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マノアの妻 (士師記13:1~5、19~25)

メッセージ
2018年9月16日富里キリスト教会
「マノアの妻」
(士師記13:1~5、19~25)

1. 母の信仰

「イスラエルの人々は、またも主の目に悪とされることを行ったので、主は彼らを40年間、ペリシテ人の手に渡された。その名をマノアという一人の男がいた。彼はダンの氏族に属し、ツォルアの出身であった。彼の妻は不妊の女で、子を産んだことがなかった。主の御使いが彼女に現れて言った。『あなたは不妊の女で、子を産んだことがない。だが、身ごもって男の子を産むであろう。今後、ぶどう酒や強い飲み物を飲まず、汚れた者を一切食べないように気をつけよ。あなたは身ごもって男の子を産む。その子は胎内にいる時から、ナジル人として神にささげられているので、その子の頭にかみそりを当ててはならない。彼は、ペリシテ人の手からイスラエルを解き放つ救いの先駆者となろう。』」
(13:1~5)
ちょうど13章の前のところに、別な他の士師の名前が出ております。「イブツアン」「エロン」「アブドン」とありますが、この士師たちが生きている間は、イスラエルの民は罪を犯すことはありませんでしたが、彼らが亡くなるとまた元の黙阿弥になって、悪を行ってしまうのです。そこで主は、今度はサムソンという人を士師として選びたてました。

そのサムソンの父の名前はマノアとありますが、母の名前は出ていません。しかし、例のごとく、主の使いは夫に現れるのではなく妻に現れます。このように、イスラエルの指導者を世に生み出す母の果たす役割は非常に大きいと言えます。今回もマノアの妻に現れました。そして妻に対して、「あなたは子供を産む。しかもその子はイスラエルを救う先駆者となる。従って、あなたは今後、ぶどう酒や強い酒を飲まず、汚れたものを食べないようにしなさい。」と命じます。

つまりその子が士師として選ばれ与えられるためには、母の信仰も大事だということです。いかに母親が、その子を宿した時に、自分自身を清く保つ必要があるかということです。母親も清められなければなりません。確かにそうですよね。あのイエスの母マリアは、自分が結婚していないにもかかわらず、またいいなずけと生活したこともないにもかかわらず、「あなたは妊娠しました。」という知らせを受けました。本人とは全く関係なく、神様の選びとその不思議な力は、その一人の女性に働くのです。おそらくマリアが、「いいえわたしは結婚していませんから、そんなことはあり得ません。」と答えたら、救い主の誕生はなかったでしょうし、この世はまだ救われないままでした。

母となる人が、いかにこの神様の約束の言葉を信じるかどうかです。自分に語られた神の言葉を、素直に信じて従う所に奇跡が起こるのです。母親の信仰が求められています。ナジル人になったのは、子供のサムソンだけではなく、この母親も一緒にナジル人になるよう求められたのです。ナジル人と言いますのは、特別な誓願によって、「神にささげられ、聖別された人」のことを言います。その誓願期間中は、酒を断ち、頭髪を刈らず、死体に触れてはいけませんでした。(民数記6章)汚れを受けないためです。サムソンやサムエルは、自分からなったのではなく、神様の選びによって母親の手を通して神様にささげられ、生涯ナジル人として過ごしました。

マノアの妻も、ぶどう酒さえ飲むことが禁じられ、また律法に記されている汚れた食べ物を食することも禁じられました。確かにお母さんが、大酒のみで、たばこも平気で吸っていたらどうでしょうか。おそらくその子も母親の影響で、お酒が好きで煙草も飲み始めるのではないでしょうか。お母さんが、この子はあんまりほしくはなかったという気持ちで子供を産んだら、そのお母さんの感情が子供に影響してしまいます。大きくなってからも、どこかに不安を抱えた子供になってしまうことはないでしょうか。

