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ヒゼキヤの涙の祈り (列王記下20:1~10)

メッセージ

2012年9月23日富里キリスト教会
「ヒゼキヤの涙の祈り」
(列王記下20:1~11)

1.死の宣告

まず最初に、今日の個所のあらすじについてお話してみたいと思います。列王記下の20:1節を読んでみましょう。「そのころ、ヒゼキヤは死の病にかかった。預言者、アモツの子イザヤが尋ねて来て、『主はこう言われる。「あなたは死ぬことになっていて、命はないのだから、家族に遺言をしなさい。」』と言った。」

「ヒゼキヤは死の病にかかった。」と突然記されています。たとえ、ユダの王様でありましても、また数々の宗教改革を断行して、イスラエルの民を主のもとに立ち帰えるように導いた信仰深い王でありまして、死の病の宣告は突然やって来ます。私たちもそうです。何の予兆も脈絡もなく、死の病の宣告が起こる時があります。

人間は、健康な時ほど、また健康な人ほど死を恐れません。自分なんか絶対死なないと思っています。自分は死とは縁のないものだと、死を全く意に介しないように生きています。そして、ついこの間まで不治の死の病にかかった人にはも、本人には絶対告知しないようにします。おそらくショックが大きすぎて、死の宣告に耐えられないだろうという配慮からではないかと思います。ここに二つの本があります。「死の教育」(R.C.ミラー著・ヨルダン社)と「死への備え」(尾山令仁著・いのちのことば社)と言う本です。「死の教育」と聞いてびっくりされる人もいるでしょう。でも、この本は、不治の病、死の病にかかってから、あわてて死について準備したり勉強したりするのは遅すぎると言っています。

「死の教育」の中で、人は死というものをどんなプロセスで受け止めて行くかが記されていました。まず最初は、「否認」をするのだそうです。「まさか、自分が死の病にかかったって?!そんなことありえない。」と。次に「怒り」が出てくるそうです。「なんであの人ではなく自分なのか?」と。そして三番目には「取り引き」が起こるのだそうです。「ちゃんと薬を飲みますから、治してください。」。つぎに「うつ状態」になった後で、ようやく死を「受容」するのだそうです。そして最後に、「希望」を持たせて死を迎える必要があると書いてありました。

この死の病の宣告を受けた時に、ヒゼキヤはどうしたでしょうか。否認も怒りもあったと思います。でも、この聖書を見るかぎりでは、ヒゼキヤは、死に際して、神様と「取り引き」しています。神を信じていない人は神様ではなく医者と取引するかもしれませんが、クリスチャンは神様と取り引きができるのです。それが、祈りです。神様との対話、神様との交渉です。ヒゼキヤは神様と面と向き合いました。

2.涙の祈り

ヒゼキヤがどんなふうにしたか見てみましょう。「ヒゼキヤは顔を壁に向けて、主にこう祈った。『ああ、主よ、わたしがまことを尽くし、ひたむきな心を持って御前を歩み、御目にかなう善いことを行ってきたことを思い起して下さい。』こう言って、ヒゼキヤは涙を流して大いに泣いた。」(20:3)とあります。

私たちと神との交渉は、祈りです。そして私たちにはこの祈りがあり、祈りを通して神様と直接交渉ができるのです。神を信じていない人は、医者と交渉するかもしれません。「何とかあと十年長生きさせて下さい。どんな薬も飲みます。いろんな治療方法も受けますから。」と。でも、医者は、人間の死に対して無力です。神様だけが人間のからだも病も寿命も健康も、そして生も死も未来も過去も全てを御支配しておられるのです。それが今日のテーマです。

A)壁に向かう

当時いろんな偶像がユダの国にはびこっていました。日本でもそうです。家の中にいろんな神様がまつられています。ある人は仏様のいる仏壇に、線香を立てて手を合わせるかもしれません。ある人は神棚に向かって柏手を打つかもしれません。ある人は近くのお地蔵さん、御社に行ったり、近所の拝み屋さんに行って祈ってもらうかもしれません。でも、ヒゼキヤは、ただ一人壁に向かったのです。

壁に向かうということは、目に見える対象を持たないということです。そして、ひとり自分の心の内に問いかけ、心の中におられる目に見えない神様と対話をすることです。どこでもできる祈りです。あそこに、ここに行かなければ願いが聞かれないということではありません。私たちがどこでも、心を静めて神様に向き合えるならば、たとえ病院のベットの上でも、ICUでもどこでも目に見えない主が聴いてくださるということです。そして静かに自分の心の中の内なる声と向き合うのです。神様の答えを、神様の御言葉を待つのです。これが壁に向かったヒゼキヤの心境ではなったでしょうか。

B)思い起して下さい

これは、自分の今までの生き方の中で、少しは神様のために働いて来たことを思い起して下さいと祈っています。神様は憐れみ深い方ですから、どんな小さなことでも覚えておられます。ヒゼキヤは、失望落胆しつつ神に訴えました。私たちも、最後は、神様にこんな私でもどうぞ思い出して下さいと祈るものでありたいです。

あれもしたこれもしたから、自分は絶対助かるはずだという祈りではなく、「思い起して下さい」ということは、主の前に自分の限界、自分の弱さに気づいて、ひたすら主により頼む者の祈りではないでしょうか。イエス様の十字架の時に一緒に十字架にかかった罪人の一人が、最後にイエス様にこう言っています。「主よ、あなたがこの地上においでになる時には、このわたしを思い出して下さい。」と。「リメンバー・ミー」と言う最後の小さなへりくだった短い祈りの言葉です。実に謙遜かつへりくだった小さき者の祈りです。

C)涙を流した

そして、ヒゼキヤは、壁の前で涙を流しながら大声で泣きました。人の涙は、その人の偽りのない真実の心を表しています。演技をして嘘泣きをする人は別ですが、涙は、その人の中におられる聖霊様の存在を証明しています。ヒゼキヤは、この死の宣告を前にして、子供のように主に訴え祈りました。その訴えと祈りが真実であり、嘘偽りのない正しいものであることを証明するのが、この涙なのです。たとえ、神様に背いていても、主を知らないと言っても、その人の心の中に主が宿っているならば、涙となって泣き崩れてしまうのです。

そして、神様は私たちのこの涙の祈りを聞いて下さいます。5節の真ん中ごろに「わたしはあなたの祈りを聞き、涙を見た。」と主は言っています。神様は、私たちの涙をご覧になるのです。真実の涙、悔い改めの涙、自分の無力さ、自分の限界、自分の弱さに気づいて、ただ主により頼むしかない時に人は涙を見せるのではないでしょうか。(菊川姉の涙)このヒゼキヤの涙を見た主が、帰ろうとしているイザヤにすぐに語りました。私たちが涙を流して祈る時、主はいち早く答えてくださいます。

3.応えたもう主

主はイザヤにこう言いました。「わが民の君主ヒゼキヤのもとに戻って言いなさい。『あなたの父祖ダビデの神、主はこう言われる。わたしはあなたの祈りを聞き、涙を見た。見よ、わたしはあなたをいやし、三日目にあなたは主の神殿に上れるだろう。わたしはあなたの寿命を十五年延ばし、アッシリア王の手からあなたとこの都を救い出す。わたしはわたし自身のために、わが僕ダビデのために、この都を守り抜く。』」(20:5~6)

主は私たちの祈りに必ず応えて下さいます。イザヤに向かって主はこう告げました。一つは、ヒゼキヤの病気はいやされ、三日目には立って歩いて神殿に行けるようにまで回復するということです。そして、ヒゼキヤの寿命を十五年延ばして、エルサレムをアッシリヤの手から救い出すということです。そして三番目には、この都を、主御自身のために、またダビデに約束したゆえに、最後の最後までこの都エルサレムを守り抜くというのです。

