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ペヌエル(神の顔) (創世記32:23~33)

メッセージ

2014年9月14日富里キリスト教会

「ペヌエル(神の顔)」
(創世記32:23~33)

1.ヤボクの渡し

ヤコブにとっては、一族郎党を引き連れて、黙って実家に戻っても良かったと思いますが、やはり心に引っ掛かっていた一人の人がいました。それは、自分の命を狙っていた兄のエソウです。二度までも兄を欺いて、長子の特権を奪い取り、このままで済むはずはないと思っておりました。やはり故郷に帰るには、どこかで兄と会って謝るなり和解をするなりしなければなりませんでした。そのことを思うと、故郷までの道のりはたいしたことはありませんでしたが、この兄への謝罪と和解の使命は大きな重荷になっていました。

「ヤコブは非常に恐れ、思い悩んだ末、連れている人々を、羊、牛、らくだなどと共に二組に分けた。エソウがやって来て、一方の組に攻撃を仕掛けても、残りの組は助かると思ったのである。・・・どうか、兄エソウの手から救って下さい。わたしは兄が恐ろしいのです。兄は攻めて来て、わたしをはじめ母も子供も殺すかもしれません。・・・ヤコブは、贈り物を先に行かせて兄をなだめ、その後で顔を合わせれば、恐らく快く迎えてくれるだろうと思ったのである。」
                     (創世記32:8,12,21)

親の心に背いたり、友人を裏切ったり、一時の感情で縁を切って飛び出してしまったことはないでしょうか。家を出て、いろんな人生の修業を経て、ようやく人の気持ちが解るようになるまでは時間がかかります。親のもとに帰りたい、あるいは兄弟に会いたい、あるいは世話になった人、迷惑をかけてしまった人にもう一度会ってちゃんとお詫びをしたい。以前のように兄弟として、親子として顔を合わせたいと願うことはないでしょうか。

ヤコブも同じような気持ちではなかったでしょうか。兄をだまし、親には不義理をし、逃げるようにして家を出て来たわけです。そしてこの家出から20年の月日が経って、やはり故郷に帰りたい、そういう望郷の思いも会ってここまでやってまいりました。あのお兄さんにどんな顔で会うことができるだろうか、そのことを考えると足が重くなるのでした。このまま会わないで帰ってしまいたいとさえ思ったかもしれません。目の前にある川は、狭くても渡るに渡り切れないヤボクの渡しでした。

2.神との祈りの格闘

「その夜、ヤコブは起きて、二人の妻と二人の側女、それ二十一人の子供を連れてヤボクの渡しを渡った。皆を導いて川を渡らせ、持ち物を渡してしまうと、ヤコブは独り後に残った。そのとき、何者かが夜明けまでヤコブと格闘した。ところが、その人はヤコブに勝てないとみて、ヤコブの腿の関節を打ったので、格闘しているうちに腿の関節がはずれた。」(創世記32:23~26)

夜が明けるまで、ヤボクの渡しのところで神とヤコブが格闘しました。この格闘は一晩中続いたようです。これは祈りの戦いです。「渡りたくない、兄に会いたくない、謝りたくない、このまま引き返したい」というヤコブの自己保身的な思いと、「いや、ここで思い切ってお兄さんにあって潔く謝ろう、たとえ命を奪われ家族や財産を奪われてもかまわない、自分の犯した罪、身から出た錆だ」だから、腹を決めて兄の前に出ようという思いが、ヤコブの中で闘ったのでした。これが、神と人間との格闘となって描かれているのではないかと思います。

この創世記32:24~25の個所を、別の現代訳聖書ではこう訳しています。
「自分だけは一人あとに残った。そこへ一人の人が現れ、彼と組み討ちをした。それは、実は神との祈りだったのである。しかし、彼の祈りは格闘のような祈りであった。その方は、ヤコブがあまりにもしぶといので、ついに彼が最も頼りとしていた所を打った。それは、彼の自我であった。」(現代訳聖書)

この格闘の場面の意味を考えてみますと、腿の関節、つまり股関節は医学的には、「からだの中心にあって体を支え、動作をする上で重要な働きをする部分」と言われています。いわば、体の要のような関節です。これが外れるということは、歩けなくなるということです。神様は、ヤコブがあまりにもしつこく、また熱心に祈り続けるものですから、とうとう根負けして離してくれと言いました。「ヤコブに勝てない」と思ったとあります。いかにヤコブの祈りが強かったのかが解ります。わたしは、神様はわざと負けたふりをしたのではないかと思います。

わたしはおそらくこれで、ヤコブはやっと手を離したのではないかと思います。先ほどの聖書では、「ヤコブの最も頼みとしていたところ、即ち自我を打った。」と訳しておりました。いわば、ヤコブの自我が今ここでついに、神の前に完全に打ち砕かれたのではないでしょうか。ここに至るまで長い間、神様の試練を受け、いろんな経験をしてきたヤコブでしたが、彼の自我は決して簡単には砕かれませんでした。いまだに神と闘っても自分の益を手に取ろうとするようなヤコブです。何度も何度も辛い苦しい経験をして来ましたが、彼の自我は依然として残っていました。

でも今ようやく、神様がヤコブのその自我、自分を正しいとする自分中心の罪の中心に御手を触れて下さって打ち砕いてくれたのです。彼は、今ようやく神の前に自分の非、自分の罪を認めて悔い改め、兄との和解をする決心をしたのでした。「我が」「我が」という自己中心の人生、自我の塊のようなヤコブが、今ようやく神の手によって砕かれたのでした。そして、人生の川を渡り切ったのです。もはや兄に対する恐れも不安の怒りも恨みも、彼の心にはありませんでした。自分に死んで全てを神の御手に委ねたからです。祈りの戦いと通して神様とお会いしました。

3.神の顔を見る(ペヌエル)

「ヤコブは、『わたしは顔と顔を合わせて神を見たのに、なお生きている。』と言って、その場所をペヌエル(神の顔)と名付けた。ヤコブがペヌエルを過ぎた時、太陽は彼の上に昇った。ヤコブは腿を痛めて足を引きずっていた。」
                       (32:31~32)

ヤコブの長い、長い、夜を徹しての祈りの戦いは今、ようやく終わりました。東の空が太陽の光で、白々と明け始めました。彼は、その祈りの中で「自分は神と出会った。しかも神と顔と顔を合わせて神を見た」(31節)と言っています。そしてその神と祈りの格闘をした川のほとりを、「ペヌエル(神の顔)」と名付けました。本来神を見た者は死ななければならいという掟がありました。しかし、彼は神と顔と顔を合わせて見たにもかかわらず、死ぬことはありませんでした。いやむしろ、神の手によって自分の我、自我という罪を打ち砕いてもらったのです。古い自分、自己中心の自分に死ぬことができたのです。

自我の強い人間は、本来自分の自我という罪の故に死ぬべき運命にありました。しかし、神自らがヤコブの自我を打ち砕いて下さったのです。つまり、神様はヤコブの罪を取り去って下さったということです。人の足を引っ張るほどに自我の強い人間でも、神はその自我という罪を赦し贖い聖めて下さるお方だということです。そして、ヤコブに新しい心をへりくだった謙遜な心を与えてくださる方でもあるのです。このヤコブの神は、人の罪を贖い、その罪を赦して、その人を新しく生まれ変わらせて下さる神だということです。この神の顔、神の御心をヤコブは知ったのです。

このように私たちが、祈りに祈って敵と相対する時に、神様は、その祈りにおいて、祈りを通して、私たちの自我という罪を示し、それを打ち砕いて取り除いて下さるのです。そして、新しい砕かれた心をもって、私たちを敵のところに遣わしてくださいます。そして、相手の心にも働いて、その人の心も変えて下さって、お互いに和解を果たすことができるようにして下さるのではないでしょうか。相手の顔に神様の愛の顔を見させてくださるお方です。

4.生まれ変わったヤコブ(イスラエル)

最後に32:32に次のような短い一文があります。「ヤコブがペヌエルを過ぎたとき、太陽は彼の上に昇った。ヤコブは腿を痛めて足を引きずっていた。」と。これは、徹夜の祈りの格闘を終えたヤコブが、ペヌエルを渡り切った時に、太陽が彼の上に昇った場面を描いています。しかし、ヤコブは立つことは出来ましたが、神の手によって股関節を外されてしまい、木か杖につかまってようやく立ち上がった時の情景を描いています。

自我を打ち砕かれたヤコブは、もはや以前のように自分の足で立つことは出来なくなりました。杖に寄りすがらなければ、立ち上がることができなかったのです。これは、神に徹底的に寄りすがる信仰の杖です。この御言葉は、もはや自分の力ではなく、神の力によって歩むようになったヤコブ、新しく生まれ変わったヤコブの姿を捉えています。杖をついて立ち上がったヤコブの上には、朝の太陽の光が照らしました。新しい人生の出発です。

これは、苦しみを通して自分の自我という罪が打ち砕かれ、神の手によって罪が取り除かれ、新しく生まれ変わった一人の人間の姿を描いています。ヤコブは、今ようやく生まれ変わりました。神は、「これからお前は、ヤコブではなくイスラエルと呼ばれる。」(32:29)と言ってくれました。これは「神がその人を治め、神が戦われる」という意味です。ここから信仰の民、イスラエルの名前が始まりました。

兄が護衛をつけようかと申し出ましたが、それを断りまして「わたしは自分の家族や子供たちのペースに合わせてゆっくりあとから参ります。」(33:14)と言っています。今までは、何でもかんでも自分が先頭に立たなければ気がすまなかった男が、群れのしんがりになって群れを守りながら旅をすると言ったのです。今までは、群れを道具に使って兄に見せ、最初の家族の者が攻撃されたら、自分は逃げることができるような算段をしておりました。でも、今度は群れのしんがりについて群れを守りながら旅をすると言ったのです。

私たちも、ヤコブのような人間です。どこまでも自分勝手で自分の自我で必死に生きてきました。時にいろんな人とぶつかったり、飛び出したり、反目し合ったりします。しかし、神様は、そういう私たちの自我という罪に御手を触れて打ち砕いてくださるお方です。そして、その自我という罪を取り去って新しくして下さるのです。自分が自分を支配するのではなく、神様が私たちを支配し治めて、私たちを和解の器として新しく生まれ変わらせて用いて下さるのではないでしょうか。また今もし誰か、どうしても会わなければならない人がおられましたら、祈りましょう。きっと主が勝利して下さいます。

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