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ベツレヘムの悲しみ (マタイ2:13~23)

メッセージ
2018年12月30日富里キリスト教会
「ベツレヘムの悲しみ」
(マタイ2:13~23)

1.預言の成就としてのキリスト誕生

「さて、ヘロデは占星術の学者たちにだまされたと知って、大いに怒った。そして、人を送り、学者たちに確かめておいた時期に基づいて、ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を、一人残らず殺させた。こうして、預言者エレミヤを通して言われていたことが実現した。『ラマで声が聞こえた。激しく嘆き悲しむ声だ。ラケルは子供たちのことで泣き、慰めてもらおうともしない。子供たちがもういないからだ。』」(マタイ2:16~18)

先週はヘロデ大王やエルサレムの人々は、新しい王が生まれるという知らせを聞いて、「不安を抱いた」とお話しました。そして王様は博士たちに嘘をついて、生まれた場所を後で教えてくれと言いました。それは自分も拝みに行くということではなく、その別なもう一人の王を亡き者にしようとしたからでした。それは自分の地位を守るため、自分自身の自己保身のためでした。そしてその別な王が王位を継ぐとなることに対して嫉妬を感じ、早めに葬り去ろうとしたのです。このような人間の心の闇にある嫉妬心とか恐れとか不安という感情は、やがていつの間にか殺人という行為へと駆り立ててゆくことになります。

ヤコブの手紙に「あなたがたは、欲しても得られず、人を殺します。また、熱望しても手に入れることができず、争ったり戦ったりします。得られないのは、(神に)願い求めないからです。」(ヤコブ4:2)人間の自分の立場を守ろうとする気持ち、相手に負けられないと必死になる心、自分はどこまでも王様であって、自分が第一、自分中心の考え、これが王様の心ではないでしょうか。自分中心という人間の罪です。そこに自分より優れた王様が来る時に、自分中心ではなくなる、自分が従わなければならないと思う時に、自分を失うという恐れや不安や恥が生じてくるのではないでしょうか。

そして争い戦う、なんとしてでも相手の足を引っ張って自分の立場、つまり自分自身を守ろうとする心です。その行き着く先が、相手に対する攻撃であり殺人です。力と権力によって、自分よりも弱いものを抹殺してしまったのです。ヘロデは兵士を差し向けて、ベツレヘムの周辺の二歳以下の幼児を殺害しました。さらに安全策を講じて、ベツレヘムだけではなく、その周辺の村まで範囲を広げました。また新生児だけではなく2歳児までと幅を広げて殺しました。すべて、自分を守るために取った狂気の行動です。

「ヘロデが死ぬまでそこにいた。それは、『わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した』と、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。」と言っています。そして紛れもなく、あのナザレのイエスこそ我々イスラエルの民が待ち望んだメシアであるということを同胞に訴えたのでした。15節にありますとおり、イエス・キリストこそあの偉大な指導者モーセの再来ともいうべき第二のモーセであるということを証明するためでした。いやそれ以上のお方であったのです。

この後、あのモーセに予型されたキリスト・イエスが、エジプトから出てきます。そしてモーセが民を率いて死海を渡ったように、イエスもバプテスマという水をくぐりました。更にイスラエルの民が、荒野を40年間放浪したように、イエスも荒野で40日間さ迷いサタンの試みに会われました。しかし、第二のモーセであるイエス・キリストは、イスラエルだけではなく、ユダヤ人のみならず全人類を罪と死から解放する真の救い主となって人々を約束の御国へと導いてくれるお方だったのです。

Last Sunday we learned about jealousy and selfish mind of human being. By the jealousy and selfishness of the King, Jesus and his family had to go to Egypt at that night immediately. And they have stayed in Egypt until the King Herod died. Mathew identified what Jesus came back from Egypt and what Jesus baptized in the Jordan river and what He had been tempted by Satan in the desert are all fulfillment of old testament. And what children of Bethlehem became victims of Herod’s jealousy was also a fulfillment of prophesy of Jeremiah.

2.ラケルの悲しみ

しかしこの全人類の指導者であり、罪と死からの解放者であるお方が、その救いの業を成し遂げるためには、良いことばかりではありませんでした。その蔭には多くの人々の嘆きと悲しみがあったのです。ベツレヘムとその周辺の村の二歳以下の子供が殺されました。イエスが助かるために、いやイエスの到来によって逆に悲劇と悲しみが人々を襲ったのです。ヘロデから遣わされた兵士たちが、あのかわいい罪のない子供を次々と剣にかけて殺し回ったのです。そしてわが子を必死にかばおうとした、母親や家族の者までも容赦なく手にかけたのではないでしょうか。ベツレヘムの村の惨劇は言語に絶するものがありました。

あちこちの家から子供の泣き声と、両親や家族の悲鳴、そして阿鼻叫喚の声が聞こえてきます。想像してみてください。このような時代に生まれていなかったことが幸せだと思えるようです。たった一人の人間の持っている闇の力、罪の支配、自己中心の心、嫉妬と競争がいかに恐ろしいものであるかが分かります。しかし、キリストがこの世に誕生したということは、その罪と闇と死が支配する世界に、あえてご自分で肉を取ってきて下さったということです。

御子は悪の力、闇の力、サタンの力が、自分の上に襲いかかるかということを知っていたのではないでしょうか。しかし、人間の罪の力が大きくなればなるほど、神様の恵みもそれを超えて大きくなるのではないでしょうか。なぜならば、あえてそういう世界に肉を取って来てくださったということです。これがクリスマスの出来事です。キリストが肉を取らなければ、わたし達肉の世界に生きている者の罪を最終的に処罰することはできませんでした。しかし、キリストは受肉してくださり、ご自分の十字架の苦しみと死を通して、この罪の支配からわたし達を解放して下さったのです。ご自分の肉において、全人類の罪を処罰、すなわち罪に死んでくださるためにこの世に来られたのです。

それは肉の中にあって苦しむ私たちを何とか、その罪の支配から立ち帰らせるためでした。つまりキリストの恵みと救いというものは、罪に悩むわたし達の痛みと悲しみを通して与えられるということです。キリスト誕生のメッセージが神からなされました。しかし、それはあくまでも私たちの罪を赦してくださるというメッセージです。何か嬉しい、楽しいという知らせではありません。そこには私たちの罪の悲しみと嘆きと痛みを通してしか入ってこないものなのです。

キリストが来たのはわたし達の罪のためであり、わたし達の罪の贖いと赦しのために来てくださいました。しかし、そのキリストの恵みのプレゼントを受け取る者にとりましては、わが罪の赦し、贖い、救いという決心を通らなければ与えられるものではないのです。キリストは、あなたの罪のために来てくださったのです。皆さんはもしかしたら、わたしはあんなヘロデではない、あんな忙しいふりをして宿を貸さないような冷たい宿屋の主人ではないと思っているかもしれません。わたしはあんなに罪のない赤子を殺す残虐な兵士ではないと思っているかもしれません。果たしてそうでしょうか。あなたの中にヘロデはいないでしょうか。自己中心の自分の地位や立場を守ろうとする、王様のように心はないでしょうか。あるいは、ある日突然子供を奪われてしまったような悲劇にあったことはないと思っていることはないでしょうか。ベツレヘムの母親たちは気の毒だったと、第三者的に思っていることはないでしょうか。

「ラマで泣く声が聞こえた。激しく嘆き悲しむ声だ。ラケルは子供たちのことで泣き、慰めてもらおうともしない。子供たちがもういないからだ。」(マタイ2:18)とエレミヤの預言(エレミヤ書31:15)が引用されています。ラケルという女性は、ヤコブ・イスラエルの妻でベツレヘムの民の先祖です。ラケルはエジプトに売られて、後に大臣になったヨセフともう一人の兄弟ベニヤミンの母です。ベツレヘムはベニヤミン族の町です。ベツレヘムの母親の悲しみは、あのラケルの悲しみでもあったのです。ラケルが泣いたのは、イスラエルの民が神に背いてバビロンに連行されてゆく時に、ラケルの墓の前を通って行きました。その時預言者エレミヤは、墓の中で先祖のラケルが泣いていると預言しましたが、そのエレミヤの預言が、今イエスの時代に起こったのです。それほどにイスラエルの罪が頂点に達していたのです。

このマタイによる福音書には、エレミヤの後半の言葉が書いてありません。しかしエレミヤはこの後、こう言っています。「主はこう言われる。ラマで声が聞こえる、苦悩に満ちて嘆き、泣く声が。ラケルが息子たちのゆえに泣いている。彼女は慰めを拒む。息子たちはもういないのだから。主はこう言われる。泣きやむがよい。目から涙をぬぐいなさい。あなたの苦しみは報いられる、と主は言われる。息子たちは敵の国から帰ってくる。あなたの未来には希望がある、と主は言われる。息子たちは自分の国に帰ってくる。」(エレミヤ書31:15~16、P.1235)

つまり、殺されたベツレヘムの赤ちゃんたちもやがて帰ってくる。今、殺された母親の嘆き悲しみは計り知れないが、その苦しみ、その嘆き、その悲しみには必ず報いがあるということです。やがて神は、その嘆きを喜びに、悲しみを希望に変えてくださると言っているのです。つまりやがてキリスト再臨の暁には、このベツレヘムの赤子たちも栄光の中に復活して、母親たちと相見える時が必ずやって来ると預言しているのです。その時母親の嘆きが喜びに変えられる時が必ず来ると預言しているのです。

The killing of children of Bethlehem was the fulfillment of Jeremiah’s prophecy. Let us read again “A voice is heard in Ramah, weeping and great mourning, Rachel weeping for her children and refusing to be comforted, because they are no more.” (Mathew 2:18) But after weeping verse, Jeremiah prophesied like this “This is what the Lord says; Restrain your voice from weeping and your eyes from tears, for your work will be rewarded, they will return from the land of the enemy.
So there is hope for your future.” (Jeremiah 31:16-17)
Jeremiah prophesied God will turn their mourning into gladness, and God will give them comfort and joy instead of sorrow. The sorrow and mourning of mothers of Bethlehem have to turn into gladness and joy.
Because they will be humble and repent from unfaithfulness of Israel.
They will know that their children died instead of the baby Jesus, and they will have a hope to be resurrected at His second coming and to see their children at the last day. I believe that the weeping and mourning of many mothers will be rewarded.

3.悲しみの向こうに

イエスの母マリアもそうです。神殿にいたシメオンから、「母マリアよ、あなた自身も剣で心を刺し貫かれるような悲しい思いをします。」と預言されました。これはわが子が十字架刑を受けてむごたらしく死刑にされて殺されることを預言したものです。母マリアはその息子の死を目の当たりにして、気を失うほどの悲しみを経験すると預言したものです。マリアだけではなく、このベツレヘムの母親たちも、多く嘆きと悲しみの中へと突き落とされたのです。

イエスのお蔭で、自分たちの罪もない子供たちが犠牲になってしまったと一生恨むでしょうか。キリストなんかベツレヘムに来なければよかったと思ったでしょうか。なんでベツレヘムの村が、メシア誕生の地に選ばれたのだろうかと、預言者を恨んだでしょうか。わたしはそうではないような気がします。ベツレヘムの親たちの悲しみは図り知ることはできませんが、彼女たちの悲しみが深ければ深いほど、自分たちの子供がキリストの身代わりの犠牲になったということは、かえって彼女たちの信仰を増したのではないでしょうか。やがて、メシアの身代わりになって死んだ子供達の悲しみは、来るべき神の国における希望へと変わっていったのではないでしょうか。ベツレヘムの母親たちの信仰を強めることになったのではないかと思うのです。

メシア誕生の村として選ばれた人々、メシアと同じ村、同じ年に生まれた子供たち、そして彼らを襲った突然の悲しみと嘆き。神に選ばれ、神の誕生の地として定められたがゆえに受けた悲しみと嘆きです。信じたがゆえに受けた悲しみです。皆さんもないでしょうか、信じたがゆえに受けた痛み、信仰を持ったがゆえに受けた嘆きです。こんなことなら信じるべきではなかった。こんなに悲しむなら、信仰なぞはいらなければよかった。

マリアもヨセフもそうです。神様にキリストの両親として選ばれがゆえに、いろんな苦労を背負わされました。もっと普通の楽しい信仰生活があったはずです。結婚前の妊娠、人口調査で長旅をする、宿屋がない、馬小屋での出産、飼い葉桶での授乳、そして命を狙われて赤子を抱えてのエジプトへの長旅、休む暇なく次々と苦難の連続です。マリアもヨセフも、そしてこのベツレヘムの母親たちも、苦難を通して御子の誕生を受け入れなければなりませんでした。

キリスト誕生ということは手放しで喜ばれるだけではなく、むしろ信じるか拒むか、受け入れるか拒否するかの決断を迫られる時ではなかったでしょうか。なぜなら、それはあまりにも厳しい決断であり、苦難と悲しみを通してしか決心することができないからです。苦難を通してその向こうに希望を、悲しみを通してその向こうに喜びを、試練を通してその中に信仰の確かさを得てゆく道のような気がします。誰でもこんなんじゃ選ばれなかった方が良かったと思うのではないでしょうか。

子供を殺された母親だけではなく、突然命を奪われた子供たちの気持ちはどうでしょうか。そしてもしかしたら、本来イスラエルの民を守るはずの兵士が、自分の民を、しかも何の罪もない自分達の子供を、自分の手で殺してしまうという、あってはならない負い目を負わせられたのではないでしょうか。もしかしたら、この兵士たちも不本意ながら悲しみながら子供を刺し殺したのではないでしょうか。自分の罪と向き合うということです。イエスを処刑したローマの兵士もそうでした。それは皆、この事件にかかわった一人一人にある思いが現れるためではなかったのだろうかと思うのであります。

それは、神がその一人子を犠牲にしてまでこの世を愛して下さった。わたしの罪のゆえに、神はその一人子を与えるほどに愛して下さったという神の愛です。
わたしは、わが子を犠牲にした人ほど、神の愛を深く受け止めることができるのではないかと思います。なぜなら神ご自身が、その一人息子を世の罪のためにささげたお方だからです。この神の愛と罪の赦しのゆえに、御子が十字架の上におかかりになったのです。神様はベツレヘムの母親以上に、ご自分の息子を犠牲にしなければならなかったという悲しみを十分にご存知のはずです。

ベツレヘムの子供たちは、罪の犠牲者というよりは、神の最後の預言者として殉教の死を遂げたのではないでしょうか。人々の心にある思いを起こさせるためです。それはわが子を犠牲にするほどに神はこの世を愛しておられる、わが子を死に至らしめるほどに神はわたしの罪を赦し愛して下さったということです。ですからエレミヤはこう預言しています。「だからもう泣きやみなさい。目から涙をぬぐいなさい。あなたの苦しみは必ず報いられるから。今までの苦労も悲しみも嘆きも、主はすべてご存知でおられ、やがて神の国においてわが子と再び相まみえる希望があるから。と言っています。そして神はやがて、わたし達の嘆きを喜びに変え、慰め、悲しみの代わりに喜びと祝福を下さる」(エレミヤ31:13,16)と。

We may not understand and realize the love of God if we feel sorrows and mourning and tears. Because God gave us his only Son to crucify Him on the cross. God knew and experienced sorrow and mourning as same as the mothers in Bethlehem through the victims of his Son. We know that the true joy and comfort and hope will come through the hard work and sorrow and weeping of faith.
The mother Mary also saw his son’s death as well as the mother in Bethlehem. She felt pain in her mind. Then she understood her son was God and redeemer of all human being. She felt and realized that his son Jesus died for my sins and this world’s sins. When Jesus resurrected from death, their sorrow was changed joy. I believe that the mothers in Bethlehem will believe the resurrection of Jesus. Then Jesus will wipe out every tear from their eyes. Their weeping has to change into joy and comfort in seeing Jesus and their babies at the second coming of Jesus.

あなたがたの信仰による苦しみや悲しみは、必ず報いられる、これがクリスマスのメッセージではないでしょうか。この信仰による悲しみ、神に選ばれたが故に負う重荷、突然襲う苦しみ、その苦しみを通して、またその悲しみを通してのみ、その向こうに神の慰めと喜びと祝福が待っているような気がします。キリストが苦難を背負ったのも、エジプトへ逃げたことも、十字架の上で苦しまれ、悲しみを経験されたのも、すべてはそのことを通してしか知ることのできない神の希望が、その十字架の苦難の道の向こうにあったからではないでしょうか。

「悲しむ人々は幸いである。その人たちは慰められます。」(マタイ5:4)「神の御心にかなった悲しみは、取り消されることのない救いに至る悔い改めを生じさせ、世の悲しみは死をもたらします。」(Ⅱコリント7:10)このベツレヘムの母親の悲しみは、選ばれた者、信仰の故の悲しみです。そのような悲しみは必ず、罪の悔い改めへと導き、永遠の命に至る救いの希望へとつながって行くことを信じるものであります。(岡田 久)

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