なんとすばらしいことでしょう。主はヒゼキヤの病をいやし、十五年寿命を引き延ばす。そしてこの都を最後の最後まで、自分自身のために守り抜くというのです。そしてイザヤが、干しいちじくを持って来て患部に当てると、ヒゼキヤは死の病から回復したのでした。いちじくは昔から、薬用効果があって、治療にも用いられました。これは、病を治すには、薬もある程度必要だということを意味しています。

4.時を支配する主

ヒゼキヤは、自分の病が完全に治って、三日後に神殿に上るまで回復することができるという約束の証明をするためのしるしを求めました。なかなか、自分が治ると言われても、そのことを確信できませんでした。そこで、しるしを求めました。それは日時計の影を十度進ませるか、後戻りさせるか、そのどちらかを選びなさいとイザヤはヒゼキヤに言いました。

もし皆さんが、時間を進ませたり戻したりすることができたら、何年前に戻りたいですか。時間を旅行できるタイムマシンと言う機械をテーマにした映画がありますね。ヒゼキヤは、未来に進むことよりも、過去にさかのぼることの方は難しいと思いました。ですから、時間を後戻りさせて下さいと言ったのです。
皆さんも、未来に進みたいですか、それとも過去に戻りたいですか。未来にはゆくことができても、過去にはもう戻れない、過去に行くことの方が難しいと考えていませんでしょうか。それは、過去には辛いことや忘れてしまいたいことがいっぱいあるので、戻ることは難しいと考えます。

でも、わたしは、神様が日時計の影を戻すことがおできになる方だということから、神様はきっと私たちをも過去の傷ついた時間に、取り返しがつかないことをしてしまった時に、私たちを引き戻して下さるお方だということではないかと思うのです。人間は、自分の死が近づき、人生の終焉を迎えようとする時には、昔の時間に戻ることを願います。昔の友人に会ったり、昔の懐かしい場所を尋ねてみたりします。しかし、神様は時間をも支配されていますから、私たちを過去の時代に、あの瞬間に連れ戻してくれるのではないでしょうか。人は死を宣告される時に、自分の過去の時間、消しても消えない過去の出来事にまでさかのぼって行くのではないでしょうか。「あの時に戻りたい、あの人はどうしているのだろうか、悪いことをした、謝りたい。」そう思うのではないでしょうか。

そして、神様は、そのような出来もしないようなことをさせて下さるお方だということです。それがこの日時計の影を戻られるということではないでしょうか。そして、苦しかった時の流れを回復させて下さり、償いをしてくださる方だということです。そして昔の自分に立ち帰らせて下さるお方だということです。そして失ったものも返して下さるお方だということです。自分の過去の罪を清算して下さり、新しく生まれ変わらせて下さるお方だということです。死によって、引き裂かれていた者とも再会させて下さるお方だということです。

私たちの過去の罪は清算されているでしょうか。自分ではその傷はどうしようもできません。自分では償い得ないかもしれません。しかし、わたしたちが主の前に悔い改めて、涙を流して祈るならば、神様が償って下さるのです。私の過去の過ちも失敗も汚れも罪も、その過去の時間に引き戻して下さり、主が一切を清算して下さり、過去に縛られない新しい人生を与えて下さるのです。それがこの日時計の影を十度後戻りさせたということではないかと思います。

私たちの過去の罪も現在の罪も、そして将来起こすかもしれない罪も一切をイエス様は十字架の上で清算して下さいました。この十字架こそ時の中心です。ここに立ち帰るならば、私たちはいつでも新しく生まれ変わって、将来に向かって前進して行くことができるのではないでしょうか.

私たちもヒゼキヤのように、沈黙して壁に向かい、涙をもって真剣に主に願い求めようではありませんか。主だけが私たちを、過去の世界に連れて行って、主の十字架の下で、すべての罪過、失敗を清算してリセットさせて下さるお方です。新しい命を与えて下さいます。それはあと十五年生きるという「余命」ではなく、神様から与えられた「与命」なのです。主から与えられた新しい人生、新しい命の内に生きてゆきたいと願っています。(岡田 久)

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