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ナオミの子 (ルツ4:1~17)

メッセージ
2019年9月29日富里キリスト教会
「ナオミの子」
(ルツ記4:1~17)
1. 贖いの責任

今朝は、ルツを自分の妻として迎え、エリメレクの家名を存続させてくれることを約束したボアズが、自分よりも結婚の優先権のある同じ親族の男性と、エリメレクの土地を買い取るかどうかについて交渉する場面です。結婚の約束はしたボアズでしたが、自分よりも優先順位が上の人がいましたので、その人がどうするかということを伺ってからでないと正式にルツを妻として迎えることはできませんでした。

「『モアブの野から帰ってきたナオミが、わたしたちの一族エリメレクの所有する畑地を手放そうとしています。それで私の考えをお耳に入れたいと思ったのです。もしあなたに責任を果たすおつもりがあるのでしたら、この裁きの座にいる人々と民の長老たちの前で買い取って下さい。もし責任を果たせないのでしたら、わたしにそう言ってください。それならわたしが考えます。責任を負っている人はあなたのほかになく、わたしはその次の者ですから。』『それではわたしがその責任を果たしましょう。』と彼が言うと、ボアズは続けた。『あなたがナオミの手から畑地を買い取るときには、亡くなった息子の妻であるのモアブの婦人ルツも引き取らなければなりません。個人の名をその嗣業の地に再考するためです。』すると親戚の人は言った。『そこまで責任を負うことは、わたしにはできかねます。それではわたしの嗣業を損なうことになります。親族としてわたしが果たすべき責任をあなたが果たしてくださいませんか。そこまで責任を負うことはわたしにはできかねます。』」(ルツ4:3~6)

いちばん近い親戚の者が、エリメレクの畑を買いあげる権利がありました。そしてその人は、土地だけだったら自分が買いますと申し出ました。すると、ボアズは土地だけではなく、長男息子の未亡人であるルツも一緒に引き取って自分の妻にして、子供ができた暁には、その子にエリメレクの名を継がせて土地を返さなければなりませんと進言しました。これは、家名を残すために親戚の者が、土地も妻も全部引き取って、その家の家名を存続させる必要があったのです。当時は女性は家名を継ぐことができませんでしたし、養子を取るという制度もなかったのです。

ですからその土地を買い取るものは、将来的には、自分のこどもではあるが、エリメレクという名前を付けて、エリメレク家の存続を世話してやらなければなりませんでした。このことを聞いた親戚の人は、自分の嗣業もなくなってしまうと思ったのか、割の合わない契約だと思って、早々に手を引きました。土地だけでしたら、自分の所有になるわけですが、亡くなった夫の妻も引き取って、最後にはその子供に前の夫の名前を付けて返さなければならないような制度だったのです。ですから、下手したらわたしの方が損をしてしまう、割の合わない買い物だと思ったのでしょうか贖いの責任を放棄しました。

皆さんはどうされますか、家名を継ぐという責任を果たされますか。この聖書では「責任を果たす」とか「責任を負う」となっていますが、口語訳聖書では、「贖う」、新改訳では「買い戻す」となっています。贖うという言葉が使われています。英語の聖書では、redeem(贖う)という言葉を使っています。この贖うという言葉は、聖書の中では一番大事な言葉です。つまり、イエス・キリストの十字架による人間の罪の贖いの時に使います。キリストは贖い主です。Redeemerなのです。

つまり、自分の罪の故に人生に失敗してしまった人、落伍者、破産者、身寄りも子供もない者、もう落ちぶれて、行倒れになって、死を待つしかない人々を、元どおりに回復復元してくれるというのが、贖うという意味です。貧しさのゆえに身を売らなければならなくなった女性を、その悲惨な状況の中から大金をもって買い戻してくれることを言います。身売りした人を買い戻すという意味です。そして親戚の者は、そういう責任を持っている者なのです。

生活ができなくなった同胞、事業に失敗してしまった親族、外国に出稼ぎに行ったはいいが、無一文で帰ってきた人。夫も息子もなくして、まさに敗北者、負け組として帰ってきた人々。そういう人の救いのために、犠牲を払ってその人の家と名誉を回復させてくれる人、それが贖う人です。それが買い取る責任を負っている親族の者です。同じ親族ですから、身内のために自分を犠牲にして身分を回復してあげることを贖うと言います。そういう責任を親族の者は持っているわけです。そういう責任を同胞は持っているのです。名を絶やさないということです。

皆さんそう言う責任を感じているでしょうか。自分の親族の不幸な境遇を、わが身のこととして受け止めて、その人のために犠牲を払ってまでも、贖いの責任を果たそうという気持ちをお持ちでしょうか。先週の金曜日に男性SGでローマ書を学びましたが、パウロはこう言いています。「わたしには、ギリシャ人にも未開の人に、賢い者にも無知な者にも、果たすべき責任がある。」(ローマ1:14)また「実際、わたしの兄弟、肉による同族の為なら、わたしのこの身が呪われ、キリストから離されてもいとわない。」(ローマ9:3)と。

ボアズはこの没落した憐れな自分の親族の一家に、犠牲を払って、自分が身受け人となり、他人であるエリメレクの名を復興するために、その畑と長男の妻ルツを引き受ける決心をしました。彼らを見過ごすわけにはいかない、何とかして救う義務と責任があると感じたのです。彼らの名前を残さなければならない。これは神の民であるということの名前です。天国に記された名前です。天の国に記された名前が消えかかっている人はいませんか?バプテスマを受けても聖書も読まない、教会にもいかない、天に記された聖なる名前が消えかかっていませんか?

生活のために信仰から離れてしまっている人、生活のためにイエス様を忘れている人、そんな人のためにわたしは何でもする。その人にわたしの果たすべき責任があるとパウロは言っています。そして律法の定める規則に従って、ボアズはその責任を負ったのであります。彼はこう言いました。「また、わたしはマフロンの妻であったモアブの婦人ルツも引き取って妻とします。個人の名をその嗣業の地に再興するため、また個人の名が一族や郷里の門から絶えてしまわないためです。」(4:9~10)と言いました。わたしたちも同じ責任を持っていませんか?

2.信仰の継承と最終的な贖い主イエス・キリスト

こうしてボアズは、無事ナオミと祝福のうちに結婚を果たします。そして高齢と言われていたボアズでしたが、13節にありますとおり、「主が身ごもらせたので、ルツは男の子を産んだ。」とあります。この結婚と子供の誕生に際して、町の人々は祝福の言葉を投げかけました。さらに町の女たちはこう言ってナオミを祝福しました。

「主をたたえよ。主はあなたを見捨てることなく、家を絶やさぬ責任のある人を今日お与えくださいました。どうか、イスラエルでその子の名があげられますように。その子はあなたの魂を生き返らせる者となり、老後の支えとなるでしょう。あなたを愛する嫁、七人の息子にも勝るあの嫁がその子を産んだのですから。ナオミはその乳飲み子をふところに抱き上げ、養い育てた。近所の婦人たちは、ナオミに子供が生まれたと言って、その子に名前を付け、その子をオベドと名付けた。オベドはエッサイの父、エッサイはダビデの父である。」(4:14~17)

最終章では、主人公のルツはあまり登場してきません。むしろ、姑のナオミの姿が生き生きと喜びの中で描かれています。このオベドの誕生は、ルツに対する祝福よりもむしろ、ナオミに対する祝福として述べられています。確かに、ルツをここまで助け導いたのは、姑ナオミの知恵と信仰によるものでした。この本の題はルツ記とはなっていますが、ナオミがルツにイスラエルの神の信仰を証し、異邦人の嫁に伝道することによって、ルツが救われ従ってきました。

ルツにとりましてもナオミにとりましても、すべては信仰による出来事の中で起こりました。そして二人を結んでいたのも主に対する信仰です。ルツはこれから幸せな生活を送ることでしょう。でもその本当の幸せ、喜びとはいったい何かということを証しているのがナオミの生涯だったのではないでしょうか。

生活のために故郷を離れ、異国の地で三人の大切な人に死なれ、全くの手ぶらで空しい帰還を果たしたナオミにとって、このオベドの誕生は、何にも代えがたい喜び幸せだったのではないでしょうか。それはただ単に後継ぎができた、夫エリメレクの名が残せるということだけではなく、彼女の人生そのものが信仰の勝利、主にあるところの真の幸せというものを物語っているような気がします。長い人生と信仰生活の中では、誰でも愛する人との死別、事業の失敗、災難、苦難が襲ってきます。生活苦で信仰生活がおろそかになることがあります。そういう中での出来事なのです。

ルツよりも一番喜んだのは、ナオミの方でした。孫オベドの誕生はナオミにとっては、「自分の魂を生き返らせてくれるもの」であり、「老後の支えとなるものでした。」ナオミもボアズもルツも、この子供の誕生の中に、自分たちの家族だけではなく、イスラエルの神の大きなご配剤と御計画と憐みを感じていたのです。
この一人の孫の誕生は、その悲しみと苦しみをも乗り越えさせてくれるほどの大きな喜びでした。ナオミはこの出来事の中に、神様の大きな救いの御計画を見ていたのではないでしょうか。

まるで自分の子供のように、その子を養い育てる姿を見て、それはまるでナオミの子供のように映ったのではないかと思います。あの年老いた女性が、一人の新しい命を抱き上げ、それを大切に育て上げる姿に、人々は神様の大きな恵みと祝福を見ていました。単なる後継ぎではなく、信仰の継承者として、孫を抱き上げ養い育てたのです。信仰の孫をおばあさんが、霊的に養い育てた、それが「ナオミはその乳飲み子をふところに抱き上げ、養い育てた。」という言葉です。

詩編の言葉に「主はお前の罪をことごとく赦し、病をすべていやし、命を墓から贖い出してくださる。慈しみと憐みの冠を授け、長らえる限り良いものに満ちたらせ、鷲のような若さを新たにしてくださる。」(詩編103:3~5)「わたしはあなたたちの老いる日まで、白髪になるまで、背負って行こう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す。」(イザヤ46:4)

主の御言葉は真実であり、決してわたしたちを見捨てることはないということです。この祝福と恵みは、ナオミの家族だけにとどまらず、ダビデの誕生によってイスラエル全体の祝福へとつながり、やがてダビデ王国の繁栄につながり、そしてベツレヘムの幼子イエス・キリストの誕生へとつながる物語だったのです。まさに神様ご自身が、わたしたちを担い背負い、責任を取って最後まで持ち運んでくださるお方だということです。わたしたちには、最後の最後まで最終責任を取って下さるお方がいるのです。それがイエス・キリストです。彼こそわたしたちの最も近い親戚です。わたしたちの霊的な長男です。

このお方は十字架の上で、御自身の命を捧げるほどに、責任を取って下さいました。このお方の贖いの責任によって、わたしたちは今日あるを得ております。このイエス・キリストの十字架の上での大いなる責任のゆえに、わたしたちも同じ家族や親せきや友人のために、その責任を果たしてゆく出来ではないでしょうか。たとえ失敗しても、最後にはイエス様がわたしたちの失敗や挫折の責任を取って下さるのですから、わたしたちは何の心配もしないで、この方を宣べ伝えてゆきたいと願っております。最終的な贖い主、最後の最後まで責任を取って守り支えて下さるイエス・キリスト様に、心からの感謝と賛美をささげましょう。
(岡田 久)

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