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バベルの巨塔 (創世記11:1~9)

メッセージ

2011年6月5日富里キリスト教会
「バベルの巨塔<神無しの文化>」
(創世記11:1~11)
1.天まで届く塔を造ろう

もう一度創世記11:1~4までを読んでみましょう
「世界中は同じ言葉を使って、同じように話していた。東の方から移動してきた人々は、シンアルの地に平野を見つけ、そこに住み着いた。彼らは、『れんがを造り、それをよく焼こう』と話し合った。石の代わりにれんがを、しっくいの代わりにアスファルトを用いた。彼らは、『天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう』と言った。」
                       (創世記11:1~4)
当時世界中が、一つの言葉を話しておりました。シンアルの地と言いますのは、
世界4代文明の発祥の地であります、チグリス、ユーフラテス河の流域の平野といわれています。そこに集まって来た人々、ハムの子孫は、石の代わりにれんがを、そしてしっくいの代わりにアスファルトを使うことを知っていました。この技術が彼らを大きく発展させました。そしてこの建築技術を使って、彼らはとほうのない高い塔のある町を造ることができたのです。「人は町を造り、神は村を造る」と言われますが、この科学技術の発見が人間に都市文明を造るまでに発展しました。今までは、石が建物の構造物でしたが、火で粘土を焼いて、良質のれんがを大量生産できるようになったのです。また、アスファルトを接着剤として用いました。今日の人間は、石を焼いてコンクリートにし、鉄を焼いて鉄筋を造ることができるようになりました。そして、創世記の時代よりも、現代の塔はどんどんと高さを増してきています。

聖書では、「有名になろうとした」とあります。他の訳の聖書では、「名をあげる」(口語訳、新改訳)、「力を見せる」(リビングバイブル訳)となっています。人間の「有名になりたい」「名前をあげて自分の力を誇りたい」というのが、一番になりたいという動機ではないでしょうか。しかもその上昇志向というのは、もはや歯止めが効かないところまできていると、神様ご自身が嘆いています。(11:6)人間はそれが、偽りの高さであることに気づくまでにいっていません。バベルの「巨塔」ではなく、バベルの「虚塔」にまだ気がついていないのです。

新約聖書にも、高みを目指して生きてきた人間がいました。それは、あの収税人ザアカイです。彼は自分が背が低いという欠点をカバーしようとして、死に物狂いでお金と地位を手に入れました。しかし、彼の空しい心を埋めてくれるものが見つかりませんでした。ある日、イエス様一行が来たというので、いちじく桑の木によじ登って、高い場所からイエスを見ていました。主は彼に目を止められ、「ザアカイ」と名前を読んで、「急いで木から降りてきなさい。今日はあなたの家に泊まりたい。」(ルカ19:1~10)と言われました。彼は急いで木から降りてきて、主を自分の家に迎え入れて救われました。

人間がこの高見を目指すのは、どこかに自分に対するコンプレックス、弱さを感じて、それを隠そうとして背伸びをするのではないでしょうか。アダムが、あのいちじくの葉で自分の体の欠点(エバとの身体上の違いを恥と感じる)を覆ったように、ニムロデ王はレンガを使って、ザアカイは木を使って、現代人は先端の科学技術を使って自分を高めようとして、必死に背伸びをして競争している人間の哀れな姿がそこにあるような気がします。

この人間の自我という自分中心の考え、自分をどこまでも貫き通して、自分を高めようとする思い、これがあの天まで届く巨大な塔であり、自分の名前をあげること、即ち神の如くに有名になろうとする人間の罪のなす業ではないでしょうか。聖書には「天は主のもの、地は人への賜物」(詩編115:16)という言葉がリます。この神の御言葉を恐れず、自らが神の如くになろうとしている人間の姿をバベルの塔は表わしています。私たちの心にも、このバベルの塔はないでしょうか。自分をよく見せようとして背伸びしていることはありませんか。神様が創造して下さったあるがままの自分を、感謝してそのままで受け入れているでしょうか。

2.主は降って来られた

そういう人間世界に対して、神様は天から降って行かれて、人々の言葉を混乱させました。そのことによって、人間がこれ以上、神の如くになろうとする罪の行為を打ち砕かれたのです。5節以降を読んで見ましょう。

「主は降って来て、人の子らが建てた、塔のあるこの町を見て、言われた。『彼らは一つの民で、皆一つの言葉を話しているから、このようなことをし始めたのだ。これでは、彼らが何を企てても、妨げることはできない。我々は降って行って、直ちに彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられぬようにしてしまおう。』主は彼らをそこから散らされたので、彼らはこの町の建設をやめた。こういうわけで、この町の名はバベルと呼ばれた。主がそこで全地の言葉を混乱(バラル)させ、また、主がそこから彼らを全地に散らされたからである。」(11:5~9)

神様はこう言いました。「彼らは一つの民で、皆一つの言葉を反しているから、このようなことを始めたのだ。これでは、彼らが何を企てても、妨げることはできない。」と。この罪の巨塔の世界の根源は何かと言いますと、それは「一つの国民で、一つの言葉を話しているからだ」と考えました。そして、もはやこれ以上我慢ができず、神自らが天から降って来て、人々の言葉を乱したのです。「乱す」という言葉が、ヘブライ語では「バルベル」といいます。そこから、この高い塔のあった町をバベルと呼ぶようになりました。これが、のちのバビロンと言う一大帝国の首都となって行きます。言葉を通じなくすることが、一国で統一して一大帝国を築くことを妨げることができるのです。

言葉を乱すことによって、人間の一致団結を阻止し、これ以上神の如くになるのを阻止したのです。人間の側から神へと向う道をふさぐことができました。その結果、人間は一致団結して、高く上がることを止めざるを得なくなりました。そしてチリジリになって、言葉が通じ合うもの同士が集まって、グループを造り、民族を造り、国家を造って行ったのであります。

ですから、今日、世界中が一つの民族、一つの言葉ではなく、多種多様の言葉で話し、多くの国が存在するということは、神様がそのようにしてくださったことのしるしなのです。使徒言行録の17:26にこうあります。「神は、一人の人からすべての民族を造り出して、地上の至るところに住まわせ、季節を決め、彼らの居住地の境界をお決めになりました。これは、人に神を求めさせるためであり、また、彼らが探し求めさえすれば、神を見いだすことができるようにということなのです。」(使徒言行録17:26~27)

このようにして、今日、いろんな国があり、国境があり、民族があり、いろんな言葉があるのは、人間が、かつてのバベルの塔のようにならずに、地上のあちこちに散らばされて、あちこちに住んでいて、いろんな言葉を使うのは人々の救いのためであるということなのです。

4.霊による新しい創造

世界中にいろんな言葉があって、いろんな国があるのは、人間がこれ以上一つになって、神に逆らうことのないようにしてくださった神様のご配慮です。そういう世界に神様は、聖霊様によって一つにされようとしました。それがペンテコステの出来事です。神様の一つの霊によって、キリストの弟子たちを全世界に遣わされ、聖霊の力によって、それぞれの国の言葉で語らせたのです。

それは、上へ上へと高みを目指す生き方はしなくても良いよ、もうそんなに自分で頑張らなくてもいいんだよと言うメッセージです。あなたは、ナンバーワンにならなくてもいいのだよ、ナンバーツーでもいいんだよ。神様の目から見たならば、皆がかけがえのないオンリーワンなのだとおっしゃってくださっているのです。あるがままで、神様に造られたままでいいんだよ、それでも神様はあなたを愛しているんだよ、高いところに登らなくても、私はあなたの傍にいるんだよと言うメッセージなのです。

アーウィン飛行士は言いました。あの広い真暗闇の世界で、まさに神様はわたしのすぐ傍にいてくださいました。地上にいるときよりも、神様の御臨在がいっそうはっきりとした感覚で感じることができたのですと。パウロ先生も言っています。「御言葉はあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にある。これは、私たちが宣べ伝えている信仰の言葉なのです。」(ローマ10:8)

私たちはこのイエス・キリストによって一つとされるのです。上へ上へ自分を引き上げようとする言葉ではなく、下ヘ下へとへりくだる言葉です。神が私たちのために肉体を取って来てくださり、私達の罪のために十字架にかかり、三日目に甦って今も生きておられるのです。この方だけが、天から降り、天に帰って行かれました。そして、命の言葉として、私たちのすぐ傍にいてくださいます。私たちがふり向けば、そこに神がおられるようにしてくださったのです。
                             (岡田 久)

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