ようこそ、富里キリスト教会の公式ホームページへ

パウロの願い (ローマ1:8~15)

メッセージ
20021/4/18
富里キリスト教会礼拝説教
「パウロの願い」
(ローマ書1:8〜15)

①パウロの感謝
先週から、このローマの信徒への手紙より私たちは御言葉の恵みをいただいておりますが、先週はまさにこの手紙の冒頭部分、挨拶にあたる部分でありパウロの自己紹介に当たる部分を見てまいりました。今日は、その挨拶の続きでありながらも、ここからはこの手紙の目的、またパウロ自身のローマ教会に対する願い、思いというものが語られています。手紙だけなく論文等においても最初に目的や狙い、またそこに至る思いというものが語られることは定石であり、非常に型に合い、構成として整っております。しかし、そうでありながらもその挨拶からは彼の思いだけでなく、彼の人格そのものがあふれんばかりに発露していることがよくわかります。
手紙でありながらも、いや手紙だからこそでしょうか、パウロ書簡というものは使徒パウロ自身の信念、生身の、等身大の姿が赤裸々に表されています。ストレート、しかしそれであって思いやりがある、そういった人物であることがこの挨拶から読み取ることができます。そして、何よりこの挨拶からはパウロの神様に対する信仰の姿勢がよく表されています。その姿勢とは感謝です。まず彼は、自分の目的、願いを語る前に神への感謝から語り始めました。

ローマ1:8
「まず初めに、イエス・キリストを通して、あなたがた一同についてわたしの神に感謝します。あなたがたの信仰が全世界に言い伝えられているからです。」

新約聖書の中にあるパウロの手紙というものは、ガラテヤ書以外は全て、神への感謝から始まっています。ガラテヤ書は「ああ、おろかなガラテヤ人」と呼びかけるほどパウロは厳しく非難していますが、それは彼らがせっかく福音に生きようとしていたのにまた、律法や割礼が救いに必要であるような考え方に流されようとしていたためでした。救いに関わる大切なことであるがゆえにパウロはそこではあえて厳しい語り口で語っています。例外の書といっても良いでしょう。それほどパウロにとって福音に生きるということは最大重要事項だったことがわかります。ある意味ガラテヤ書だけに冒頭に感謝の言葉がないことがその事の重大さを表すとともに、そこまでのことでなければ極力パウロは神への感謝を忘れず、そこから始まる信仰者であったことがよくわかります。
パウロはガラテヤ教会以外にもたくさん手紙を送りましたが、それぞれの教会に何も問題がなかったわけではありませんでした。それこそコリント教会などは、不品行、分派分裂など問題だらけでした。テサロニケ教会は迫害の苦難の最中にありました。しかし、パウロは感謝の2文字から手紙を始めています。フィリピ書などは喜びの書などともいわれ、フィリピ教会へのパウロの喜びがあふれんばかりに描かれていますが、その手紙を彼は獄中の中で書いていました。その手紙も感謝の2文字から始まっています。
自分や教会の状況がどのようなときであったとしてもパウロには必ず感謝がその信仰の中心にはあったのです。それはただの人への感謝だけではなかったからでしょう。彼の感謝は、まず恵みを与え、救い出し、使徒として召し出してくださった神様に向けられたものでした。人から受けた喜び、感謝というものはその時は嬉しいものですが、だんだんと色あせてきます。しかし、神の恵みへの感謝というものはいついかなるときも、色あせないものなのです。
そして、パウロはここでローマ教会に対する特有の感謝について述べます。それはローマ教会の人たちの信仰が全世界に言い伝えられていることへの感謝でした。すごいですね、世界中に名を轟かせるとは。ただ少し注意していただきたいのは全世界といっても当時の世界に生きた全ての人間がその中に含まれているというわけではありません。
ここでいう世界と地球上は決して同一の範囲を示さないのです。今、私たちが全世界と聞くとアフリカやアマゾンの奥地も含めた本当に全世界といったものを想像するでしょうが、当時の世界とはローマ帝国の支配下、ローマ帝国の政令と文化とが行き渡っていた世界のことを表します。ここでの全世界とは地中海を挟むいわゆるローマ帝国が覇権を握った世界のことなのです。
その全世界であるローマ帝国の中心、首都の出来事は噂の波に乗って自然にローマの世界全体に広まっていくでしょう。言い伝えられるという言葉は、褒められる、称揚されるとも意味します。ローマ帝国の中央にいる信徒が信仰に堅く立つ態度は全世界の信徒への大きな励ましを与えたことでしょう。そのような励ましを与える教会となっていることを感謝するとともに、パウロはこのローマ教会の発信力という可能性と重要性を非常に感じていたのかもしれません。

②パウロの祈りと願い
そんなローマ教会をパウロはいつも心に留め、祈っていました。そしてその祈りにはパウロの切実な願いが込められていました。

ローマ1:10
「何とかしていつかは神の御心によってあなたがたのところへ行ける機会があるように、願っています。」

直接あなたたちの元に行きたい。ローマに行きたい。私がローマに行くことが神の御心であってほしい。そのようにパウロは切実に願っています。なぜ、そんなにローマに行きたいのでしょうか。観光がしたいのでしょうか?いいですね。現在、イタリアという国は世界遺産の数が世界一だそうです。とりわけローマという街にもたくさんの世界遺産や見応えのある観光地がたくさんあります。私も神学生時代、イスラエルのスタディツアーの最後におまけのようにイタリアはローマに3日間滞在しましたが本当に素敵な街でした。どれだけ歩いてもきっと飽きがこないだろうなぁ。そういった感想を持ったことを覚えています。美しくも崇高な芸術作品の数々、圧倒的な芸術的な建築物。コロッセオなどを見たときは本当に胸を躍らせました。なんといいますか、良くも悪くもきらびやかな街でした。
現代のローマですらそれほど魅力的なのですが、当時のローマとすれば、その時代はまさにピーク。ローマという街は大都会、世界の中心でした。しかし、それゆえにその街にはありとあらゆる文化、宗教、価値観にあふれていました。ローマ教会の人たちからすれば誘惑も多かったことでしょう。そんな状況にある彼らにパウロはぜひ会いたいのだと言います。そして会って、霊の賜物をいくらかでも、分け与えて力になりたいのだというのです。これが、パウロがローマに行きたい理由でした。
様々な誘惑に囲まれたローマ教会。しかし、そんな状況の彼らには指導すべき力を持った者はいなかったようです。幸い、パウロには霊の賜物が十分に備わっていました。霊的賜物とは、信仰の知識、才能、愛すべてを含む広い意味に理解することができますが、特にパウロに関しては福音に対する明確で全体的な理解と知識、聖霊に満ちた愛と力であると言えるでしょう。その賜物を分かち合うことによってローマ教会の人たちの信仰が堅固なものとなり、霊的な生命が一層強められることをパウロは願っていました。
しかし、それは決して上から一方的に師匠から弟子に伝授するといった上下関係による指導ではありませんでした。事実上はそういった面もあったかもしれません。しかし、それでもパウロはこの霊の賜物を分け与えることは互いに励まし合うことなのだと表現しました。

ローマ1:11−12
「あなたがたにぜひ、会いたいのは霊の賜物をいくらかでも分け与えて、力になりたいからです。あなたがたのところで、あなたがたとわたしが互いに持っている信仰によって、励まし合いたいのです。」

ここに使徒パウロの実に謙遜な牧会者の姿が見えます。彼は使徒であり、実際に教える立場でした。しかし、彼は決して自分の立場が上であるという主張はしないのです。使徒だから敬いなさいとは言いません。確かに目上に対する敬意は必要でしょうが少なくとも彼は自分自身に対してはそのような要求はしないのです。むしろ、私の霊の賜物を分け与えることによって私はあなたたちに励まされるのだというのです。互いに励まされるというのです。それは私自身も実感いたします。みことばによる励ましをすることによって、私は皆様から本当に多くの励ましをいただいています。
教会は共に、互いに教え合い、励まし合う共同体です。牧師から信徒への一方向のトップダウンのような形ではなく、真ん中にイエス様を置いた双方向の真実な交わりの中でこそ教会は真に成長していくのです。それは牧師と信徒との関係においてもそうですし、信徒間においても同じことが言えるでしょう。信仰歴が長い人が求道者の方に色々と教えたり、励ましたりするようなこともあるでしょうが、その機会によってむしろ自分が教えられ、励まされるのだと謙遜に、相手に敬意をもって接することが互いの成長へとつながっていきます。
イエス様は泥だらけの汚い弟子たちの足を愛をもって洗い流してくださりました。しもべがすべき仕事を師匠があえてそのようにされました。このイエス様の姿が現れる教会でありたい。そのように願います。

③御心に委ねた祈りと願い
霊の賜物を分け与え、互いに励まし合いたい。これがパウロの願いでした。しかし、パウロにはまたもう一つの願いがありました。それはローマの人たちにぜひ福音を伝えたいという願いでした。パウロは、異邦人伝道者として神様に召された使徒でした。異邦人伝道こそが彼の人生のミッションだったのです。
ギリシャ人も未開の人にもと14節にありますが、これは厳密にいうとギリシャの国の人ということでもありませんし、未開の人というのも別にジャングルの原住民のような人ということではありません。当時のギリシャ文化の価値観に生きる者、ギリシャ語を語りギリシャ哲学を愛する者をギリシャ人と言い表しています。他方、未開の人というのはその文化、価値観以外の人たちという意味でした。
ですから知恵のある人、ない人という言葉もそこまで字義通りに捉える必要もないかもしれませんが、そこにはギリシャ文化の人には知恵があって、それ以外の人たちは知恵がないと捉えていた当時の世界のおごりや偏見というものを垣間見ることのできる表現かもしれません。
しかし、パウロはそのような選別、カテゴライズはしません。そんなものは関係ないのだと言います。福音には全く差別がありません。すべてのものに例外なく開かれているからこその福音なのです。世のすべての人に開かれ、国籍の差別、文化の相違、階級の上下、知識の有無、老若男女などの区別は福音の前では全く意味をなしません。福音はすべての人間を例外なく救いに導く神の力なのです。
当時のローマの人たちとは、いわば支配階級の人たちです。我こそはローマ人といったところだったでしょう。しかし、そんなあなたも福音を聞くべき例外なき一人の罪の奴隷であり、その鎖から救われるべき者なのだ。そのようにパウロは熱情をもって彼らに福音を伝えたいと願っています。切実なパウロの願いです。そしてその彼の願いは決して自分本位のものではありません。あくまで彼の祈りと願いは神の召しが中心にあります。
手紙の中でパウロは本当に行きたくてたまらないといった感じで言います。しかし、必ず行く、絶対に行くのだといった言い方はしません。ローマに行くことが御心であることを願い、祈っているというのみです。ここから彼の願いは自己実現、自己達成からくるものではないことが窺えます。あくまで彼が求めているのは神の御心です。それゆえにその願いを手放し、神様に委ねることができているのでしょう。
明日のことは誰にもわからない。未来は神様の御手の中にだけあるからです。だから自分の願いはあったとしても断定はせずに、御心のままにと委ねる。はっきりしないように見えますが、実に強い信頼に身を寄せているパウロの姿がここにはあります。
しかし、これは私の憶測ですが、それでもパウロはきっとローマに行けると心のどこかで思っていたんじゃないかなぁと思うのです。なぜならこの彼のローマへの思いというもの自体が聖霊によって導かれたものだったからです。その時のことが使徒言行録19:21に記されています。

使徒言行録19:21
「このようなことがあった後、パウロはマケドニア州とアカイア州を通りエルサレムに行こうと決心し、『私はそこへ行った後、ローマも見なくてはならない』と言った。」

ここでの「決心する」という言葉は直訳すると御霊に示されるという意味になります。彼にはこのような思いがずっとあったのです。しかし、その願いがありつつも今はエルサレム教会にマケドニア州とアカイア州の人たちから預かった義援金を届けに行かなくてはならない。そのあとキリストの祝福をあふれるほどもってあなたがたのもとに行くだろう。そう言ったことがこのローマ書の最後16章には記されています。
主に委ねつつも行きたいという思い。ジレンマもあったことでしょう。しかし、最後にはどこかでこの思いは聖霊様からきているのだからきっといけるだろうと思っていたのではないでしょうか。
そして、実際にその御心に委ねたパウロの祈りと願いは主によって叶えられます。御心にかなった祈りは必ず聞かれるのです。しかし、神様は人には全く想像できないありえない方法で、パウロをローマへと連れて行きます。それは、囚人としてカイザリヤから護送するという方法でした。その様子は使徒言行録の後半に描かれています。パウロは抵抗するどころかむしろ喜んで囚人となってローマへと向かいました。一見、人間の人生としてみたらとんでもない不運に見えるかもしれませんが、しかしパウロの願いは聞かれたのです。そして、かれの最も願っていたことが達成された様子を描いて使徒言行録はその書を閉じています。

使徒言行録28:30−31
「パウロは自費で借りた家に丸二年間住んで、訪問する者はだれかれとなく歓迎し、全く自由に何の妨げもなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストについて教え続けた。」

まさに彼の願いが叶えられたことが描かれております。こうなることをパウロは囚人としてローマに護送される段階から気づいていたのではないでしょうか。それはいつも彼の神様への信仰というものの中心には感謝の2文字があったからだからこそだと思います。

思いもよらぬ形、タイミングで、主は私たちの祈り、願いをきいてくださります。それも、時に一見不運に見えてしまうようなことをとおして。しかし主が与えてくださるものは常に最善です。私たちもパウロのように神への感謝というものを中心に置き、その与えてくださる全てのものを信頼し、両の手で受け取りつつ祈りと願いを主に委ねてまいりましょう。最後に御言葉を一節お読みいたします。

ローマ8:28
「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くことを、わたしたちは知っています。」

武井誠司

powered by Quick Homepage Maker 4.50
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional