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ダニエルの祈り

2009年3月22日富里教会
        「ダニエルの祈り
                (ダニエル書9:15〜23) 

1. 祈りの人ダニエル

ダニエルは自宅でどんな祈りをしていたのでしょうか。ダニエル書6:11を見てみましょう。
「ダニエルは王が禁令に署名したことを知っていたが、家に帰るといつものとおりニ階の部屋に上がり、エルサレムに向って開かれた窓際にひざまずき、日に三度の祈りと讃美を自分の神にささげた。」とあります。 

ダニエルは毎日、決まった時間に決まった場所で祈っていたみたいです。その決まった場所は二階にありました。これは自分が一人になれる場所という意味です。一階は茶の間があったり、テレビがあったり、家族がいて祈る雰囲気ではありません。ですから、まず祈るためには日常から抜け出る時間と場所を見つけることです。「私は個室がないので、一人になるときはいつも車の中で祈っていました」とおっしゃっておられる方がおりました。イエス様も「朝早く、夜の明けるよほど前に、起きて寂しい所へ出て行き、そこで祈っておられた。」(マルコ1:35)とあります。

もう一つ、ダニエルは「ひざまずいて」祈りました。皆さんはどんな格好でお祈りしているでしょうか。イスに座って手を組んで、あるいは座布団に座ってとか、いろんな祈りの姿勢があります。でも、ひざまずいて祈る時、神様の前に身を投げ出して祈ることができます。また、ダニエルは日に三度祈りました。おそらく朝と午後3時の祈りと夜の祈りではないでしょうか。皆様方は日に何度お祈りをしているでしょうか。しかも、祈りだけではなく讃美もささげました。私もマンション住まいの時には、あまり大きな声を出すことができませんので、車に乗って、近くの公園に行ってそこで讃美をしたりしていました。今は、こうして会堂に住んでいますので、いつでも讃美ができますことは感謝です。
この6:11を見ますと、ダニエルがどのようなかっこうで、どのようにして祈っていたのか、その様子が目に浮かんでくるような気がします。
 
2. どんな祈りがきかれるか
さて、どんな祈りが聞かれるのかということです。
9:3〜4を読んでみます。「わたしは主なる神を仰いで断食し、荒布をまとい、灰をかぶって祈りをささげ、嘆願した。私は主なる神に祈り、罪を告白してこう言った」とあります。そして、このあと神様に対して、4節から15節まで連綿と罪の悔い改めの祈りが続いています。「私たちは罪を犯しました。御言葉に聞き従いませんでした。罰を受けるのは当然です。」そのことを、何度も何度も繰り返し、神様の前に告白しています。ダニエルは、神の前にも王の前にも正しい人であったにもかかわらず、自分の先祖、イスラエルの王や指導者たちの犯した罪の数々について熱心に悔い改めの祈りをしたのです。 

私たちが熱心になっていいのは、この悔い改めをするときには熱心になっていいのです。黙示録3:19にもこうございます。「すべてわたしの愛している者を、わたしはしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって悔い改めなさい。」自分の願いをかなえるための熱心ではなく、悔い改めるための熱心です。これが神様にきかれる祈りです。罪の悔い改めが伴わないならば、どんなに熱心であっても祈りは神様に届かないかもしれません。

次にダニエルは、神様に嘆願、願い事をささげております。9:18に「神よ、耳を傾けて聞いてください。目を開いて、わたしたちの荒廃と、御名をもって呼ばれる都の荒廃とを御覧下さい。私たちが正しいからではなく、あなたの深い憐れみのゆえに、伏して嘆願の祈りをささげます。」エレミヤの預言を通してダニエルは、エルサレムの回復が70年後であるということを知りました。そして主なる神様に罪の告白を持って、都エルサレムの回復を嘆願したのです。嘆願とは、事情を詳しく訴えて、一心に頼むことだそうです。嘆願書のような祈りです。また、ダニエルが言っているように、私たちが正しいからというのではなく、罪人に過ぎない者だからこそ祈ることが許されているのです。ただ、神様の憐れみによって祈ることができるのです。

3.答えられた祈り

このダニエルの罪の告白を前提とした願いは、ただちに神様の元に届きました。ここに、本当に不思議ですが、祈りがなされ、それに対して神がどのように答えられたかが、絵を書くように述べられています。(9:21〜23)
「こうして訴え祈っていると、先の幻で見た者、すなわちガブリエルが飛んで来て近づき、わたしに触れた。それは夕べの献げ物のころのことであった。彼は、わたしに理解させようとしてこう言った。『ダニエルよ、お前を目覚めさせるために来た。お前が嘆き祈り始めた時、御言葉が出されたので、それを告げに来た。お前は愛されている者なのだ。このみ言葉を悟り、この幻を理解せよ。』」

また、次の10章12節にも、同じような御使いの言葉があります。「ダニエル、恐れることはありません。あなたが悟ろうと心を決め、神のみ前でへりくだろうと決心したあの最初の日から、あなたの祈りは聞かれています。」(現代訳)。つまり、祈りがきかれる瞬間、それは私たちが主の前に自分の罪を告白し、主の前にへり下った瞬間に祈りがきかれているのです。神様の前に罪を悔い改めへりくだって祈り始めたその時から、祈りがきかれ始めるのです。ここが祈る時のポイントではないでしょうか。

私たちも熱心に悔い改めて祈りましょう。主の前に謙遜になり、へりくだって祈りましょう。正しいから祈るのではありません。本当に取るに足らない罪人の私でさえ、こうして天地万物を支配しておられる神様に祈ることが許されているのです。主はそのような悔い改めと謙遜な祈りを軽んじられません。その祈りが捧げられた時から、私たちの祈りがきき届けられています。これがきかれる祈りです。このダニエルに対して主は「お前は愛されている者なのだ」(9:23,10:11,19)とおっしゃいました。神様に愛されている皆さん、教会の祈祷会に集まって祈りましょう。

教会は祈りの家です。私たちは聖なる神殿であり、一人一人が祈りの宮です。私はこの富里教会の会堂に始めて足を踏み入れた時に、祈りの霊を感じました。
皆さん方の祈りが、この会堂を通してなされ、主の業がなされてきたんだなあと感じました。また自分の部屋で、神様の前に心を向け、ひざまずいて祈ろうではありませんか。自分の罪を熱心に告白しましょう、主の前に心を低くしてへりくだりましょう。そのような祈りは必ずきかれます。その瞬間から私たちの教会に、何かが起こり、神の御業が始まってゆくのではないでしょうか。
                                                岡田 久

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