母親の心の状態、生活態度が、子供に影響を与えるということは事実かもしれませんが、でも神様は、神様はその子をイスラエルを救う先駆者、リーダーとして選んでおられるのです。選ばれた自分の息子に対して、母親は責任をもってその子の選びにふさわしい生活をすることが求められています。親の生活態度や生き方で、その子が影響を受けることはあるかもしれませんが、ここでは逆で、子供が選ばれてお母さんが清い生活を送るのです。選びは神様から来るのです。
子供は一人一人、神に選ばれた神の子です。その子供にふさわしく親もまたぶどう酒を飲まず、強い酒も飲まず、汚れた食べ物を口にすることがないようにしたいものです。その子のゆえに親も選ばれているのです。マノアの妻には、その信仰がありました。

The angel of the Lord appeared to the wife of Manoah and said to her “You are going to conceive and have a son. So you should not drink wine and other fermented drink and eat anything unclean. No razer may be used on his head , because the boy is to be a Nazirite,set apart to God from birth, and he will begin the deliverance of Israel.” (13:4-5) through the calling of her child, his mother also called to be a Nazirite. Every child is elected by God as a son of God according to God’ plan. As well as the child his mother also called as a worker for the God’ purpose. We should make us clean avoiding and dirty.

2.頭にかみそりを当ててはならない

サムソンの場合には、ナジル人としてもう一つ大切な掟がありました。それは「頭にかみそりを当ててはならない」ということです。そして彼の強さの秘密はこの頭の髪の毛にありました。なぜ髪の毛を切ってはならないのかと言いますと、その髪に神の力が宿るからです。神の力が宿り働くところに、かみそりという文明の機械や道具を使ってはいけないということです。

つまりサムソンの力の源が、文明科学技術、医療薬の類によって引き起こされたものだということがないためです。最近は、科学技術の発展によって、ロボットを使って重いものを持ち上げるようなことがあります。あるいはアスリートのように、禁止薬物を使って異常な力を発揮するというようなことも考えられます。サムソンの力が、そのような人間の手や知恵によって引き起こされたものではないということ、あくまでも神の力によるものだということを証明するために、神はあえて髪の毛を神の力の宿るところとして、これに文明に利器を当てないように命じました。

サムソンはこの髪の毛の力の秘密が暴露されるまで、実にすばらしい働きをしました。14章では、ライオンと格闘してその体を自分の力で引き裂きました。
(14:6)またペリシテ人30人を撃ち殺しました。(14:19)そしてロバのあごの骨を使って、ペリシテ人1千人を殺しました。(15:15)その後、髪の秘密が愛人のデリラにばれて、力を失いとらわれてしまいますが、実はそれも神様の御心でした。髪の毛が伸びるころ、ペリシテ人の神殿に見世物として引き出されて、そこの偶像礼拝の神殿の柱を壊し、何千人ものペリシテ人を道ずれにして犠牲にしました。(16:28)

彼の髪の毛には不思議な神の力が隠されていました。わたしたちも神様の力の源には、科学の力や人間の知恵と言った人工物を当ててはなりません。神の力は、あるがままの存在に働くのです。例えば、この聖書に、科学の光や科学のメスを入れてはいけません。聖書は神の力の源泉です。神の力はこのみ言葉そのものから湧き出てきますから、これに科学の道具を当ててはいけないのです。聖書があるがままで語るようにしておかなければなりません。

ローマ書に「福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシャ人にも、信じるものすべてに救いをもたらす神の力だからです。」(ローマ1:16)福音が神の力の源泉です。「み言葉をあるがままに理解させてください。」(詩編119:169b)神の力の源泉である聖書に科学のかみそりを当ててはいけません。人間の利器が手を付けることなく、パーマや染料や油を使って髪を美しく整えるのではなく、(それは人間の視点であり人間の理想化です。)黒髪のままで、人間が手を加えることなく、神の力をあるがままで発揮させることが大事です。

The origin of God’s power was on Samson’s hair on his head. So the Lord ordered to his mother not to use a razer on his head. They should not put a razor on the hair of his head that is an origin of God’s power. That means we human being should not treat the God’ power by the artificial treatment like a machinery power or drug power.
The power of God’s should make influence as it is without artificial treatment. The bible is the origin of God’s power. Paul said “Gospel is the power of God for the salvation of everyone who believes.” (Romans1:16) The power of God is in the Gospel. The origin of the God’s power should be as it is. No razor on it, no scientific treatment on it , no medical treatment on it.

3.妻の信仰

最後に、このマノアという夫婦は、御主人の名前は出ていますが、奥さんの名前を出ていません。しかし、このサムソン誕生にまつわる物語の主人公は奥さんになっています。主の使いが現れたのも、妻の方です。妻から御使いが現れたという知らせを受け取った時、夫のマノアは神様に祈ってもう一度神の人を送ってくださいと言います。そして再び御使いが、夫のマノアの方に現れますが、妻に告げた通りのことを夫にも伝えました。妻はぶどう酒を飲んではならない、汚れてものを食べてはならないと。夫には命じませんでした。

「マノアは子山羊と穀物の供え物を携え、岩の上に登って主、不思議なことをなさる方にささげようとした。マノアとその妻は見ていた。すると、祭壇から炎が天に昇るとき、主の御使いも、その祭壇の炎と共に上って行った。マノアと妻はそれを見て、ひれ伏して顔を地につけた。主の使いは再びマノアとその妻に現れることがなかった。マノアはそのとき、この方が主の御使いであったことを知った。マノアは妻に、『わたしたちは神を見てしまったから、死なねばなるまい。』と言った。だが妻は、『もし主がわたしたちを死なせようとお望みなら、わたしたちの手から焼き尽くす捧げものと穀物の捧げものをお受け取りにならなかったはずです。』と答えた。」(13:20~23)

When Manoah and his wife offered the food, the angel of the Lord rejected their offering . And angel ordered Manoah to offer the young goat to the Lord. They offered it to the Lord, the angel of the Lord ascended in the flame toward heaven. Then Manoah realized that man was an angel of the Lord. He was afraid to be died by seeing God. But his wife answered that if the Lord had meant to kill us, God would not have accepted a burnt offering. The wife of Manoah had a good faith to hear the word of God and believe it. The faith comes from hearing the massage and the massage is heard through the word of Christ. (Romans 10:17) The faith does not come from seeing God. Manoah’s wife heard the massage and believed it already. So God appeared to her and spoke to her at first. There was a mother’s faith on the background of the birth of Samson. Truly she was a true Nazerite.

昔から神を見た者は打たれると言われてきました。イスラエルの民は、主を畏れてその顔を見ることは避けていました。マノアもそう信じていましたので、死を覚悟しました。でも、妻は主はわたしたちを殺そうとお考えなら、こんな風にしてきてくださらなかったし、焼き尽くす生け贄も受け取らないはずです。その供え物を焼いて受け入れてくださったのですから死ぬことはありませんと言っています。ここにも妻の信仰を見ることができます。彼女は言い伝えよりも、主の使いの言葉をしっかりと受け止め、それを信じていたのです。み言葉を聞くことが信仰の始まりです。妻にはそれがありました。

神様がなぜ、夫に語りかけずに、この妻の方に現れて語ったのかが分かります。
そして夫よりも、この妻であり母親である女は、ぶどう酒も飲まず、強い酒も口にせず、汚れたものを食べることもありませんでした。普通、女性の方が男性よりも汚れたものとして、厳しい規定に束縛されていました。しかし、この時代にあって、女性でありながら、ナジル人として選ばれ、生れ出てくるわが子のために誓願を立てて、過ごした女性がいたということはすばらしいことではないでしょうか。女性が生まれ出てくる子のためにナジル人になったのです。

当時士師がいなくて、神の前に悪を行っていたイスラエルの中で、男性や夫よりも女性であり妻である者が、イスラエルの救いのためにナジル人としての誓願を立てて戦っていたのです。妻には最初から、神の姿が見えていました。そして神様の真のメッセージもしっかりと受け止めていたのです。今までどうであったかにこだわらず、神の呼びかけに信仰をもって応えて行く女性の姿。そのために自分自身を聖別して従ってゆこうとする時に、神の不思議な技が起こってきます。不信仰なイスラエルの中で、信仰のある女性の生き方の強さ、そして子を産む母親の信仰について教えられたような気がします。

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