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ベツレヘム、いと小さき者 (ミカ5・1〜5)

メッセージ

2009年12月13日富里教会
      「ベツレヘム、いと小さき者」
           (ミカ書5:1〜5) 

1. はじめに

主の御名を賛美します。
今日はアドベントの第3主日の日となりました。アドベントとは待降節とも言いますが、「アド」は「〜に向って」、「ベント」は「到来」という意味ですから、今は救い主イエス・キリストの到来に向っているという意味になります。あと、もう一本ローソクが灯りますと、御子イエス・キリストの誕生をお祝いするクリスマスを迎えます。この救い主の誕生をはるか昔700年以上も前に預言していた一人の預言者がいました。その名をミカ(=誰がヤハウェのようであろうか)と言いました。しかも、メシヤの到来だけではなく、どこで生まれるかと言うことまで具体的に預言していました。その場所がベツレヘムと言うエフラタ人の住む村でした。

今日、ベツレヘムの町はしばしば紛争などでTVで報道されたりしていますが、イエス様が生まれたと思われる場所には、生誕教会という立派な教会が立っています。その教会の壁にラテン語で、「言が肉となった」(ヨハネ1:14)という文字が刻まれてありました。現在は2万5千人くらいのアラブ人の町でクリスチャンが多いといわれています。

2. ベツレヘム、いと小さき町

実はこのベツレヘムの町の背景には、イスラエルの長い歴史がありました。まず、ヤコブが妻のラケルが旅の途中で亡くなり、ベツレヘムの道の傍らに妻の墓を造りました。(創世記48:7)そしてBC586年にユダの民が、このラケルの墓の前を通ってバビロンに連れ去られてゆく時に、預言者エレミヤが、こう預言しました。「ラマで声が聞こえる。苦悩に満ちて嘆き、泣く声が。ラケルが息子たちの故に泣いている。彼女は慰めを拒む、息子たちはもういないのだから。泣きやむがよい。目から涙をぬぐいなさい。あなたの苦しみは報いられる、と主は言われる。息子たちは敵の国から帰って来る。」このラケルの嘆きと涙によって、イスラエルの民はバビロンからユダの地に、再び帰還することになったと信じられています。

また、あのルツ記に出てきますナオミの家族もベツレヘム出身でした。しかし、ナオミの家族は出稼ぎに行って、夫も息子も病気で亡くして故郷に帰ってきました。いわば、失敗と挫折、敗北の人生でした。しかも、ついてきたのは異邦人の嫁ルツ一人でした。でも、神様はこのナオミとルツの信仰を顧みられ、嫁のルツは裕福な親族ボアズと結婚することができました。そして、このルツの家系から3代目にあの偉大なダビデ王が生まれたのです。それ以来、ベツレヘムはダビデの町といわれるようになりました。

神様は、このユダ族の中の最小氏族であるベツレヘム、ダビデの町を、メシヤの生まれ故郷として選ばれました。当時ベツレヘムに住んでいたエフラタ族は成人男子で千人に満たなかったといわれています。いわば、ユダ族の中では弱小氏族だったのです。しかし、預言者ミカの言葉を通して、神様はこの最も小さなものの中から、救い主イエス・キリストを誕生させると約束されたのでした。

それがこのミカ書5:1の預言の言葉です。「エフラタのベツレヘムよ、お前はユダの氏族の中でいと小さき者。お前の中から、わたしのためにイスラエルを治める者が出る。彼の出生は古く、永遠の昔にさかのぼる」。このミカの預言によって、キリストはベツレヘムの町で生まれるということが、イスラエルの民にとって大きな期待になってゆきました。

3.いと小さき者の悲しみ

しかし、その時と具体的な場所は知らされないまま、約700年の月日が流れました。そして、いよいよ時が満ちて、あのヘロデ大王の時代に、東の国から来た博士たちの来訪によって、キリスト誕生の事実がユダヤの地に告げ知らされたのでした。ところが、このベツレヘムでは、羊飼いや博士たちが幼子イエスを見つけて、礼拝した後、大きな事件が起こりました。それは、メシヤを殺そうと狙っていたヘロデ大王が、博士たちにだまされたことを知るやいなや、このベツレヘムで生まれた2才以下の幼子を全部殺してしまったからです。

当時、ベツレヘムは小さな村でしたから、2才以下の幼児の数は、せいぜい20〜30人位であったといわれています。幸い、イエスの家族は難を逃れてエジプトに下っていましたが、当時その村にいた幼子たちは、ねたみ深いヘロデの手にかかって葬り去られてしまいました。あの平和で静かなベツレヘムの町が、一挙に虐殺の村、悲劇の村になってしまったのです。

殺された子供の母親、その家族にとってはどんなにか悲しい辛い、不条理な出来事だったでしょうか。ある人が、この幼児虐殺の記事を読んで、「なぜ、こんなことが起こったのか、神は黙って見ておられたのか、こんなことを赦す神は信じられない」とおっしゃっておられました。確かに理不尽なことです。いわば幼子イエスの代わりに犠牲になったようなものです。ヘロデ王にとっては、こんな小さな村の子供を殺すことくらいなんでもないことでした。それほど残虐な王様でした。小さな幼い子供達が、なんの抵抗もできずに殺されて行ったのです。

そのような時代の真っ只中に救い主が、来て下さったのです。全く、名もなく貧しく小さな者として、来て下さいました。恐れと不安、力の支配、闇の力がうごめく中に、そしてこの罪の世界の真っ只中に主は肉を取ってきて下さったのです。ヨハネはこう言っています。「光は闇の中に輝いている。そして、闇はこれに勝たなかった。彼は自分のところにきたのに、自分の民は彼を受けいれなかった。しかし、彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである。」(ヨハネ1:5,11〜12口語訳)と。

どんなに闇の力、人間の罪の力が強くとも、救い主の光を消すことはできません。どんなに罪の力が強くとも、闇の力がこの世界を支配し、小さな者、弱き者が踏みにじられても、すでに救い主はこの世に来られたのです。私たちは、本当に小さく弱いものですが、しかし救い主はいと小さきものとして、すでにあのベツレヘムの馬小屋に来て下さったのです。私たちの悲しみのすぐそばに、来て下さったのです。

3. 預言は必ず成就する

預言者ミカは、このメシヤの誕生について語り、その約束の言葉を信じて、信仰を持って待ち望むようにと励ましました。7:7〜8に有名なミカの言葉があります。「しかし、わたしは主を仰ぎ、わが救いの神を待つ。わが神は、わたしの願いを聞かれる。私の敵よ、わたしのことで喜ぶな。たとえ倒れても、わたしは起き上がる。たとえ闇の中に座っていても、主こそわが光。」

ミカはメシヤの到来を予言したばかりではなく、その方は倒れても起き上がる。そして闇を光に変える力のあるお方であるということも預言しました。特にこの8節以下の言葉は、誕生だけではなく、メシヤの受難と死、そしてそこからの復活についても預言されているような箇所です。このミカのメシヤ到来の預言は、実に700年後に実際に成就しました。

マタイ2:2〜5に三人の博士が、救い主を訪ねてやって来たことが、記されております。「『ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。私たちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。』これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシヤはどこに生まれることになっているのかと問いただした。彼等は言った。『ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。』」と言って、先ほどのミカ書の5:1の預言の言葉を読んで、王に知らせたのです。

このように、ミカの預言が成就したにもかかわらず、肝心のユダヤの王や祭司長、律法学者は何をしていたのでしょうか。天使が王や律法学者には、このことを知らせなかったのでしょうか。知らせなかった方が正解でした。彼等はメシヤを拝みに行くどころか、殺しにゆこうとしていたのでした。預言書を手元に持っていながら、その言葉を信ぜず、従いもしませんでした。そして自分たちの立場を守ろうとして、幼子に襲いかかったのです。いかにこの預言の言葉がないがしろにされていたかということが解ります。

逆に、このキリスト誕生の知らせが届いたのは、あのベツレヘムの町の近郊で羊の群れの番をしていた、名もない貧しい羊飼いたちでした。羊の放牧の仕事は、当時の社会では(今日もイスラエルにおいてはそうですが)、最も貧しい仕事でした。でも、救い主はそのような所に来て下さったのです。自分の心の貧しさ、心の弱さ、欠点を覚えているところにキリストは来て下さるのです。クリスマスはそういう季節です。

4. いと小さき者の祝福

でも、今日も、同じように、小さな命が人知れず抹殺されてゆく時代です。小さな子供が、弱い抵抗できない者が、人間のねたみや支配力、暴力や虐待によって命を奪われてゆくようなことが起こっています。大きい者が小さい者を抹殺する、強い者が弱いものを支配する、お金のあるものが貧しい者を虐げる時代です。それほどに人間の罪の力は、大きなものがあります。

6:8にミカのすばらしい預言の御言葉があります。「人よ、何が善であり、主が何をお前に求めておられるかは、お前に告げられている。正義を行ない、慈しみを愛し、へりくだって神と共に歩むこと、これである」と。神様は、へりくだって神とともに歩む者に目を留めてくださいます。あの栄華を誇ったダビデ王国は、自らの誇り高ぶる罪の故に神の裁きを受け、今や滅亡に瀕しておりました。でも、その苦しみと悩みの中で、自分の罪を悔改め、主の正義と慈しみの中に生きるならば、そして悔改めてへりくだるならば、そこに羊飼いなる王、平和の王が治める国が到来することを告げました。

いかがでしょうか。私たちは自分が小さい者であることをよしとするでしょうか。人より見劣りがすることを受け入れることができますか。何とか自分をよく見せよう、できれば大きく見せようとする私達です。小さいとか少ない、足りない、不十分、欠けている、貧しい、見劣りがすると人から言われることに耐えられないものです。ましてや弱小部族といわれたら、怒り心頭になるのではないでしょうか。でも、ベツレヘムは、ユダ族の中では最も小さな弱小氏族でした。

以前、バプテスト連盟の総会で、ある方が、「今連盟の3割も占めているこの弱小教会を何とかしなければ、連盟は先がありません。」(この場合、礼拝が20名以下、年間予算が400万以下の教会)と、熱っぽく発言した方がありました。すると別な代議員が「弱小教会と言う呼び方はやめてください。どこが一体弱小ですか。大きい教会だけが教会ではありません。」と反論したのを覚えております。私たちの教会もその中にはいるかもしれませんが、今はそういう教会が多くなってきています。

でもメシヤはそのような弱小氏族の中に、そのような小さな町を選ばれて、そこに来て下さったのです。大きな町ではなく小さな町に、お金持ちの町ではなく貧しい町に、高い所得や経済力を持った町ではなく、低い所得の所に貧しい所に主はあえて来て下さるのです。心貧しい者、心に弱さを持っている者のところに来て下さるのです。

そしてこのベツレヘムの預言は的中し、実現しました。主の約束の言葉は必ず成就します。今は、イエス・キリストが再び天から降ってこられるのを待ち望む、第二のアドベントの時代です。私たちは降誕だけではなく、主の再臨の時をも待ち望んでいます。ただ、その時季は私たちには明らかにされていません。でも、確実に天使の声とラッパの音が鳴り響くうちに、主御自身が天から降ってこられます。そして、私達を天に引き上げて下さると約束しておられます。(1テサロニケ4:16〜17)メシヤ誕生の預言が、その場所を定めて、確実に成就実現しましたから、メシヤの再臨もまた確実に起こります。その時が、ますます近づいて来つつあります。私たちは、今その確かな預言の書を手元に持っています。主の約束は決して滞ることはありません。預言者ハバククもこう言っています。「たとえ、遅くなっても、待っておれ。それは必ず来る、遅れることはない」(ハバクク2:3b)と。

この約束の成就は、高慢な者には目隠しされていますが、信仰を持って、へりくだって主の御前に歩む者にとっては、確かな約束なのです。「エフラタのベツレヘムよ、お前はユダの氏族の中でいと小さき者。お前の中から、わたしのために、イスラエルを治める者が出る。」この預言の言葉を感謝しましょう。そして、主の前にいつも小さき者、貧しき者、弱き者としてへりくだって、救いの預言が成就されることを待ち望みつつ、このアドベントを過ごしてまいりたいと願っています。                  
                                       (岡田 久)

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