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ヘルモンの露のごとく (詩篇 133・1〜3)

メッセージ

2010年1月3日富里教会新年礼拝
   「ヘルモンの露のごとく」
           (詩篇133:1〜3)

1. はじめに

新年明けましておめでとうございます。
主の年2010年も、神様の恵みのうちに感謝と賛美をもって歩んでゆきたいと願っております。富里に参りまして、神様からたくさんのお恵みをいただいておりますが、一番の恵みは、この森の教会、ここに住んで伝道ができるということです。都会や街にはない自然の贈り物がいっぱいあります。そしてそういう自然を通して、神様の御言葉がさらに豊かに解るようになってきました。昨年も、「神の畑」とか「からし種」のお話をさせていただきましたが、それはここ富里の地から生まれたテーマのような気がします。今朝も、そのようなたくさんの自然の恵みの中から、朝、降りてくる露についてお話をさせていただきたいと思います。

特に夏の時期に、朝起きてこの庭を散歩しますと、まるで夜の間に大雨が降ったように、地面や芝生がびっしょりと濡れているのです。ですから木や草は、夏の日照りの時でも、生き延びてゆけるんですね。どうして露が降りるのかと申しますと、夜の寒気に地面や木々がさらされ、冷えたところに水蒸気含んだ暖かい朝の空気が入り込んできて、冷たい水の入ったやかんの表面に水滴がつくように、この地面にも水滴がつくのではないでしょうか。ですから夜と昼の寒暖の差が激しいところにこそ、たくさんの露が降りるのではないかと思います。特に山間部ではそういう現象が起こりやすいと言われています。ここは富里市の山間部で、一番標高が高いところに位置しているのではないかと思います。

2010年の新年にふさわしい今朝の詩篇の御言葉を、もう一度読んでみます。
「見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び。
かぐわしい油が頭に注がれ、ひげに滴り、衣の襟に垂れるアロンのひげに滴り、
ヘルモンにおく露のように、シオンの山々に滴り落ちる。
シオンで、主は布告された祝福と、とこしえの命を。」(詩篇1331〜3)

2. ヘルモンの露

ここに出てまいりましたヘルモン山と申しますのは、イスラエルの北部にある標高2800メートル級の山です。ですから、山頂には雪も積もり、イスラエルでもスキーのできる場所です。そしてこのヘルモン山に、地中海から湿った空気が流れこみ、それが山肌を昇ってゆくうちに冷えてきて、夏には雨が降ったように露となって地面に降り注ぐのです。冬には雪になる時もあります。

もう一つ、不思議な現象ですが、雨上がりの朝には、朝日がこの大きな杉の木やさわらの木に当たって、木の幹から湯気が立ち上ります。まるでさわらの木が湯上りのようになって、この森のあちこちから水蒸気が上がってくるのです。これも富里ならでは、そしてこの教会の場所ならではの貴重な現象ではないかと思います。

ともかく、あのヘルモン山に降ってくる露のように、このシオンの丘にも露が滴り落ちるというのです。シオンの丘は、山というよりはエルサレルの市内にある小高い丘です。ここでモーセはイサクを捧げ、ソロモンが神殿を築いた場所です。イスラエルの民の聖地みたいなところです。この教会のある場所のように山というよりは丘ですから、そんなに多くの露は降らないと思いますが、ここでは、そういう自然現象の露ではなく、神様の祝福の油と永遠の命のことを指しています。このシオンの丘に、大ヘルモンの山々に降り注がれる露の如くに、神様の祝福の油と永遠の命が降り注がれると歌っています。今朝は、この神様からの祝福の油とはどういうものかについて、三つの点についてもう少し考えてみたいと思います。

A. 朝早く降る露
まず第一に、露は朝にしか見られません。日が昇ってくると蒸発してしまいます。そしていつもの情景に変わってしまいます。この神様の祝福の油は、実は朝の早い時期に見ることができます。8時ころ起きても、露はすっかりなくなっていますから、ヘルモンの露を見たい、その恵みにあずかりたいと思う人は朝、早く起きる必要があります。朝早く、神の祝福を求めることです。先週も「デイリー・ブレッド」というデボーションの小冊子を配りました。あれを使ってもいいですし、また、週報の裏にある聖書日課を毎日、朝早く読むこともいいでしょう。あるいは、聖書を順番に自分で少しづつ、毎朝読み続けることもいいかもしれません。神様の恵みは朝早く降りてきます。

昔、エジプトを出たイスラエルの民が、荒野で毎日毎日食べたものがあります。それが天からのパン、マナでした。このマナは、朝露と一緒に地面に降りてきました。ですから、露が乾いてその後に残った白いパンのようなものを食べたのです。これは、昼になってしまいますと解けてしまったり、虫がついたりします。(出エジプト16:13〜)ですからこの神様の祝福の油である、御言葉を朝早く起きてかき集め、日々の糧にする必要があります。祝福の油は朝降るということです。

B. すべての者の上に降り注ぐ露
次に、朝の露を見て気がつくことですが、この神様の恵みの露は、地面全体に、木や草にもすべてのものの上に降り注がれます。二階のベランダに置いてあるゴミ箱の上にも、くもの巣にもつきます。この教会の建物の周りにはいろんな種類の蜘蛛が住んでいますが、それぞれ蜘蛛の巣の張り方が違います。ベランダの柵の間に巣を作る小さな蜘蛛の巣は、朝露が降りると、糸の一本一本に露がついて、はっきりとその巣の形が見えます。それが、幾何学的に一寸の狂いもなく均等な多角形の図形を、露が表わすのです。本当にきれいです。家内が布団を干せないから早く取ってといいますが、私はしばらくその蜘蛛の巣を見ています。

また、ゴミ箱の上にもと言いましたが、ちょうど二階のベランダにゴミ箱があります。朝そのゴミ箱のふたの上を見て見ましたら、なんとプラスチックの平面のふたの上にも、露が降りているのです。皆さん、どういう風に露が降りているか、見たことがありますか。(?)実は、露の粒、すなわち水滴は、碁盤の目のように、線と線が交わるところに計ったように、等間隔に降りているのです。ランダムではないのです。つまり何を言いたいのかと申しますと、神様の恵みの露は、計算したように、キチンとかたよることなく、すべての人の上に平等に降り注がれるということです。

しかも、露は地面の表面だけではないのです。この空間全体が神の恵みの水蒸気で充満しているのです。蜘蛛の巣であろうとゴミの上であろうと、その箱のふたであろうと、神様の恵みはすべての人を包み、すべての人に注がれているということを覚えたいと思います。恵みの露は、悩みの中にある人、生活の困窮の中にある人、孤独や人生の失敗の中にある人、どんな人の上にもまんべんなく降り注がれています。神の恵みの中にいない人はないのです。

C. 露は最も寒い朝に降る
三番目に、この露が降りるのは、寒暖の差が激しい朝です。暗い夜に冷えきった木や草や地面の上に、暖かい湿った空気が流れ込んできて、その空気の中の水蒸気と冷えた葉っぱの表面で、その温度差の故に結露します。つまり、何を言いたいかと申しますと、私たちの人生の中で、あるいは生活の中で、時には夜のような時もあり、冷たい北風が吹くような時もあると思います。そういう、暗さ寂しさ孤独の中にあればあるほど、神様の愛の水蒸気を含んだ空気が私たちの周りを囲み、暖かい神様の恵みが、その冷たい部分、暗い部分に接して、はじめてそこに恵みと祝福の神の露を滴らせるのです。

むしろ、冷たく暗い時があるからこそ、露が降るのです。これが天から降る露の大きな恵みではないでしょうか。ヘルモンの大露のように、シオンの山にもヘルモンに劣らぬ大きな恵みの露が滴りました。私たちの人生の中でもそうですが、暗闇の中にすでに光が差し込んでいるのです。失敗の中にすでに神の道が備えられています。これが神の恵みの露そのものではないでしょうか。暗い時こそ、寒い時こそ、孤独な時こそ、苦しみの中にある時こそ神の恵みの露は滴るのです。

私はここに、あの十字架の恵みの光を見る思いがします。この詩篇133篇には十字架の言葉は出てきていませんが、この露のしずくの中に神の恵み、祝福、とこしえの命が示されているような気がしてなりません。あの真暗闇の中に、あの苦しみの十字架の上に、神の恵みの露は豊かに降り注がれたのです。つまり、あのシオンの丘こそ、私たちの救い主イエス・キリストが十字架にかかられた場所です。そのシオンの丘の上で、十字架の苦しみを通して、イエス・キリストは全人類の罪の赦しを宣言されました。「シオンで、主は布告された、祝福ととこしえの命を。」まさにそのとおりです。

今朝歌った讃美歌の中にこういう言葉がありました。「朝つゆ残るバラのそば行くとき、主のみ声わが心開きたまえり。なれは我のものなり、主のみ声きこゆ、わが心喜びに満ちあふれる。」(The Baptist Hymnal 187番 岡田訳)
あの十字架の立つシオンの丘こそ私たちの救いの源であり、祝福の源なのです。このシオンの丘の上にヘルモンの露にも優る神の大きな祝福、豊かな恵みが降り注いだのです。イエス・キリストを信じる者に与えられる、罪の赦しと永遠の命の約束です。

3.アロンのひげに滴る

最後に、この神様の祝福の油は、大祭司アロンの頭に注がれ、ひげに滴りとあります。この大祭司はイエス・キリストを指しています。祭司は神と人間との仲介者として立てられました。すなわち神様の祝福は、仲介者なるイエス・キリストを通して注がれるというのです。そしてその祝福の油は、上から、すなわちアロンの頭から注がれ、そのかぐわしい祝福の油が、祭司の頭、ひげ、襟とだんだん下の方に流れ下って行く様子が描かれています。

つまり、神の祝福と恵みの油は、大祭司なるイエス・キリストを通して、下の方まで流れ下る。一方的な恵みとしてです。しかも祭司のひげの先に至るまで流れ降るのです。神の恵みは、あのヘルモンの大露のように天から下ってくる。そして大祭司の頭に下り、ひげの先にまで行き届き、祭司服の襟まで垂れ下ってくるのです。

新約聖書のコロサイ1:18に「キリストは自分の体である教会の頭である」という御言葉がございます。つまり、神様の祝福と恵みの油は、頭であるイエス・キリスト様を通して、その体である私達一人一人に注がれるということです。しかも、大祭司アロンのひげの先端までその油は滴り落ちるのです。それは、私達一人一人の上に、その心の中に、ここに出席されているお一人お一人の上にもれなく注がれるということです。

役員やリーダーの方はもちろん、子供の上まで、そして求道中の方々の上にまで、もれなく隅々まで行き届くのです。私たちが奉仕することの全てに至るまでです。教会案内を配布する時にも、そのパンフレットの1枚1枚を通してまで、神様の祝福の油は注がれ続ける事を意味しています。少し言い過ぎになるかもしれませんが、教会の頭であるイエス・キリストを通し、その御言葉によって、牧師を通し、教会役員を通し、教会学校のリーダーを通し、メンバー一人一人に至るまで、もれることなくその祝福と恵みの油は豊かに降り注がれるということです。これが2010年の年頭に与えられた御言葉です。

3. 恵みと祝福の食卓

そのようにして、神の恵みと祝福の油が、この七恵の丘にある富里キリスト教会の上にも、今年はいっぱい降り注がれることを願っています。そしてこの神の恵みによって、兄弟姉妹が共に座り、一緒に座っている姿こそなんと言う喜びであり、なんと言う恵みだろうかと詩篇の記者は歌っています。私たちも、今日は主の晩餐式があります。イエス様の食卓を囲んで、パンと杯を通してイエス様の十字架の恵みを記念し、感謝していただく日です。主の晩餐式だけではなく、クリスマスの愛餐会や毎月第2週4週の食事の時があります。その時、本当に皆さんが一緒にテーブルを囲んで、食べながら語り合う時の情景をこの1節の言葉が言っているような気がします。「見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び」と。

この時が本当に、皆さん幸せそうです。食べ物があるから幸せということもあるかもしれません。それ以上に、皆が一緒に一つのテーブルに座っていることが神様の恵みであり、私達にとっての最大の喜びです。ある教会の礼拝堂にこの1節の御言葉を書いた色紙がありました。それはどこの教会でも願っている事です。時には一緒に座れない、お互いにそっぽを向いている時もあるかもしれません。ですから、皆が一緒になってこの主の食卓を囲むことが、最高の恵みであり、喜びなのです。そして、この祝福の油と恵みの露が降り注がれるところに、この兄弟姉妹の聖霊による一致があるような気がします。この祝福の油である聖霊様の一致を、目指してゆきましょう。

最後に、申命記11:11〜12の御言葉を読んで終りたいと思います。
「あなたたちが渡って得ようとする土地は、山も谷もある土地で、天から降る雨で潤されている。それはあなたがたの神、主が御心にかけ、あなたの神、主が年のはじめから年の終わりまで、常に目を注いでおられる土地である。」(申命記11:11〜12)すでにこの土地は主の恵みの露と雨で潤っています。たとえ山あり谷ありの一年であっても、主がこの年の初めから最後まで、恵みと祝福の眼差しを注いで見守っていて下さるというのです。このみ言葉を感謝し、信じて2010年も共に歩んで行きたいと願っています。
 
                                       (岡田 久)

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