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バビロンの流れのほとりにて (エゼキエル1:1~21)

メッセージ
2016年10月2日富里キリスト教会

「バビロンの流れのほとりにて」
(エゼキエル書1:1~21)
1.バビロンの河畔にて

「第30年の4月5日のことである。わたしはケバル川の河畔に住んでいた捕囚の人々の間にいたが、その時天が開かれ、わたしは神の顕現に接した。それは、ヨヤキン王が捕囚となって第5年の、その月の5日のことであった。カルデヤの地ケバル川の河畔で、主の言葉が祭司ブジの子エゼキエルに臨み、また、主の御手が彼の上に臨んだ。」(1:1~3)

ここに短いですが、エゼキエルの紹介が書かれてあります。エゼキエルという名前の意味は「神は強い方」という意味だそうです。父親の名はブジで、エルサレムで祭司として勤めていました。そして30年の4月5日とありますのは、エゼキエルが30歳の年の4月5日なのか、あるいはバビロンに捕囚されてきてから30年経った年なのか、いろんな説があります。しかし、この1章で神からの幻を通して、預言者としての召しを受けるわけですので、主イエスが伝道の公生涯に入られた年が30歳ですので、エゼキエルも30歳になって預言者として立てられたと理解してもいいのではないでしょうか。

「わたしはケバル川の河畔に住んでいた捕囚の人々の間にいた」とあります。これは南王国ユダが、紀元前597年にバビロンの王ネブカデネザルによって滅ぼされてしまいます。その時に多くのユダヤ人の高官や祭司や技術者が、バビロン(今のイラク)まで捕囚として連れられて来ます。バビロンからエルサレムまでは直線距離で約800キロ(東京―札幌間)ですので、そこを捕虜となって徒歩で連れてこられたのです。

バビロンはもともとカルデヤ人の国ですので、カルデヤの首都バビロンの近くに捕囚民のキャンプが置かれていました。エゼキエルは、そこで捕囚の人々と共に住んでいました。もちろん、当時のユダの王であるヨヤキンも捕囚となって連れて来られました。ケバル川と言いますのは、あの大河ユーフラテス川から水を引き込んで、農業を盛んにするために造られた運河だと言われています。その川のほとりで、エゼキエルは神から預言者としての召命を受け、捕囚の民の中にあって、人々を励ましたり、またエルサレムに残っている人々についても神の警告の預言をした人物です。

先週、この説教を作りながら何を話そうかと悩んでいましたら、ふと美空ひばりの有名な曲「川の流れのように」という歌詞が浮かんできました。そしてインターネットで、その歌詞の全文を検索してみましたら、捕囚となって異国の地に流されてきた人々の気持ちが少し解るような気がしました。

「一、知らず 知らず 歩いてきた 細く長いこの道 
振り返れば はるか遠く 故郷が見える 
でこぼこ道や曲がりくねった道 地図さえない それもまた人生
ああ川の流れのように ゆるやかに いくつも時代は過ぎて
ああ川のながれのように とめどなく 空が黄昏に 染まるだけ

 二、生きることは 旅すること 終わりのないこの道
   愛する人 そばに連れて 夢探しながら
   雨に降られて ぬかるんだ道も
   いつかはまた 晴れる日が来るから
   ああ川の流れのように おだやかに この身を任せていたい
   ああ川の流れのように 移りゆく 季節雪解けを待ちながら

   ああ川の流れのように おだやかに この身を任せていたい
   ああ川の流れのように いつまでも青いせせらぎ 聞きながら」

おそらく捕囚の民も、自分たちの故郷エルサレムから何百キロも離れた異国の地、しかもバビロンという、自分達にとっては最悪の場所に連れて来られているわけです。敵国、しかも偶像の支配する国です。そして彼らはいつもこのケバル川の河畔に座って、故郷の山や川を思い出していたのではないでしょうか。詩篇137編にも同じような状況にあるユダヤ人が歌った歌が載っています。

「バビロンの流れのほとりに座り、
シオンを思って、わたしたちは泣いた。
竪琴は、ほとりの柳の木々にかけた。
わたしたちを捕囚にした民が、歌を歌えというから、
わたしたちを嘲る民が、楽しもうとして、
『歌って聞かせよ、シオンの歌を』というから。
どうして歌うことができようか、
主のための歌を、異郷の地で。」(詩編137:1~4)

当時ユダ王国は、バビロンに滅ぼされましたが、バビロニア帝国の属国になりながらも、何度も反乱を起こして独立しようとしていました。それはこのバビロン軍によるエルサレムの滅亡、そして捕囚という事態を、神の審判の出来事であるということを受け入れることができませんでした。そして何度も、自力でエルサレムの独立と復興を成し遂げようとしました。

あの預言者エレミヤも、エルサレムの崩壊とバビロン捕囚は、ユダヤ人の背きに対する神の裁きだということを告げました。しかし彼もユダの王によって逮捕され閉じ込められました。エゼキエルもまた、エルサレムの滅亡とバビロン捕囚を、自分たちの罪に対する神の裁きであることを説きました。そして心を入れ替え、罪を悔い改めて主に立ち帰ることを説いたのです。そうすれば必ず主は我々を、再びエルサレムに帰還させて下さり、やがて新しい神の都エルサレムの回復の時が来ると励ましました。それがこのエゼキエル書です。ですからこのエゼキエル書は、人間の個人的な罪への厳しい言葉が出て来ます。我々が今こうなったのは、先祖が悪かったのではない、親の罪のせいではない、他人のせいではない、自分の罪に故なのだと個人的な罪の悔い改めを、繰り返し説いています。

大きな時代の荒波にもまれ、祖国の滅亡を体験した人々は、一体神はどこにいるのかということを何度も問いただしたのではないでしょうか。しかし、人間のじたばたした抵抗や意志ではなく、神の救いの御計画をじっとひたすら待ち続けることの大切さをこの書は語っています。それはまるでこの目の前に流れるバビロンの川ケバルの流れのように、ゆっくりとしかも力強くとどまることなく、一つの目的を目指して流れているのです。たとえバビロン捕囚という不本意な事態に至っても、それもまた神の御計画の中に置かれているのだということです。故に今は、主の前に罪を悔い改めるべき時なのだとエゼキエルは訴えました。まさに川の流れに身を任せ、神の救いの御計画に身を委ねて、忍耐して希望をもって歩んで行こうと語り続けたのです。

たとえ異国の川の流れであっても、このユーフラテス川をさかのぼって振り返れば、故郷のシオンの丘が見えて来ます。この川の源流に思いをあせながら、そして大海原へと注いで行く神の目的というものを思い浮かべていたのではないでしょうか。そして時代が変わり、歴史を貫いてとうとうと流れる神の救いの御計画とその完成と目的をはるかに仰ぎ見ていました。そうすれば必ず雪解けの日が来るということを信じて、新しい霊のエルサレムの回復を夢見ながら過ごしていたのではないでしょうか。

わたしたちもそうです。なんでこうなったのか、先祖のせい、親のせい、人のせいにして見たくなります。何でこんなところまで来てしまったのか。根無し草のような人生、失敗と挫折だらけの人生です。そして異国の地で、遥か故郷を思って天を見上げる時があります。この空は故郷へつながっていると思いながら、天を見上げる。この川の源流をたどれば故郷に着くと思いながら、川岸にたたずむ。そういうわびしい人生の中でも、神は必ずやって来る、神は必ずご覧になっている、必ず私たちを天の故郷へと連れ戻して下さる、そう信じていました。そしてそのことを神は、一人のもと祭司の息子エゼキエルに啓示されたのです。それが次の四つの奇妙な生き物の幻です。

2.ケルビムの顕現

今日の聖書箇所の1章には、ケルビムの姿がエゼキエルの目を通して克明に描かれています。「またその中には、四つの生き物の姿があった。その有様はこうであった。彼らは人間のようなものであった。それぞれに四つの顔を持ち、四つの翼をもっていた。足はまっすぐで、足の裏は子牛の足の裏に似ており、磨いた青銅が輝くように光を放っていた。また、翼の下には四つの方向に人間の手があった。四つともそれぞれの顔と翼をもっていた。」(1:5~8)

どんな動物にもたとえられないような、奇妙な姿をした生き物です。頭は四つの顔、人間、ライオン、牛、鷲の四つの顔を持っていて、対になった四つの翼があり、その翼の下に人間の手がありました。足はまっすぐで光を放っていたとあります。先週の水曜祈祷会でも、皆さんでいくらイメージしてもその姿が湧いてこないので困ったということになりました。

あえてイメージしますと、四つの顔を持ち、翼も二対で四枚の翼を持ち、手がその下からそれぞれ出ているのです。恐らく四本の手が出ていたと思われます。
そして足があり、足の裏も子牛の足の裏に似ているとエゼキエルは言っています。この生き物が四人いたわけです。そしてその延ばした翼が互いに重なり合っていたとありますから、正方形になるようにして囲んでいたのではないでしょうか。

そして更にこの四つの生き物の傍らには、地面に接して車輪が見えたと言っています。この車輪はまっすぐにしか進むことができません。更にこの車輪の外枠には目がつけられていたとあります。(1:15~18)おそらくこの生き物は、この車輪と共に、自由に移動することができ、どこへでも行って、すべてのことを見ておられるということを意味しているのではないでしょうか。

しかしこのエゼキエルの幻に表れた神は、神殿に限定されるのではなく、神はどこにでも行かれるし、どこででも私たちを見ているということです。ケバル川のほとりに顕現したケルビムは、更に大空の上の方におられるお方、御座におられる神御自身を指し示しています。1:26に「生き物の頭上にある大空の上に、サファイヤのように見える王座の形をしたものがあり、王座のようなものの上には高く人間のように見える姿をしたものがあった。」(1:26)、とあります。

このケルビムの上にある大空の更に上には、サファイヤのような御座がありそこにだれか人間の姿をした人が見えたと言っています。そしてそこからエゼキエルに御言葉が語られました。この御座は神の座であり、人間はこれを見ることができませんので、虹のように見えたとエゼキエルは言っています。(1:28)そしてそこから神の御言葉が聞こえてきました。

3.主に立ち帰る

エゼキエル18章にこの書のテーマとでもいうべき大事な御言葉が出ています。「罪を犯した本人が死ぬのであって、子は父の罪を負わず、父もまたこの罪を負うことはない。」(18:20)「悔い改めて、お前たちのすべての罪から立ち帰れ。罪がお前たちをつまずかせないようにせよ。お前たちが犯したあらゆる背きを投げ捨てて、新しい心と新しい霊を造り出せ。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。わたしは誰の死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って、生きよ。」(18:30b~32)

川の流れに身を委ねるためには、自分に死ななければなりません。自分がこうなったのはあの人のせいだと、人のせいにしていては神のもとに行くことはできません。相手の罪、相手の非を攻めているだけではまだ自分に死んでいません。真にこの目の前のバビロンの流れに身を委ねるためには、まず自分に死ななければなりません。自分がこうなったのは他でもない、自分の側に非があること、自分の罪を認めることです。

そして、そこで悔い改めることです。それは神の御言葉に従って、へりくだることです。御言葉に従うことです。川岸にまで自分から降りて行かなければなりません。あのナアマン司令官でさえ、裸になって、へりくだって、ヨルダンの川の水に七回自分を沈めました。七回ということは、完全に死んだということです。御言葉に従いました。そのとき彼は異邦人でありましたが、新しく造りかえられました。らい病がいやされました。(列王記下5章)これが川の流れに身を任せるということではないでしょうか。

神様はわたしたちが、自分の罪、自分の悪というものに気が付くために、時には苦しみや悲しみや、失敗、滅亡、捕囚という試練を与えられます。ですから今この捕囚の民となって、異郷の地でわびしく暮らしていることも、まったく意味のないこと失敗、無駄ということではないのです。それは自分の非に気が付き、自分の罪というものと向き合うための時でもあったのです。それがこのバビロンの川ケバルのほとりで、捕囚の民が静かに自分を振り返る時でもあったのではないでしょうか。

振り返ればはるか遠くに故郷が見える。それはあの神のエルサレム、シオンの丘でもあり、また天の故郷でもあったかもしれません。まさに生きることは旅そのものです。人生は終わりのない旅かも知れない、でも今この神の恵みの川の流れに身を任せて、やがてたどりつく天の故郷、神のエルサレムを目指して歩んで参りましょう。                   

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