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ペテロの信仰告白 (マタイ6:13~27)

メッセージ

2012年12月2日富里キリスト教会
「ペテロの信仰告白」
(マタイ16:13~27)

はじめに

今日は、「ペテロの信仰告白」という題で語らせていただきますが、実は、このマタイ福音書の16章13~28節までの中に、私たちの信仰生活のスタートとゴールがはっきりと述べられているような気がいたします。まず、第一に信仰生活のスタートですが、13~17節までにペテロの信仰告白が述べられています。ここが信仰生活のスタートです。そして、第二に、教会のメンバーとしてどのような特権(天国の鍵)が与えられているかが、18~19節に書かれてあります。信仰告白をしてバプテスマを受けて、教会員となって信仰生活のスタートを切るわけです。

しかし、途中でサタンの誘惑に会って、ついイエス様の行く道を妨げてしまい、イエス様よりも自分を上においてしまう過ちを犯します。それが、21~23節に書いてあります。その時には、イエス様に頭をガツンとたたいてもらって、またもとの位置、すなわち、イエス様に従うという信仰の道に引き戻されます。そういう、信仰の挫折と戦いをしながら、真に、「自分を捨て、自分の十字架を負うて、イエス様に従う」ということを、生涯かけて学んでゆきます(16:24~26)。そして、人生の最後には、永遠の命という輝かしいゴールが待っているということが約束されています(27~28)。

1.ペテロの信仰告白

私たちは、先々週、杉本兄の信仰告白を聞きました。兄弟は、ちょうど一年前に説教の後に手を高く上げて、イエスを受け入れる決心をされました。いろいろ心の葛藤はあったと思いますが、一年後には自分の思いを言葉にしてバプテスマを受け、教会員となりました。また、10月の岩渕まことさんのコンサートで、伊藤姉が応答しました。「あなたはメシヤ、生ける神の子です」と。伊藤さんも長い間、まことの神様を求め続けていました。

あの弟子のペテロも、イエス様から面と向かって「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」(16:15)と問われています。イエス様は、私たちにも、ペテロと同じように「あなたはわたしを誰と言うか?」と問いかけています。これは、ただ単にイエス・キリストと言う人物についての歴史的な答えを求めているのではなく、イエス・キリストとの個人的な関係を求めている問いです。さらにこう言いました。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを表したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。」(16:17)

自分で信じますと答えた、自分で手を上げたというのではなく、そうさせて下さったのは、人間ではなく、天の父なる神様だということです。天の父なる神様が、その人の心に直接働きかけて、イエス・キリストを啓示して下さるのが信仰告白であり、自分からのものではないということを知る必要があります。もし、信じてクリスチャンになろうという方は、神様がそういう思いを与えて下さっているということに感謝したいと思います。

ですから、信仰をもっている方は、心して歩むことが大切です。自分でクリスチャンになったのではありません。神様が、その人を選び召して下さったのです。その信仰には大きな報酬と、責任が負わされています。自分でクリスチャンになったのだったら、いやになったら教会に行かなければいいかも知れません。信仰を捨ててもいいかも知れません。自分が選んだことですから。しかし、そうではなく、神様が私たちを選んでくださったのです。その神様の尊い、ありがたい選びを無駄にしていいでしょうか。もっと真剣に、心からの感謝をもって神を畏れつつ歩むことが必要です。

フィリピ1:6にこう書いてあります。「あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています。」と。神様は、最後まで、この信仰のスタート地点から、目標である永遠の命に至るまで、私たちをちゃんと訓練し鍛錬して、完成に至らせて下さるというのです。ゴールまで、神様が責任をもって伴走して走って下さるというのです。私たちは神から出発して、神をゴールとしているのです。(ローマ11:36)

2.教会の一員になる

さらにイエス様は、ペテロにこう言いました。18節から読んでみます。「わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」(16:18~19)

ペトロの前の名前は、バルヨナ・シモンでした。これは「ヨナの子シモン」と言う意味です。しかし、シモンがイエスをキリスト、救い主だと告白した時から、彼の名前はペトロ、すなわち「小石」と言う名に変わりました。岩はギリシャ語で、ペトラと言います。ですから、18節のイエス様の言葉は、言い換えますとこうなります。「あなたの名前はペトロ、あなたは、わたしが誰であるかを最初に告白した人です。最初の石です。わたしイエス・キリストが、教会の土台である岩です。その上に、わたしを告白した人々の石を積み上げて、一つの大きな人間の建物を造ります。それを教会と言います。それはこの世からわたしをキリストと告白した者の集まりであり、わたしを中心にした交わりのグループです。」と。

更に主は、この主の交わりの群れである教会に、「天の国の鍵」を授けると言いました。この天国の鍵を持つ者は、この教会の所有者であり、管理人でもあります。この預けられた天国の鍵を通して、私たちは、一人一人が天国に入ることができるかどうかの判断をゆだねられているのです。鍵をもっている者が、赦さなければ、そのことは天上でも赦されません。鍵を持つ者が、地上で罪の赦しを宣言できるのです。そして、それは天上でも赦されていることになります。そのような、この世を裁くほどの大きな権限を私たちは、与えられているのです。

そして、そのような天国の鍵は、牧師だけではなく、ペテロのようにイエスをキリストと告白する人すべてに与えられているのです。皆さんが家の鍵、車の鍵をもっているように、もう一個、天国の鍵も持っているのです。ペテロは、確かに「あなたはメシア、生ける神の子です。」と告白し、この告白に基ずいて、キリストを土台とする教会のメンバーの最初の人となりました。そして、ペテロと同じように、「イエスはキリスト」と告白する第二、第三のペテロである私たちにも、同じように天国の鍵が与えられているのです。教会という交わりをいつも聖く保ちつつ、人々に福音を宣べ伝えて、天国への門を開いてあげる任務が託されているのです。

3.サタンに負けたペテロ

このペテロのすばらしい信仰告白の後に起こったことは何かと言いますと、なんと、イエス様を退け、自分がイエス様の先に立ってイエス様に命令しようとしたことです。21節から読んでみましょう。「このときから、イエスは、ご自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。『主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。』イエスは振り向いてペトロに言われた。『サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。』」(16:21~23)

彼は、一瞬、自分の下にイエスを置いて、自分の考え、自分の理想にイエスの行動を従わせようとしました。そのうやうやしそうで忠義面をしているペテロの言葉と態度の中に見え隠れするサタンのしっぽを、イエスは見逃しませんでした。間髪を入れずに、「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」と一喝したのです。この主の一喝によって、サタンはペトロから出て行きました。

イエスがペテロを叱った時に、「サタン、引き下がれ。」といいました。英語では Get behind me, Satanとなっています。ギリシャ語でも、πίσω μου(=私の後ろに)となっています。つまり、イエス様は、ペトロに対して、「わたしの後に引きさがれ。もう一度、わたしに従う者となれ。」と言って叱っているのです。信仰生活の基本は、イエスを自分に従わせるのではなく、自分をイエスに従わせることです。ペトロは、何度も何度も失敗をしながらでも、イエス様について行きました。これが、神様によって告白させられた者の祝福と恵みの生涯です。(車の運転の例)

4.自分を捨てて、主に従う生涯

イエスをキリストと告白するものは、何か自分が特別な特権をいただいたかのように考えてはなりません。むしろ、信じた後の信仰生活は、自分を捨てる生き方を目指すものです。24節で、主は真のクリスチャンの姿、信仰生活の何たるかを具体的に教えてくださいました。それは、24節の言葉ですが、「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを得る。」(16:24~25)

信仰はあるけれども、イエス様を自分に従わせようとする肉のクリスチャンの姿ですね。自分を捨てたつもりが、いつの間にか自分というものが頭をもたげて来て、イエス様の先に行こうとしている姿です。自分を捨てるとは、生活の瞬間、瞬間において自分というものを否定し、神を肯定し、神を認め、その御言葉に従おうとすることです。イエス様に叱られたときだけではなく、生活のあらゆる場面で、朝に夕に一瞬一瞬自分というものを捨てることです。パウロは「わたしは日々に死んでいる。」(Ⅰコリント15:31)と言っています。

毎日毎日、朝に夕に自分に死ぬことです。それだけ、自分、自我、自分中心と言う考えは無くならないということです。一生の課題かもしれません。でも、もしサタンに負けてしまうようなことがあっても、すぐ後に、心から悔い改めるならば、またイエス様の後に従うコースに戻して下さいます。イエス様は、日々にわたしたちの重荷を担い、日々にわたしたちの罪を贖い赦して下さる方だからです。

そして、主を告白する者のうちに働いて、良い業を始めてくださったお方が、キリスト再臨の時までに必ずその良い業を成し遂げ、完成して下さるということを、私たちは知っています。(フィリピ1:6)神によって生まれ、神によって生かされ、神のもとへと帰って行く、このすばらしい信仰の生涯を共に歩んでまいりましょう。救い主のイエス・キリストの御名を、絶えず告白し、感謝と賛美をもって、この週も過ごして行きたいと思います。(岡田 久)

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