じた者のことです。父と子と聖霊様の愛の交わりの内へと招き入れられた者をクリスチャン、信仰者と言います。
それは、聖霊様を通して、神様の側から突然与えられたものです。自分はこうしよう、こう生きようと思っていることとは別に、神様が突然私たちの人生に入って来て、「恵まれた人よ、おめでとう」と声をかけてくださるようなものです。一方的な神様からの恵みの出来事です。でも、正直言いましてそこには、戸惑いと恐れ、不安があります。なぜなら、自分の決めた生き方ではないからです。神様がお決めになった生き方を生きなければなりません。そして、その時には自分の生き方を断念することがあるかもしれません。その時人は戸惑い、恐れます、心配になります。
4.お言葉どおり、この身になりますように
でも、天使が最後に行った言葉、「神には何一つできないことはない。」(1:37)この言葉を最後に聞いて、マリヤはこう言いました。「私は主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように。」主のはしためと言いますのは、主の奴隷、召し使いと言う意味です。今までは自分の人生、自分の思うままに生きてきた。でもこれからは、自分の人生の主人は神様です、私はその召し使いです。ですから私は、主人である神様の命じるとおりに生きます。それが、マリヤの信仰の告白でした。
そして自分の考え、自分の願い、自分の理想に向って生きるのではなく、これからは、神様の御言葉の命じるままに生きます。これが、「お言葉どおり、この身になりますように。」と言うマリアの信仰の決心の言葉でした。マリアは、「神には何でもできないことはない」という天使の言葉を信じ、生まれ変わりました。聖霊様によって本当の信仰をいただいたのです。それが「お言葉どおり、この身に成りますように。」というマリアの告白の言葉です。新しく生まれたのは、御子イエス様だけではなく、マリヤも神の御言葉を信じる信仰を通して新しく生まれ変わったのです。
この後マリアは、妊娠した身重の体で、先祖代々の町であるベツレヘムまで、ヨセフと一緒に旅をしなければなりませんでした。そしてベツレヘムでは、泊る宿がなく、馬小屋の飼い葉桶の中に我が子を産みました。それから、ヘロデ王の殺害の手を逃れるため、エジプトに逃げて行きました。初産の時から、いろんな苦難の出来事が続きました。そこで、ヘロデ王が死ぬまで隠れていて、ヘロデ王が死んでから、ガリラヤのナザレの村にようやく戻りました。
その後夫のヨセフは早死にしたようですが、長男イエスが30歳まで大工の仕事をして家計を支えながら、母マリアと一緒に暮らしました。そして、30歳になってからイエス様は伝道の生涯に入られ、33歳で全人類の罪の贖いのために十字架にかけられて死んでしまいます。その十字架の死の時にも、母マリヤは傍にいて、息子イエス・キリストの最後を看取りました。その時、かつて幼子を神殿に献げる時に出会った、シメオンという人の言葉を思い出したに違いありません。シメオンはこう言いました。「この子は多くの人の罪のために十字架に架けられます。その時、母であるあなたの心も剣で刺し貫かれるような思いをしますよ。」と。(ルカ2:34~35)
我が子を先に死なすことは、母親にとってはどんなにか辛いことだったでしょう。でも、マリアはイエスを身ごもった時から、すでに「私は主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように。」と告白して来ました。イエスを身ごもった時も、馬小屋の中で孤独と不安を覚えつつ出産した時も、そして我が子の死を見取った時も、マリヤはいつも「御言葉どおりになりますように。」と祈りつつ、その苦しみと悲しみを乗り越えて来たに違いありません。
彼女の人生は、あの天使ガブリエルの突然の知らせから、本当に大きく変りました。また、彼女ほど全世界の女性の中で最高の祝福と恵みを受けた女性はないと思います。それは、「神にはできないことは何一つない」との言葉を信じて、主のみ言葉は必ず実現すると信じたからでした。そして、その信仰の故に、救い主の母に選ばれたのですから。
現代は、マリアとヨセフが婚約した婚約の時代です。「おめでとう、恵まれた人よ」と私たち一人一人に、天使が告げております。そして私たちも、「お言葉どおり、この身になりますように」とマリヤのように、信じるものでありたいと願っています。そしてお一人お一人が、結婚式を迎える花嫁として教会を通して花嫁修業の信仰生活を送っています。
やがて、イエス・キリストが天から再び来られる再臨の時が、花婿キリストと花嫁である教会の結婚式という最大のクライマックスの時です。その時が必ず来ます。この結婚式に備えて私たちも、このクリスマスの出来事をマリアのように、イエス・キリストを心の中に宿しつつ、神様の御言葉は必ず成就すると信じて、従ってゆく者でありたいと願っています。(岡田 久)