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サムエルの祈り (サムエル記上3:1~14)

メッセージ

2012年6月10日富里キリスト教会
「サムエルの祈り」
(サムエル記上3:1~14)

1.神のともし火は消えず

「少年サムエルはエリのもとで主に仕えていた。その頃、主の言葉が望むことは少なく、幻が示されることもまれであった。ある日、エリは自分の部屋で床に就いていた。彼は目がかすんできて、見えなくなっていた。まだ神のともし火は消えておらず、サムエルは神の箱が安置された主の神殿に寝ていた。」
                     (サムエル上3:1~3)

このころサムエルは12歳くらいではなかったかと言われています。そして、このころイスラエルの民に対して主の言葉が望むことも、幻が示されることもめったにありませんでした。どうしてかと申しますと、祭司エリが自分の二人の子供を甘やかして育てたために、祭司である二人の息子ホフニとピネハスは、神殿の中で大きな罪を犯していました。

そして、祭司エリもまたその二人の息子も、神に仕えることを忘れて自分の部屋に行って床に就いていました。本来ですと、上級の祭司の方が、神の神殿で神の箱と共に休むはずですが、その大切な仕事を、一番年下のサムエルに任せて自分たちは自分の家のベットで休んでいたのでした。

彼らのこういう生活が、神の言葉が語られることなく、幻も示されることなく、神がイスラエルの民に対して沈黙をしていたことになります。この神の沈黙こそ、私たちは恐れなければなりません。祭司の務めは、神様の沈黙を招かないように、絶えず主の前に香をたき祈りと賛美感謝を捧げて行くことでした。(詩編83:2、イザヤ58:1~2)預言者イザヤも「主に思い起こしていただく役目の者よ、決して沈黙してはならない。また、主の沈黙を招いてはならない。主が再建に取りかかり、エルサレムを全地の栄誉としてくださるまでは。」(イザヤ62:6~7)

これが祭司の務めです。主を黙らせない、いつも主に向かって祈りの香をたき、主の御言葉と幻を待つ働きです。祭司エリの一族は、完全に神の沈黙を招いていたのでした。いや神が彼ら一族の行状の故に、目をそむけていたと言ってもいいかも知れません。

それでも、神は、この神殿に仕える一人の少年の忠実な働きによって、神のともし火を消すことはありませんでした。少年サムエルの仕事は、神殿で寝起きして、夜の間、灯し続けている七つの燭台のついた灯りを見守りながら過ごすことでした。夕方から灯りをつけて、明け方にはそのともし火を消す働きです。それから、夜明けと共に神殿の扉をあけ放つ仕事です。肝心の祭司一族のだれもが、この決まった毎日の仕事をしないで、自分の家に帰って寝ていた時に、12歳の少年が一所懸命神様に仕えていたのです。

どんなに人間の罪が大きく、しかも神殿の内部から崩壊していたにもかかわらず、神様は決してこの神殿を見捨てることはありませんでした。わたしたちの信仰が罪に負けて弱り、消えかかりそうな風前のともし火になろうとも、神様は決してそのともし火の明かりを、消されるお方ではありません。

3.呼びかける神

そして神御自身の方から、サムエルに声をかけられました。
「主はサムエルを呼ばれた。サムエルは、『ここにいます』と答えて、エリのもとに走って行き、『お呼びになったので参りました。』と言った。しかし、エリが、『わたしは呼んでいない。戻っておやすみ』と言ったので、サムエルは戻って寝た。」(サムエル上3:4~5)

神様が、サムエルを呼ばれたのですが、サムエルはエリが呼んでいると思って祭司のところに行きました。するとエリは、「わたしは呼んでいない」というのです。こういうことが合計三回もあったので、エリもようやくそれは私ではなく、神がお前を呼んだのだと言いました。そして、もし今度四回目に呼ばれたら、「主よ、お話し下さい。僕は聞いております。」と言いなさいと教えました。

神様は、この幼い少年サムエルを何度も何度も呼ばれました。合計、四回呼んでいます。そして、最後にようやく、サムエルがエリから神様の言葉の聞き方を教わってから、ご自分の告げるべき言葉を語りました。今朝は、このことから、神様は私達を何度も繰り返して呼び続けるお方だということを覚えたいと思います。

よく、「先生、いくらデボーション(静聴の時)をしても、神様が語ってくれませんが・・・。」とおっしゃる方がおられます。そのお気持ちはわかります。確かに私も、よく神様の御言葉が解らない時がありました。でも、神様は黙っておられる方ではありません。あの12歳の子供に4回も語って、目を覚まさせたのですから、私たちに語っていないはずはありません。

もし、どうしても語ってくれない、声が聞こえないと思うのでしたら、もしかしたら、自分の方で神様の沈黙を招いていることはないでしょうか。あのホフニとピネハスのように、自分の方から神様の声を聞えにくくしているようなことはないでしょうか。神様と自分をつなぐパイプの中に、罪と言うゴミが詰まったままでは聞こえないかもしれません。そのパイプのごみを取り除く必要があります。すなわち、主の前に自分の罪を告白して悔い改めることです。心から悔い改め、パイプの障害物を取り除くのです。そうするならば、神の声が聞こえてきます。

また、サムエルのように、神の声が聞こえて来て目を覚ましても、それが自分の主人であるエリの声ではないかと勘違いしてしまうことがあります。サムエルは、まだ自分でじかに神の声を聞くという訓練を受けていませんでした。ですから、何回も勘違いしてエリのところに行ったのです。まだ、静まって聴くという静聴の訓練ができていなくても、神様は、この幼い者にも声をかけ呼び続けておられるのです。彼が、自分の耳でしっかりと聞き分けることができるようになるまで、忍耐して、三回でも四回でも声をかけて名前を呼び続けておられるのです。

4.主よ、お話し下さい。僕は聞きます。

祭司エリは、神の声を聞くことのできていなかったサムエルに、御声の聴き方を教えました。「エリは少年を呼ばれたのは主であると悟り、サムエルに言った。
『戻って寝なさい。もしまた呼びかけられたら、『主よ、お話し下さい。僕は聞いております』と言いなさい。』(3:9)と教えました。

神様の声を聴くということは、まず、「主よ、あなたがお話し下さい。そして、わたしが聴きます。」と祈ることです。ふつうは「主よ私の願いごとを話しますから、お聴きください。」と言って祈っていることはないでしょうか。日本でも昔からよく、お百度参りとか願掛けと言う言葉がありますとおり、難行苦行をして自分の体を削ってでも、神に願い事を聞かせるというのが熱心な祈りだと考えられてきました。でも聖書の祈りはそうではありません。まず最初に、神様が語るのです。そして私は聞きますという態度、これが神の言葉を聞くための秘訣です。

なかなか祈りが聞かれないという人の話を、聞いたことがあります。それはやはり、ずっと祈ってばかりいるからでした。聖書を読む時間がないのです。静まって心を静めて神様のさやかな御声を聞き分けるということがなかったのです。まず、「主よ、お話し下さい。」あるいは「主よ、お語り下さい。」と言って聖書を読む、あるいは心を静めて真剣に神の声を聴こうとすることです。

そして、あきらめないでください。神様の声がなかなか聞こえてこないという時もあるかもしれません。それでも、あきらめないで、毎週礼拝をしていろんな奉仕をして、水曜祈祷会に参加して祈り、そして日々静聴の時間を持って行く、この単調な教会生活の中で、必ず主が、ある日ある時その人に語りかけて下さいます。神様に忠実に仕えてゆく時に、主は必ず語りかけて下さいます。サムエルも幼いながらも、毎日ろうそくの灯をともしたり、消したり、神殿の門を開いたりして忠実に神に仕えていました。

主の再臨の時がいっそう近づいております。先に召されて強打姉妹の信仰と祈りの生涯を見習って、私たちもこの地上での最後の時を、真剣に一日一日主の聴いて行きたいと思います。主は私たちに呼びかけるのを、決して止める方ではありません。わたしたちが振り向くまで、私たちが目を覚まして、「主よ、お語り下さい。僕は聞きます。」と言って答えるまで、主は何度も何度も、諦めることなく呼びかけています。今日から、心を改めてこの声に応える者となって行きたいと願っています。          (岡田 久)

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