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ダニエルの四つの祈り (ダニエル9:3~9、17~24)

メッセージ
2016年11月20日富里キリスト教会

「ダニエルの四つの祈り」
(ダニエル書9:3~9、17~24)

1.たとえそうでなくとも

「たとえそうでなくとも」と言うことは前回もお話をしました。金の像を拝まなければ、燃え盛る炉の中に投げ込むと脅された三人の若者たちの祈りです。彼らは、神様はどんな災難からも、たとえ火の中であっても水の中であっても、わたしたちを救い出して下さると信じていました。そしてたとえ神様が自分たちを火の中から救ってくださらなくても、自分たちは決して金の偶像を拝むようなことはしないという固い信仰の決意を表明したことばです。

わたしたちはともすると神様と取引をしてしまうことがあります。火の中から救い出してくれたら信じよう。自分たちの願いが叶ったら、神様にお礼をしようというような信仰です。一種の御利益信仰です。でも本当の信仰の祈りと言うのは、たとえ自分たちの願いがかなえられなくても、望み通りにならなくても、それでもわたしは唯一の主なる神を信じますと言う祈りです。

「わたしたちのお仕えする神は、その燃え盛る炉や王様の手からわたしたちを救うことができますし、必ず救ってくださいます。そうでなくとも、ご承知ください。わたしたちは王様の神々に仕えることも、お建てになった金の像を拝むことも、決していたしません。」(3:17~18)と三人は言いました。

結果がどうであろうが、たとえ願いどおりにならなくても、自分の希望がかなえられなくても、自分の行くべき道が閉ざされたとしても、それでも感謝しますと言う祈りです。何かをして下さった神を信じるのではなく、大事なことは神様がいつもわたしのそば近くにいて下さることの故に感謝しますと言う祈りです。実際、三人が投げ込まれた炉の中にも、主は共にいて下さいました。そして彼らを守ってくださって、髪の毛や衣服すら損なうことはありませんでした。

2.ひざまずいて日に三度祈る

6:11を読んでみましょう。「ダニエルは王が署名したことを知っていたが、家に帰るといつもの通り二階の部屋に上がり、エルサレムに向かって開かれた窓際にひざまずき、日に三度の祈りと賛美を自分の神にささげた。」とあります。
家に帰るといつもの通りとありますから、ダニエルは自分の家での祈りを大切にしていました。それはルーティ―ンのように、決まった行動です。しかもエルサレムの方角に窓を開いて祈りました。わたしたちはどこを向いてもあまり関係ないと思いますが、当時は神殿には神様がおられますから、エルサレムの神殿に向かって祈りました。言い変えます、神様に向かって自分の心の窓を開いて祈ったと言ってもいいのではないでしょうか。たとえ、窓がなくても、わたしたちは祈る時に、自分の心の窓を神様に向けて祈りたいものです。神と相対すると言うことです。祈りは神様との対話ですから、自分の語りかける相手を意識して、そのお方に向かって祈ることです。

この時、ダニエルはひざまずいて祈りました。わたしも座って祈ったり、立って祈ったりしますと、どうしても身体の余分な所に力が入っているような気がしまして、最近はイスを使って、そのそばに膝をついて体を椅子にかぶせるようにして祈ることにしています。そうしますと、少しは体を神様に委ねて祈るような気がしまして、楽に祈ることができます。また長く祈ることもできます。ある教会では祈る時に、大人も子供も、イスラムの人たちが祈るように、ひれ伏して床に顔をつけるようにして祈っていたのを覚えております。

そしてダニエルは一日に三度祈りました。ユダヤの習慣では、先に夜が来ますので、わたしたちのように、朝、昼、晩の順番ではなく、晩、朝、昼となります。夜の祈りが最初のお祈りです。そして朝の祈りが二番目の祈りで、午後の祈りが最後の祈りになるわけです。わたしたちが日に三度ご飯を食べるように、ダニエルたちユダヤ人は、日に三度の祈りを持って霊的な糧としていました。

そしてダニエルは、祈るだけではなく、神様を賛美することも忘れませんでした。まず賛美しながら、神様のそばに近づいて行き、そしてそれから主に祈ります。いきなり祈るよりは少し、静かな時を持ったり、心を整えて神様の前に出るような心準備をしたのではないでしょうか。また祈りを聞いて下さったことに感謝して、祈りの後で主に感謝と賛美の祈りを献げるのもいいのではないかと思います。

3.罪の告白

話を少しダニエルの方に戻しますが、祈りの第三の要素として大事なのは、罪の告白の祈りです。ダニエルは、この9章で自分の罪、先祖の罪に対して心からの告白と悔い改めを持って祈っています。自分が正しい、自分は間違っていない、だから主よ、こうして下さいと言うのは、正しい祈りではありません。
いかがですか、皆様方は祈る時に自分の罪の告白をして祈っているでしょうか。罪の告白と悔い改めのない祈りは、神様への押し付けの祈りです。何でもかんでも自分の要求を通すような祈りです。主役は神様ですから、自分の願望を通す祈りではなく、自分の罪をも告白する祈りとなって行かない限り、主の耳には届かないような気がします。

「わたしは主なる神を仰いで断食し、荒布をまとい、灰をかぶって祈りをささげ、嘆願した。わたしは主なる神に祈り、罪を告白してこう言った。」(9:3~4)と言って祈り始めています。(9:8~9、13~14、20を読む。)

祈る時、人は誰でも、自分の罪を隠したり、誰か他人のせいでこうなったのだと責任転嫁をすることなく、自分の心の内側の真実を打ち明けなければなりません。心を隠したままで、手を伸ばして自分の欲しいものだけを願うのは、おねだりの祈りです。御利益信仰です。そのような祈りに主は答えて下さるでしょうか。

4.主の御言葉を求める祈り

最後の四番目の祈りは、神様の御言葉を求める祈りです。神様との対話と言いますか、祈った時に神様が御言葉を語りその御言葉を聞くことができる祈りです。9:20から見てみましょう。
「こうしてなお訴え、祈り、わたし自身とわたしの民イスラエルの罪を告白し、わたしの神の聖なる山について、主なるわたしの神に嘆願し続けた。こうして訴え祈っていると、先の幻で見た者、すなわちガブリエルが飛んできて近づき、わたしに触れた。それは夕べの献げ物のころのことであった。彼は、わたしに理解させようとしてこう言った。『ダニエルよ、お前を目覚めさせるために来た。お前が嘆き祈り始めた時、御言葉が出されたので、それを告げに来た。お前は愛されている者なのだ。この御言葉を悟り、この幻を理解せよ。お前の民と聖なる都に対して、70週が定められている。それが過ぎると逆らいは終わり、罪は封じられ、不義は償われる。とこしえの正義が到来し、幻と預言は封じられ、最も聖なる者に油が注がれる。』」(9:20~24)

つまりダニエルが自分の罪を告白して祈り始めますと、天使ガブリエルが、神様からの御言葉を告げにやって来ました。そして彼が神に愛されていること、メシアが到来するまで70週の時が定められていることを告げました。1週が7年と言われていますので、490年後にメシアであるキリストがこの世に来られて罪の償いをしてくださると言う御言葉が与えられました。キリストの十字架の救いが、490年後に成就することが告げられたのです。

このようにダニエルの祈りは、「たとえそうでなくとも」の信仰を持って捧げられ、継続して毎日絶えず続けられ、自分たちの罪を告白して祈りました。するとその時に、神様からの御言葉が告げられたのです。いかがでしょうか、皆さんの祈りは御使いを通して、神様から語られる御言葉との対話の祈りとなっているでしょうか。一方的な祈りとはなっていないでしょうか。神様からの答え、反応を伴った祈りになっているでしょうか。

わたしは自分の祈りが一方通行にならないように、最近はなるべく聖書を読んでから祈るようにしています。時には時間がなくて、あるいは疲れていたりして聖書朗読を省いてしまうこともありますが、できるだけ御言葉を読んだ後で祈るようにしています。またその方が祈りに確信が与えられるような気もします。ですから、わたしたちが聖書をよく理解しようとするならば、祈りを持って読むと言うことが大事です。信仰を持って、罪を悔い改めつつ、毎日祈っている時に、ガブリエルが御言葉を運んで来て下さいます。先ほど、祈りと行動がセットだと言いましたが、ここでは祈りと聖書は欠かせないものになっています。もちろん聖書無しでも祈ることはできますが、御言葉を聞く祈りです。一方通行ではなく、神様との対話です。ですから祈りと御言葉と伝道は三位一体のように、どの要素も欠くことのできないもののような気がします。

今日からクリスマスに向けて祈って行きましょう。そしてまた病の中にある兄弟姉妹のためにも、祈って行きましょう。主はわたしたちの祈りの声を待っておられます。そして本当にわたしたちの拙い祈りですが、確実に神様のもとに届いています。祈りは聞かれています。主にあって愛する兄弟姉妹のために、また世の人々の救いのために祈り続けましょう。     

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