ようこそ、富里キリスト教会の公式ホームページへ

ハンナの祈り (サムエル上1:12~20)

メッセージ

2014年5月11日富里キリスト教会

「ハンナの祈り」(2014)
(サムエル記上1:12~20)

1.悩みと嘆きと悲しみの果てに

エフライムの山地にエルカナと言う人がいました。彼には二人の妻があり、(当時は一夫多妻が認められていた。)一人はハンナ、そしてもう一人はぺ二ナと言いました。ハンナに子供ができなかったのでしょうか。エルカナは、もう一人の妻ぺ二ナを迎えて、子供をもうけました。毎年、シロの宮に上って主に礼拝を献げ、いけにえの動物の取り分を二人の妻に与えるのですが、子供の多いぺ二ナにはたくさんの取り分が与えられ、ハンナには一人分の取り分しか与えられませんでした。

更にぺ二ナは、ハンナを敵視して、ハンナをいじめたりのけ者にしようとしました。自分に子供ができないこと、相方の妻ぺ二ナのいじめといやがらせにハンナは鬱になるほどの心の状態になりました。家族全員の楽しいはずの宮参りが、ハンナにとっては悩みと苦しみの場以外の何物でもありませんでした。やさしい夫のエルカナは、ハンナを慰めますが、ふさぎ込んだハンナの顔は晴れることがありませんでした。

でも、1:5に「主はハンナの胎を閉ざしておられた。」と言う言葉があります。ハンナの体が弱いとか、そういう体質ではなく、神様がわざと子供ができないようにしていたと記されております。原因は、ハンナにあったのではなく、神様にあったのです。産ませなかったのは神様だったのです。なぜか、それは、主は、ハンナにもっと素晴らしい祝福を取っておいたからです。ぺ二ナはたくさんの肉の分け前をもらいましたが、ハンナは肉ではなく神の霊的な祝福を受けるために、子供が与えられていなかったのです。

そして主は、あえて彼女を悩みと苦しみの真っ暗闇に突き落とされたのです。その人生の悩みや苦しみ、暗闇と挫折の中から、それを通して神のあふれるほどの霊的な祝福を与えようとされたのです。肉の母になるのではなく、霊の母、霊的な祝福を授ける本当の命の母となるための伏線だったのです。もし今自分が、そういう人生の暗闇の中に、悩みと苦しみの真っただ中におられるのを感じておられる方は、もしかしたら、神様があえてそのような状況に置かれたのかもしれないと考えてみてはいかがでしょうか。

2.ハンナは立ち上がった

そして、本当につらい人生の中での、苦しみと嘆き、そして挫折と恥の只中に突き落とされ、光が見えずどうしてよいか分からない状況の中で、ハンナが取った行動とは何でしょうか。1:9を見てみましょう。「さて、シロでのいけにえの食事が終わり、ハンナは立ち上がった。祭司エリは主の神殿の柱に近い席に着いていた。ハンナは悩み嘆いて主に祈り、激しく泣いた。」とあります。

短い言葉ですが、ここに「ハンナは立ち上がった。」とあります。英語では「Hannah stood up」となっています。ハンナは陰湿なぺ二ナの攻撃と嫌がらせにいつまでも、めそめそと泣いてはいませんでした。彼女は、最も苦しく辛い時期の中で、そこから意を決して立ち上がったのです。誰にも解ってもらえない悲しみ、自分だけが敗北者のような、神に見捨てられてしまった様な生活の中で、来る日も来る日も人をうらやみ、自分を嘆き、自分の殻に閉じこもる生活に決別しようと決心しました。そういう彼女の心の変化を、「ハンナは立ち上がった。」という短い言葉にみることができるのではないでしょうか。

聖書を見ますと、「ハンナは悩み嘆いて主に祈り、激しく泣いた。」(10節)とあります。その祈りの様子は、心の中の悩み悲しみに体を震わせながら、激しく泣いて涙を流しながら、まるで酔っ払いが祈っているような激しい祈りでした。それでも声は出さずに、心の底から絞り出すような思いで唇だけを動かして、自分の心の中をすべて神様に注ぎ出して祈りました。そばにいた祭司エリも、ハンナの尋常でない祈りの様子に、この女は酒を飲みすぎて酔っぱらっているのではないかと思うほど、人目をはばからずに感情を露わに出して祈ったのです。

私たちは、どんなに追い詰められても、突き落とされても、もうだめだと思っても、最期には天の窓が開いています。私たちが立ち上がって、目を上に向けて神を仰ぎ見る道が必ず残されています(Ⅰコリント10:13)。普段の平凡な生活の中では経験できないような祈りの状況がそこにはありました。そして、神殿におられる神様は、そのような真剣な命がけの祈りを求めておられるのではないでしょうか。そうなるように、神様はハンナを追い込んだのではないでしょうか。(Ⅰペテロ4:13)

3.信仰による祈りの子

そしてこの貧しい一人の女性の祈りによって、一人の裁き人が生まれ、イスラエルの民が一つになり、一つの国を造り、神の王国の建設が始まったのです。神様は、この一人のか弱き女性のどん底からの祈り、嘆きと悲しみの中からの涙の祈りに、イスラエルの国の未来と基礎を置いたのです。このハンナの祈りによって、あのダビデ、ソロモンと続くイスラエルの王国の基礎が築かれたのです。ここに王国の起源があったのです。

つまり、神の国とは、祈りによってもたらされる国であるということです。祈りを基礎とした国、これがあのイスラエルの真の姿であり、この祈りの民に神の祝福が受け継がれるようにされたのでした。ハンナは夫エルカナに助けを求めたのでも、祭司エリに助けを求めたのでもなく、ただ一人神に向かいました。神の前に立って、神に祈り求めたのです。この一人の母の信仰の祈りによって生まれる子が、神の国のリーダーとなり、真の神のイスラエルを治める王となって行く姿だということを示したのです。神様は、私たちが祈りによって多くの子供を生み出す教会になることを願っておられます。祈る群れ、祈る母の姿、これが母なる教会の姿です。

ハンナは、子供が欲しいから祈ったのでしょうか。そうであれば、もし子供ができなかった場合には、彼女は信仰を失ってしまうかもしれません。あるいは祈りが聞き届けられて、有頂天になってそれで終わってしまったのかもしれません。でも、そうではありませんでした。彼女は祈っている間に、祈りながら神の存在とその確かな約束を信じたのでした。たとえまだ、妊娠の兆候はなくても、彼女の心の中には、神様の御言葉に対するゆるぎない確信が与えられたのです。祈りの中で信仰が強められ、成就すると確信したのです。

ハンナの心は祈っている間に変えられました。今までは、何とか子供をくださいと必死に祈っていましたが、最期には祭司エリから「安心して帰りなさい」と言われた時に彼女はこう言いました。18節「ハンナは『はしためが御好意を得ますように』と言ってそこを離れた。それから食事をしたが、彼女の表情はもはや前のようではなかった。」とあります。祈った後で、彼女の心の中には喜びと感謝と平安が与えられたのです。あの暗い顔の女が、別人のように輝いた顔になったのです。依然と全く違う顔になっていました。

ハンナは祈りの中で変えられました。主に出会いました。自分の願いを何が何でも通そうという信仰ではなく、神の前にへりくだって、神の御心が自分の上になりますようにと言う祈りに変えられたのです。祈りの中で、神の存在に触れ、神の約束を信じることができました。彼女自身が変えられたのです。神に信頼を置く人に変えられました。「彼女の表情はもはや前のようではなかった。」とあります。

4.祈りの子は主に返します。

信仰の祈りによっていただいた子は、自分の子供ではありません。まさに神からの賜物です。ですから、これを神にお返しすることもまた信仰の出来事です。たとえ自分の一粒種の、目に入れても痛くないほどのわが子でありましても、神様が下さった子ですから神にお返しするのが筋だと彼女は考えました。そして、サムエルが乳離れしてから、再び宮に行って、わが子を主に献げたのです。いわばわが子を、幼くして出家をさせたのです。

1:27「わたしはこの子を授かるようにと祈り、主は私が願ったことをかなえてくださいました。わたしは、この子を主にゆだねます。この子は生涯、主にゆだねられた者です。」と言いました。神様からいただいたものだから神に帰すと告白したのです。まさに彼女の信仰とその生き方は、あの祈りの時以来変わりました。「神は生きておられる。神は願いを必ず聞いてくださる。人は自分の力によって勝利するのではなく、命を与えたもう主の力によって勝利する。」という確信が与えられたのです。

そしてあんなにかわいがっていた一人息子サムエルを神に捧げました。なぜなら、神からいいただいた子だから神に帰すは当然だと思ったからです。自分の一番大事なものを主に献げたのです。そして、サムエルの生涯を、いやサムエル自身を主の御手にゆだねたのです。このハンナの献身と信仰をご覧になられた神様は、さらに彼女に三人の息子と二人の娘という豊かな祝福を与えられました。

私たちもハンナと一緒に立ち上がりましょう。たとえどんな迫害や苦しみ嘆き、困難の中にあっても、主は私たちが祈りに立ち上がることを待っておられます。そして、この世の物とは比較にならないほどの霊の子供と恵みの賜物を与えようと待っておられるのです。苦しければ苦しいほど、辛ければ辛いほど祈りという恵みと祝福の道が開かれています。           (岡田 久)

powered by Quick Homepage Maker 4.50
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional