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ナボトのぶどう畑 (列王記上21:17~29)

メッセージ

2012年9月9日富里キリスト教会
「ナボトのぶどう畑」
(列王記上21:17~29)

1.はじめに

列王記上21:1から読んでみましょう。
「これらの出来事の後のことである。イズレエルの人ナボトは、イズレエルにぶどう畑を持っていた。畑はサマリヤの王アハブの宮殿のそばにあった。アハブはナボトに話を持ちかけた『お前のぶどう畑を譲ってくれ。わたしの宮殿のすぐ隣にあるので、それをわたしの菜園にしたい。その代り、お前にはもっとよいぶどう畑を与えよう。もし望むなら、それに相当する代金を銀で支払ってもよい。』ナボトはアハブに、『先祖から伝わる嗣業の土地を譲ることなど、主にかけて私にはできません。』と言った。アハブは、イズレエルの人ナボトが、『先祖から伝わる嗣業の土地を譲ることはできない』と言ったその言葉に機嫌を損ね、腹を立てて宮殿に帰って行った。寝台に横たわった彼は顔を背け、食事もとらなかった。」(列王記上21:1~4)

2.境界線問題(土地の真の所有者は神)

このナボトのぶどう畑があったイズレエル平原という所はすばらしいところです。あの砂漠地帯のパレスチナにあっては草木が生い茂る青々とした肥沃な土地で、イスラエルの穀倉地帯になっています。(イズレエル=「種を蒔く」と言う意味)日本で言いますと、ぶどうの産地、山梨の甲府盆地のようなところです。そこにナボトという土地の有力者で、立派なぶどう園を持っている人がいました。たまたま、そのぶどう園が北王国の王アハブの別荘の隣にありました。おそらくアハブが、ぶどう園に立派に実ったぶどうを見ているうちに、何とか自分のものにしたいと思ったのでしょう。ナボトに、そのぶどう畑を譲ってくれないかと持ちかけました。

ところが、イスラエルでは土地の売買を禁ずる掟がありました。レビ記25:23節(P203)から読んでみましょう。「土地を売らねばならない時にも、土地を買い戻す権利を放棄してはならない。土地はわたしのものであり、あなたたちは私の土地に寄留し、滞在する者に過ぎない。・・・しかし、買い戻す力がないならば、それはヨベルの年まで、買った人の手にあるが、ヨベルの年には手放されるのでその人は自分の所有地の返却を受けることができる。」

ですから、いくら王様と言えども、またいくら良い条件で売ってくれないかと言われても、イスラエルの民ならば、この掟に従ってそうたやすくは先祖からの土地を手放すことは許されていませんでした。今読みました23節に「土地は神のものであり、あなたがたその寄留者に過ぎない」と言っています。たとえ、事情があって土地を売らなければならない時でも、7年を七回重ねた50年目のヨベルの年には、土地も奴隷もすべて元の所有者に帰さねばならないという掟がありました。それは人間が土地を所有して、金持ちになったり支配者になったりして、手放した同胞を搾取することのないようにと神が定めたものでした。

ナボトはそのことを知っていましたから、彼の信仰のゆえに、畑を売却しようとはしませんでした。そしてアハブ王もそのことを知っているにもかかわらず、この掟を破って、他人のしかも同じ同胞の土地を買収しようとしたのです。実は、この「掟」と言う言葉と「境界線」と言う言葉は、ヘブライ語ではどちらも「ホーク」(=    )と言う同じ言葉です。隣人の境界線を破って、土地を自分のものにしようとすることは、実は神の掟をも破っていることになるのです。土地の真の所有者は、本来神だからです。

ここから教えられることは、まず、隣の人のものを欲しがらない、隣人の家をむさぼらないということです。隣の芝生は良く見えるものです。そして、たとえ王様でもイスラエルの主の前には、同じ一人の人間であり、信仰者の一人に過ぎないということを肝に銘じる必要があります。王であっても、他人の土地を欲しがりむさぼってはいけないのです。それは神の領域を犯すことになるのです。他者に対する侵犯ではなく、神への侵犯、人間の思い上がりによる越権行為だということです。

3.異教の妻イゼベルのいじめ

25節に「アハブのように、主の目に悪とされることに身をゆだねた者はいなかった。彼はその妻イゼベルに唆されたのである。」とあります。神を神として恐れもせず、夫である王の権力を傘に着て、自分たちの思いのままにむさぼりを起こさせたのです。イゼベルはこう言いました。7節「今イスラエルを支配しているのはあなたです。起きて食事をし、元気を出して下さい。わたしがイズレエルの人ナボトのぶどう畑を手に入れてあげましょう。」と。

それで彼女はどうしたかと言いますと、国王の名で、イズレエルの町に住んでいる長老や貴族に手紙を書き、ならず者を二人使って偽りの証言をさせました。それは、ナボトが神と王を呪ったというのです。そして、ナボトを石打の刑で公然と合法的に処刑してしまいました。そして、この知らせを聞いたアハブは、喜んでナボトのぶどう畑に行って、自分のものにしようとしました。

彼らの犯した罪をあげると次のようになります。①.神が自分に与えた宮殿で満足せず、目を隣りの持ち物に奪われてしまったこと。②.隣人のものを欲しがったこと。③.手に入らないと子供のように腹を立てたこと。④.妻イゼベルの虚偽の策略を容認したこと。⑤.妻を通して正しい人を殺したこと。⑥.ならず者や町の人々の手を使って殺人を犯したこと。⑦.断食と言う宗教的手段を用いて、神の名を悪用したこと。⑧.他人のものをむさぼって手に入れたこと。これらはすべて、アハブの犯した罪です。

イゼベルが自分で手を下さないで、他人の手を使って誰にも知られず、うまくナボトを殺してしまったように、学校でも自分の手を使わないで、弱い同級生の命を死へと上手に追い込んで行っているのです。特に狙われるのが、このナボトのように正しい生徒です。そして残念ながら現代は、そういう正しい人が迫害を受け殺される時代です。今までなんと多くのナボトが殺されてきたでしょう。今も彼らの血の叫び声が、土の中からアベルの声と一緒に叫んでいるような気がします。「いじめをやめさせてくれ!早く神を信じる者が起こされて、こんな悲惨なことがない世界にしてくれ!」と。

そしてこのいじめの根本的な解決は、やはりすべての人が神に造られたものであり、どんな人間でも神の前にあって生きる価値があるということを、お互いに認め合うところから始まると思います。福音が宣べ伝えられなければ、根本的な解決の道はありません。すべての罪人が神の元に立ち帰らなければ、真の問題解決はありません。この人間の罪の現実を訴え、罪に勝利するキリストの十字架の救いを宣べ伝え証しをするのが、世にある教会の使命ではないかと思います。

4.アハブ王のへりくだり

最後に、あの悪王アハブが、主の前にへりくだったという出来事を述べて終わりにしたいと思います。アハブは、ナボトのぶどう畑を自分の所有にしようと出かける途中で、宿敵エリヤに会います。エリヤは、アハブに会って、その悪行のゆえに神の災いが下るということを告げるように言われておりました。そして、途中でアハブにあって神の災いが下ることを言い渡します。「あなたは人を殺したうえに、その人の所有物を自分のものにしようとするのか。・・・わたしはあなたの上に災いを下す。アハブもイゼベルも、町で死ねば犬に食われ、野で死ねば空の鳥の餌食となる。」(21:19、23、24)と告げました。

ところがあの悪王アハブが、この神の怒りの言葉を聞くと、主の前にへりくだり、悔い改めたのです。そこを読んでみましょう。21:27~29です。「アハブはこれらの言葉を聞くと、衣を裂き、荒布を身にまとって断食した。彼は荒布の上に横たわり、打ちひしがれて歩いた。そこで主の言葉がティシュべ人エリヤに臨んだ。『アハブがわたしの前にへりくだったのを見たか。彼がわたしの前にへりくだったので、わたしは彼が生きている間は災いを下さない。その子の時代になってから、彼の家に災いを下す。』」

あの悪王、あれほどの大それた悪を行っていながら、エリヤの預言の言葉を聞いて彼は主の前にへりくだったのです。主の御言葉を聞いて「衣を裂き、荒布をまとって断食し、荒布の上に横たわって、打ちひしがれて歩きました。」(21:27)とあります。

主は、アハブがわたしの前にへりくだったのをお前は見たか、とエリヤに告げています。神様は、アハブのへりくだりと悔い改めがよっぽど嬉しかったようです。主は、決してこの人はもうだめだ、救われないとあきらめてしまうようなお方ではありません。どんな罪を犯していても、手が付けられないほどの極悪人でありましても、救いようのない人間でもありまして、決してあきらめることなく、預言者を遣わし、執拗に裁きと罪の悔い改めの言葉を語り続けておられます。

罪の悔い改めとへりくだることが、どんなに大切なことであるかが述べられています。私たちの心の中に内なるアハブ王はいませんか。自分の力を頼り、自分の支配力を強め、人のものを欲しがり、自分のものにしたいという欲望とむさぼりの心はないでしょうか。いつの間にか人を、苦しめたり、死へと追い込んでしまったりしていることはないでしょうか。傲慢さとこの世の欲の罪を悔い改めて、主の前にへりくだる者でありたいと願っています。   (岡田 久)

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