ようこそ、富里キリスト教会の公式ホームページへ

サムエルの祈り (サムエル記上12:20~25)

メッセージ

2015年11月29日富里キリスト教会

「サムエルの祈り」
(サムエル記上12:20~25)

1.母ハンナの祈り(サムエル上1:9~16)

ここに(サムエル記1:9~16)、サムエルの母ハンナの祈りの姿が描かれております。実はサムエルの母ハンナも祈りの人でした。やはりこの母の祈りの姿を見て、幼いサムエルは育ったのではないでしょうか。子供は自分の親の祈る姿を見て育ちます。そしてその祈っている姿を脳裏に焼き付け、「ああ、お母さんがそう言えばいつも私のために、また家族のために祈っていたなあ」と思い起こして、その子も祈りの人となって行くのではないでしょうか。

ハンナはご存じの通り、子供に恵まれませんでした。いつも子供のあるもう一人の妻ぺ二ナに意地悪をされて、悩み苦しんでいました。ある日シロの神殿で参拝した後、ハンナは意を決して立ち上がり、神様の前に行って、自分の心の内をさらけ出して一切の悩み嘆きを主に訴えました。そばで見ていた祭司エリは、彼女がまるで酔っぱらっているように見えました。それほど彼女は祈りに没頭して、まるで酒を飲んで酔っ払っているようにして熱心に神に祈り求めていたのでした。

また涙を流しながら、必死に心を注いで主の前に祈っていたのです。15節のハンナの言葉を見て下さい。「いいえ、祭司様、違います。わたしは深い悩みを持った女です。ぶどう酒も強い酒も飲んではおりません。ただ、主のみ前に心からの願いを注ぎ出しておりました。はしためを堕落した女だと誤解なさらないでください。今まで祈っていたのは、訴えたいこと、苦しいことが多くあるからです。」(1:15~16)自分の心の悩み苦しみをすべて主に打ち明けて祈っていたのです。涙を流しながら、心を注ぐ祈りです。この真実の祈りは本当に聞かれます。

彼女はこの後、もはや顔から憂いが取り去られ、さっぱりとして家に帰って行きました。祈りの中で、主が答えて下さるという確信をいただいたのです。そして、彼女は一人の男の子を授かりました。それがサムエルでした。祈りによって与えられた子供です。そしてこの子をハンナは生涯、主に委ねる決心をして、幼くして祭司エリのもとに預けるのです。そしてこの母の祈りを受け継いだのが、祈りの人サムエルでした。彼は子供時から、主に祈るという恵みを与えられました。

2.少年サムエルの祈り(3:7~9)

次に少年サムエルの祈りを見てみましょう。「サムエルはまだ主を知らなかったし、主の言葉はまだ彼に示されていなかった。主は三度サムエルを呼ばれた。サムエルは起きてエリのもとに行き、「お呼びになったので参りました」と言った。エリは、少年を呼ばれたのは主であると悟り、サムエルに言った。「戻って寝なさい。もしまた呼びかけられたら、『主よ、お話し下さい。僕は聞いております。』と言いなさい。サムエルは戻って元の場所に寝た。」(3:7~9)

神様は少年であっても語りかけられます。まだ信仰を持っていなくても、主御自身の方からお声をかけられるのです。ここでサムエルは、祈りの最も大事なことを学びました。まず、祈る前に、「主よ、お話し下さい。僕は聞いております。」ということです。わたし達は祈りというとすぐに、神様に「こうして下さい。あれして下さい。」と願い事が出て来ます。これが祈りだと思っています。でも真に力強い祈りは、自分の願い、願望を述べるのではなく、まず神様に対して、「主よ、お語り下さい。わたしは聞きます。」と言って、主の御言葉を優先させる祈りです。

御言葉を聞いて祈る。これほど最強の祈りはありません。なぜなら神様がそう語っておられるからです。誰も神様の御意志を曲げることはできませんから。ですから今わたしは、祈る前に、今日の聖書日課の旧約と新約を別々の時間に読むようにしています。「主よ、どうぞ私の目を開いて下さり、今日読む箇所の意味が分かるようにして下さい。聖霊様の光を持ってわが内側を照らして下さい。聖書の真理を悟らせて下さい。」と祈ってから聖書日課を読むことにしています。そうしますと、神様は毎日毎朝、聖書の御言葉を開いて、新しい教えを与えて下さいます。日毎に真理を発見して行くのです。そして祈りもそれに沿った祈りになって来ます。読んだ御言葉を使った祈りの内容です。時には悔い改めさせられたり、新しい決心をしたりします。

3.サムエルのとりなしの祈り(8:21~22)

次に、指導者としてのサムエルの祈りについてみてみましょう。サムエルは祭司として祈り手でもありましたが、イスラエルの民を外敵から守るための政治的軍事的な働きもしました。そのためにも民の指導者として牧会し、裁きを行うことも求められました。しかし、そのサムエルも高齢に達し、そろそろ後継者を立てなければなりませんでした。ところがサムエルの二人の息子は賄賂をもらったりして裁きを曲げることがあり、民からは信頼されていませんでした。
そこで、イスラエルの民は、自分達も他の国のように、王様が欲しいと言ってきたのです。ある意味では、祭司であるサムエルを必要としないということでした。

そういう民のわがままな要求にも、彼は答えて行かなければなりませんでした。
8:6から読んでみましょう。「裁きを行う王を与えよとの彼らの言い分は、サムエルの目には悪と映った。そこでサムエルは主に祈った。主はサムエルに言われた。『民があなたに言うままに、彼らの声に従うがよい。彼らが退けたのはあなたではない。彼らの上にわたしが王として君臨することを退けているのだ。彼らをエジプトから導き上った日から今日に至るまで、彼らのすることと言えば、わたしを捨てて他の神々に仕えることだった。あなたに対しても同じことをしているのだ。』」(8:6~8)

「民はサムエルの言葉に聞き従おうとせず、言い張った。『いいえ、我々にはどうしても王が必要なのです。我々もまた、他のすべての国民と同じようになり、王が裁きを行い、王が先頭に立って進み、我々の戦いをたたかうのです。』サムエルは民の言葉をことごとく聞き、主の耳に入れた。主はサムエルに言われた。『彼らの声に従い、彼らに王を立てなさい。』サムエルはイスラエルの人々に言った。『それぞれ自分の町に帰りなさい。』」(8:19~22)

民の罪に満ちたわがままな要求に直面して、サムエルもどんなにかガッカリしたことでしょう。今までみんなのためにやって来たことが、無に帰すような虚しさを感じました。民のわがままです。そのような要求であっても、サムエルはそれを十分に聞いて、その言葉をそっくり主の耳に入れたのです。彼は自分で判断して、民を裁いたり、批判したりしませんでした。神と人間との間に立って仲介しとりなしの祈りをする者は、自分で判断しないで、人々のわがままな理不尽な要求を、すべて神の耳に入れることです。21節に「サムエルは民の言葉をことごとく聞き、主の耳に入れた。」とあります。

私たちは何かトラブルや反対が起こった時には、自分で先走って行動を起こすのではなく、まず第一にすべきことは、祈りにおいて神の耳に悪い言葉、悪い行動を告げることです。よく子供が叶わない相手には、親に訴えて助けを求めることがありますが、それと似ています。わたし達は自分で行動せずに、問題を神様に訴えるだけでいいのです。「主の耳に入れる」ことです。口語訳では「主の耳に告げた」となっています。少し語弊がありますが、神さまに告げ口をすることです。これでいいのです。解決は主に委ね、主の判断を待つことです。主が最善のことをしてくださると委ねることです。そして神様の答えを待つのです。これがとりなしの祈りです。

4.祈らない罪(12:20~25)

最後にサムエルは、イスラエルの民に向かって、告別の意味を込めてこう述べています。「恐れるな。あなた達はこのような悪を行ったが、今後は、それることなく主につき従い、心を尽くして主に仕えなさい。むなしいものを慕ってそれて行ってはならない。それはむなしいのだから何の力もなく、救う力もない。主はその偉大な御名のゆえに、御自分の民を決しておろそかになさらない。主はあなたたちを御自分の民と決めておられるからである。わたしもまた、あなたたちのために祈ることをやめ、主に対して罪を犯すようなことは決してしない。あなたたちに正しく善い道を教えよう。主を畏れ、心を尽くし、まことを持って主に仕えなさい。主がいかに偉大なことをあなたたちに示されたかを悟りなさい。悪を重ねるなら、主はあなたたちもあなたたちの王も滅ぼし去られるであろう。」(12:20~25)

主はたとえイスラエルの民が悪を行っても、主の御名のゆえに彼らをおろそかにすることはないと言っています。たとえどんな民でありましても、約束された方は真実ですから、決して見放したりはしないのです。神はどんなことがあってもイスラエルを御自分の民とする決心をされたのです。それ故に、サムエルもたとえ自分を指導者とすることを民が拒否しても、また自分の務めの時が終わったとしても、あなたがたのために祈りを止めることはないと言っています。そして、もし自分が祈りを止めるなら、それは神に対する罪であるとさえ言っています。神を信じる者が他の人々のために執り成しの祈りを止めてしまうならば、それは罪なのです。

イスラエルの民が、主を畏れることを学び、心を尽くし、まことを持って主に仕えるように祈り続けるとサムエルは言っています。指導者が、その民のために、そして牧師がその教会のメンバーのために祈らなったとしたら、それは神に対する罪なのです。祈らないことが罪だと言っているのは、ここだけのような気がします。牧師だけではありません。役員が教会員と教会のために祈らなかったとしたら、それは大きな罪になるのです。

CSの教師が、クラスメンバーのために祈らなかったらそれも罪です。SGのリーダーがメンバーのために祈らなかったら、それは罪なのです。クリスチャンが家族の救いのために、またその団地、そのマンションのために祈らなかったら、それも罪なのです。わたし達はこの祈りの働きのために召されたのです。
熱心に祈りましょう。祈りにおいて確信が与えられるように祈りましょう。「祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすれば、その通りになる。」(マルコ11:24)そしてまず御言葉を受けてから祈るようにしましょう。御言葉に基づく祈りは大きな力を発揮します。それは、神の御心に沿った真の祈りだからです。そして、自分の感情に振り回されるのではなく、神にあるがままのことを訴えましょう。それは神の耳に入れておくだけでいいのです。神様が、時期に適った最善の方法で応えて下さり、対応して下さいますから。神を自分の思うようにさせようとするのではなく、神様の耳に事実を言っておくだけでいいのです。神様が判断し、善処して下さいます。

神様が、驚くべき不思議な大きな力を持って働いて下さいます。途中で祈りを止めてしまって、罪に陥ってしまうのではなく、あきらめないで、絶えず、すべてのことについて感謝と喜びを持って祈りましょう。主は必ず私たちの祈りを聞き上げて下さって成し遂げてくださいます。今週は世界祈祷週間です。全世界に遣わされている宣教師の働きを覚えて祈りましょう。また私たちの家族や団地の人々のためにも祈りましょう。病の床にある方、弱っている方、遠くにおられる方のためにも祈って行きましょう。そして今日から始まる祈祷週間を、心からの献げ物をもって祈って行きたいと願っています。

powered by Quick Homepage Maker 4.50
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional