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ゴルゴダの十字架 (ヨハネ19:17~27)

メッセージ

2015年3月22日富里キリスト教会

「ゴルゴタの十字架」
(ヨハネによる福音書19:17~27)

1.ナザレのイエス、ユダヤ人の王

十字架刑は当時は最も残酷な死刑の方法だとされていました。余りにも残酷な刑なので、ローマの市民には適用されず、もっぱら海外のローマの植民地で、奴隷などの身分の低い凶悪犯に対してだけ執行されたとのことです。ですから、エルサレムの市内では行わないで、町の外にある場所で行われました。しかも通行人からもよく見える場所だったようです。

もう一人の死刑囚であるバラバが、イエスの代わりに死刑を免れましたが、他にも二人の死刑囚がおりましてイエス様と一緒に十字架に架けられました。映画などでもその様子が描かれています。囚人を寝かしたまま両手首と両足に鉄の大きな釘を打ち込んで、それから十字架の縦の木をあらかじめ掘っておいた穴におとして立てます。釘とは言いましても、細い木工用の釘ではなく、線路のレールを止めるような太くて長い大きな釘です。そうでないと手が裂けて体が落ちてしまうからだといわれています。

そして穴に縦の木を落とす時には、自分の体の重みで手と足の傷口に負担がかかりますので、ますます大きな痛みを感じます。聖書ではその辺のことはあまり詳しくは書いていませんが、映画なんか見ますとこの十字架につけられる場面が一番痛々しく目を覆ってしまいたくなるほどです。兵士が手首にくぎを打つときには、イエス様が大きな声を張り上げて痛みを訴えるシーンもあります。

そして十字架にかけてから、頭のところに罪状書きを貼り出しました。そこには「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」という文字が、ヘブライ語とラテン語とギリシャ語で書かれてありました。そこを読んでみましょう。
「ピラトは罪状書きを書いて、十字架の上に掛けた。それには、『ナザレのイエス、ユダヤ人の王』と書いてあった。イエスが十字架につけられた場所は都に近かったので、多くのユダヤ人がその罪状書きを読んだ。それは、ヘブライ語、ラテン語、ギリシャ語で書かれていた。ユダヤ人の祭司長たちがピラトに、『「ユダヤ人の王」と書かず、『この男は「ユダヤ人の王」と自称した』と書いて下さいと言った。しかし、ピラトは、『わたしが書いたものは、書いたままにしておけ』と答えた。」(ヨハネ19:19~22)

わざわざ三か国語で書いたとあります。この言葉を聞いてわたしは神学校の授業を思い出しました。神学校では、ギリシャ語が必修科目で覚えるのが大変でした。そしてヘブライ語とラテン語は選択科目でした。ヘブライ語はユダヤ人の言葉です。これは世界の宗教と民族を表しているそうです。そしてラテン語はローマ帝国の言葉であったように、法律と政治の世界を表して言います。そしてギリシャ語は、哲学と芸術を表しております。

つまり、この三か国語で書かれたということは、図らずもナザレのイエスがユダヤ人の王であったばかりではなく、全世界の宗教、政治、文化の王であるということを意味していることになるのです。総督ピラトが、ユダヤ人に対して腹いせのように書かせたこの言葉が、全世界のあらゆる分野に向かって宣言されたということです。このお方は、全世界のあらゆる部門での王であるということを宣言したようなものです。

しかも、ゴルゴタという丘の上に立てられた十字架です。そこは下から見上げると、骸骨の目のようなくぼみが二つある小高い丘だったと言われています。遠くから見るとまるで「されこうべ」(古い言葉ですが・・)のような恰好をした丘だったと言われ「ゴルゴタ」という名前が付けられていました。「されこうべ」というのは、頭の部分の骸骨ですね。それは人間の死と呪いを意味しております。つまりイエス・キリストは、肉体を取ってこの世に来て下さっただけではなく、人間の最も恐ろしい罪の現実、死と暗闇、廃墟、空しさ、そういう世界の真っ只中に来て下さり、そこに身を置いて下さったのです。

そしてさらに、その罪と死と暗闇と空しさと言った人間世界に負わせられた神の呪いをすべて、ご自身の身に背負われ、その神の呪いを全部自分が背負われて、死んでくださったのです。これが主の贖いの業、十字架の死の意味なのです。骸骨の上に立てられた十字架です。しかし、主はその死によって、わたしたちの罪の重荷をすべて、身代わりに受けて下さって、わたしたちをその死と呪いの中から贖い出して下さったのです。これがされこうべの上に立つ十字架です。

キリストは全人類の罪の呪いの上に立てられ、そして御自身の死を持ってこの呪われた罪と死の世界に終止符を打って下さったということです。つまり、御自身の体を罪の贖いの供え物として、神に献げて下さり、わたしたちを罪の中から贖い出して下さったのです。御自身の死を持って罪と死に勝利して下さったのです。それがあのゴルゴタ、されこうべの上に立てられた主の十字架だったのです。ガラテヤ3:13に「キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出して下さいました。『木にかけられた者は皆呪われている』と書いてあるとおりです。

2.衣服をくじを引いて決めた

次に兵士たちは自分たちの役得のように、死刑囚の衣服を分け合いました。
「兵士たちは、イエスを十字架につけてから、その服を取り、四つに分け、各自に一つずつ渡るようにした。下着も取ってみたが、それには縫い目がなく、上から下まで一枚折であった。そこで、『これは裂かないで誰のものになるか、くじ引きで決めよう。』と話し合った。それは、『彼らはわたしの服を分け合い、わたしの衣服のことでくじを引いた』という聖書の言葉が実現するためであった。兵士たちはこの通りにしたのである。」(19:23~24)

服の部分は、四人の兵士ですからちょうど、四人で四つに分けて取ることができました。そして最後の下着の部分は縫い目のない一枚布だったので、それを裂いて四等分するのではなく、そのままにして誰が取るかをくじを引いて決めました。これは詩篇22:19の「わたしの着物を分け、衣を取ろうとしてくじを引く。」という御言葉の通りになったのです。

この詩篇22編は、イエス様が十字架の上で、「わが神、わが神、なぜわたしを見捨てたのですか」と叫んだあの22編1節の言葉がある苦難の僕の十字架の詩篇の言葉です。これを書いたヨハネは、その場面を目撃していて、兵士たちがくじを引いて最後の一枚を誰のものにするか決めている姿を見て、あの22編の詩篇を思い出したのです。そして、兵士たちは、自分たちの意志ではありましたが、図らずも詩篇の御言葉の成就としてこのようにくじを引いてしまったのです。主イエスも苦しみながら、この詩編の22の言葉を叫び、兵士たちも知らずに詩編の御言葉通りのことを行って、預言が成就したのでした。

この縫い目のない下着というのは、祭司の着る下着だと言われています。それは完全な一枚布であって、完全な罪のない神の子羊が大祭司として着るのにふさわしいものでした。またそれは、母マリヤがわが子のために準備してくれたものだったとある本には記されてありました。そして、兵士たちは自分たちの内、誰がこの上等の一枚布を手に入れるかをくじで決めているわけですが、そのくじに当たった人は自分が幸運だと思ったかも知れません。

3.母マリヤの救い

最後に、そこには母マリヤをはじめとする三人のマリヤが、十字架のもとにいました。「十字架のそばには、その母と母の姉妹、クロパの妻マリヤとマグダラのマリヤとが立っていた。イエスは、母とそのそばにいる愛する弟子とを見て、母に、『婦人よ、ご覧なさい。あなたの子です』と言われた。それから弟子に言われた。『見なさい。あなたの母です。』その時から、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った。」(19:25~27)とあります。

主イエスは、十字架に架かり、痛みと苦しみの中、意識も薄れて行く中で、自分の生みの親であり、一番心配をかけていた母マリヤに最後の声をかけられたのです。母親のこれからのことについてです。これはただ単に、母のこれからの生活のことではなく、愛する母をも神の救いの中に迎え入れて欲しいという願いでした。この弟子が自分の家に引き取ったということは、弟子の仲間、神の家族に一員になったということを意味するのではないでしょうか。

母マリヤは、そこにいた他のマリヤ、すなわちクロパの妻マリヤやマグダラのマリヤほど、今までイエスと行動を共にして来てはいませんでした。むしろ自分の子供として長男として、身内の立場、親の立場、母の立場からイエスに命じる側にいたのでした。でも今、彼女は幼いときに神殿に上った時に、老人シメオンが言い残した言葉の意味が分かったのではないでしょうか。「お母さん、この子は多くの人々に反対されて殺されます。あなた自身も母として自分が刺し貫かれるような辛い思いをするでしょう。でも、それは多くの人々の心にある思い、即ち罪の悔い改めとイエスの十字架を信じる信仰の思いが与えられるためです。」(ルカ2:34~35)と言った言葉です。

主イエスは最後の最後まで、愛する母マリヤの救いのために心を砕き、愛弟子の一人に、母のことを託されたのです。このようにして主は、十字架の死の苦しみと痛みの中に置かれても、母の救いのことを思い弟子に委ねたのです。そしてまた、何も知らずに十字架につけ、くじを引いているローマの兵士のためにも、またその場から逃げ去ってしまった多くの弟子達のためにも十字架の上でとりなしの祈りをささげておられたのです。「彼らを赦したまえ、自分が何をしているのか知らないのです。」(ルカ23:34)と。

神の独り子、いや神御自身があの死の場所に掛けられているのです。この世界がどんなに醜く暗闇に覆われ、死と憎しみが満ち溢れ、人間の罪が支配しておりましても、その上に神の子羊なるお方が、わたし達のために、この世の罪のためにわたし達の罪を赦すために贖いの供え物として、献げられたのです。そしてわたしたちの罪の贖いのために血を流して下さったのです。身代わりに神の呪いを受け罰を受け、苦しみを受けて下さり、一切の責めを御自分の上に受けて下さったのです。それがあのゴルゴタの十字架です。そして、父なる神の愛をこの世に示されたのでした。

「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」(Ⅰヨハネ4:10)「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。このように神は忍耐してこられたが、今この時に義を示されたのは、御自分が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じる者を義となさるためです。」(ローマ3:23~26)

すべての人が、この主の十字架を見上げて御もとに来ることを願っておられます。誰にでも分け隔てなく与えられる恵みのプレゼントです。今朝もこの主を見上げ、心からの感謝を捧げましょう。そしてこの主の十字架に表された神様の大きな愛を、素直に受け取る者となりましょう。    

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