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キリスト者の自由 (ガラテヤ5:2~15)

メッセージ
2019年5月26日富里キリスト教会
「キリスト者の自由」
(ガラテヤ書5:2~15)
1. 律法の奴隷

律法の束縛の良い例が、この5章の前の4章21節から述べられています。つまり律法というのは女奴隷の子供で、肉による子供を産もうとする義務のようなものです。たとえば、アブラハムは世継ぎがなかったために、召使ハガルが正妻サラの代わりに子供をもうけました。つまり、世継ぎをもうけなければその家は断絶してしまうと言う掟です。そのいい例が、日本の皇室です。最初、雅子様に子供が生まれませんでした。精神的に追い詰められた雅子様は精神的に不安定になりましたが、ようやく後継ぎ生まれました。ところが、また問題です。そのやっと生まれた子供が女の子だったのです。これでは後継ぎにならない、どうしようかと今、日本中で議論しています。

つまり男子直系によって、子孫をもうけ天皇家の存続を図るというのが律法です。モーセの律法にもそのように規定されています。これが日本にも皇室にも日本の社会にも引き継がれてきているわけです。でも神様は、肉によって子孫をもうけるということではなく、信仰によって神の約束を信じて子孫をもうけることが真のイスラエル後継ぎなのですといいました。この神の約束をアブラハムも信じました。それは肉によらず神の霊によって自由に与えられる子孫であるから、それを産む母親も自由の女だと言われています。これが神様からの恵みによって、天から与えられる子孫であり、肉の律法に縛られない自由の身の女の子供なのだというのです。

ですから私たちは、神様の約束によって子供を産む自由の女であり、何としてでも岡田家に子孫を造り財産を受け継がせなければならないというものではないのです。神様の約束によって、聖霊によって生まれた皆さんがわたしの子供なのです。少し言い過ぎになるかもしれませんが、皆さんがわたしの子供なのです。霊の親として、皆さんが信仰に生きるようになるまで、何度も産みの苦しみを経験します。その子が道をそれてしまっても、パウロは「わたしの子供たち、キリストがあなたがたの内に形づくられるまで、わたしはもう一度あなたがたを産もうと苦しんでいます。」(4:19)と言っています。それは先週学びました。

せっかく律法の束縛から解放され、自由の実を結ぶに至るように走って来たのに、またあの古い教えユダヤ教の律法の奴隷の生活の中へと引きずりこもうとする教えがガラテヤ教会に入って来ました。5章の冒頭でパウロはそのことを、声を大にして訴えています。「この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にして下さったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度と繋がれてはならない。」(5:1)と。

律法の世界がお解りいただけたでしょうか。そしてこの律法と罪は同調しています。お互いに関連しあっているのです。普段は罪はわたしたちの肉の中に眠っているのですが、律法が来ることによって目を覚まして、ますます罪を増大させてしまいます。そしてついには、自分を死にさえ追いやってしまうのです。律法は罪の呼び込み水のような働きをします。お互いに関連しあい悪の連動しているのです。

皆さん先週、テレビドラマで山崎豊子さんの「白い巨塔」をご覧になったでしょうか。大学の医学部の中での人間のすさまじい出世争いを描いたドラマです。自分には外科手術という腕がある。誰にも負けない技術を持っている、これが律法です。行い、能力、実績を誇ることです。人より優れている、割礼をしている、安息日を守っている、断食をしているという宗教上の功績、だれにも負けない技がある、これが律法です。そしてその能力によって、自分のうちに眠っていた権力欲、支配欲と言った罪が頭をもたげてくるのです。財前教授だけではなく、誰でもそのような欲という罪を持っています。

そしてあの医学部を舞台にした、人間のすさまじい弱肉強食の共食いのような戦いが繰り広げられてゆきます。これが現代社会です。律法の世界そのものです。イエス様もパウロも、この律法の肉による現代社会と戦っていたのです。そしてその結果は、どうなったかと言いますと、失敗と挫折、そして最後には自分自身にがんが見つかって死を迎えるという結末になってしまいます。これは医学部だけではありません。

あの理研を舞台にしたSTAP細胞事件でも、同じような悲劇が起こったではありませんか。人間の能力、知識、発明、発見、そして比較、競争の世界です。今の人間社会の現実です。これが律法の世界なのです。この人間の業と能力という律法は、上へ、上へ神の如くになろうとする罪人の姿そのものです。律法という人間の行いは、罪の頂点へと人間を惹きつけて止まない恐ろしい力を持っています。自分を神の如くにしようとします。いや神になりたいという人間の欲望と罪のなせる業です。皆、ゴット・ハンドと呼ばれたいのです。

わたしたちは、もうそのような律法の束縛から、イエス・キリストの十字架によって解放され自由にされたものです。イエス様がわたしたちの身代わりなって、あの十字架の上で律法の呪いから解放してくださいました。律法の最期となって下さったのです。もう頑張る必要はありません。あるがままでいいのです。家を継がなくてもいいのです。医者にならなくてもいいのです。弁護士にならなくてもいいのです。競争する必要はありません。金メダル出なくてもいいのです。銀でもいいじゃないですか。

どうして人間はそこまでして、律法という行い、技、能力の世界にひかれるのでしょうか。それはその人が神様の大きな愛と恵みから、目がそれているからなのです。神の愛から視線が外れると、銀よりも金の方が欲しくなってしまうのです。相手を見てしまうのです。間の前にはっきりと示された、イエス・キリストの十字架の姿が見えなくなってしまうのです。十字架から目を離してはいけません。つい十字架のキリストから目が離れるという、弱さをわたしたちは持っています。ガラテヤの信徒たちもそうでした。パーフォーマンスをしなくてもいいのです。よく見せようとする必要はありません。比較しなくてもいいのです。そんなに頑張らなくてもいいのです。あなたはそのままで愛されているのです。それがキリスト者の自由なのです。

Some Jewish brothers who came from Jerusalem urged Galatian brothers be circumcised by the law. But Paul insisted if they will be circumcised, the redemption of Christ will be of no value to them. He declared we sinners will be saved freely by God’s grace through our faith. The modern meaning of the law is to proud one’s power and skills and one’s ability. And law wakes up the sins sleeping in our heart. The one who lives in the law want to be like the God by being proud his own skill and ability. They will not need the grace of God and redemption of Jesus. Modern people are also slaves of the law by being proud their skills and results. They are also trying to be number one in every field. This is a trap of the law.

2.十字架のつまずき

ここに一つの絵があります。一番右側が仏教の救いで、業(ごう)をもった人間が、何とか努力してお釈迦様のいる蓮の池の縁まで這い上がって行こうとする図です。これが行いによって救われるという宗教です。仏教やイスラム教やユダヤ教もこの類型に入ります。でもみんな途中で落ちてしまっています。それは人間は自分で自分を救うことができないからです。真ん中の図は孔子の教えだそうですが、孔子の教えと人間の側の努力の双方が近寄って来て、真ん中で救いに至るというのだそうです。おそらく、ガラテヤ教会の人々は、キリスト教の福音とユダヤ教の律法の双方が必要だと教え込まれていたのでしょうか、真ん中の図に該当するような気がします。バプテスマだけではだめで、割礼も受けなければ救われないという条件を付けていたのではないでしょうか。

実は使徒言行録16:3では、パウロも弟子のテモテに割礼を受けさせています。と言いますのは、彼の父親がギリシャ人であったために、これからユダヤ人に伝道するために、あえて異邦人の血筋を持ったテモテにも割礼を受けさせました。ユダヤ人の間でも彼が伝道しやすいように配慮したのです。ですからパウロも、異邦人は割礼を受けた方がいいと言って、便宜的にテモテにしたように割礼を推奨していたら、おそらくあれほどまでに同胞のユダヤ人からは迫害されなかったのではないかと思います。

しかし、テモテの場合は伝道のためにしたのであって、救いの条件に割礼が入ることをパウロは決して容認しませんでした。救いはあくまでも、本人のキリストを信じる信仰によって義とされることを主張したのです。5:5でこう言っています。「わたしたちは、義とされた者の希望が実現することを、“霊”により、信仰に基づいて切に待ち望んでいるのです。キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です。」(5:5~6)

しかしせっかく信仰によって義とされながらも、わたしたちの心の中には、どうしても誇りたい、自分を他よりもよく見せたいというあの律法の影が忍び寄ってくることがあります。できればイエス・キリストの十字架を通らないで救いに入りたい、自分の弱さや罪と言った部分を見せたくない、隠しておきたい、良いところだけを見せたい自分を誇りたいというパーフォーマンス信仰が出てきます。クリスチャンはいつもその誘惑にかられます。弟子訓練を受けた、受けていないで判断してしまう誘惑があります。それは一つの知識です。技と行いの一つですが、福音はその人の心に語るのです。砕かれた悔いた心に届くのです。

あの財前教授のように、どこまでも自分の野望を膨らませて頂点に上り詰めた
いという野心が出てきます。あるいは自殺した理研の笹井博士の場合もそうです。IPS細胞の山中教授には負けられないという競争心がついには、論文偽造へと追い込み、自分で自分の命を絶ってしまうという結果になってしまいました。財前教授も笹井博士も律法主義による罪の犠牲者となってしまったのです。

そういう人間の生き方に立ちはだかるのが十字架のつまずきなのです。パウロもそうでした、まさに功名心の塊であった彼が、ダマスコ途上で神様に打たれたのです。自分の罪を悟るまで目が見えなくなりました。大事なことは、人生の失敗と挫折と恥の中で、わたしたちがどうするかです。つまずいた場所でどうするかです。つまずく者の幸いというのが十字架です。つまりわたしたちが倒れた場所で、そこにすでにキリスト様がいて下さるというのです。倒れた私たちの傍らにいて、抱きかかえてくださるのです。倒れてみなければ、つまずいてみなければわからない世界です。しくじってみなければ見えてこない世界があります。

これが恵みの福音です。イエス・キリストを信じるだけで罪赦されて、救われるという、罪人に対する福音です。三番目の図をご覧ください。自分の努力や頑張りに失敗し、しくじり、挫折して限界を覚えた者が、両手を話して落ちて行った地獄の底に、十字架のキリストがなっているのです。財前教授が裁判に負けて、しかも自分の体にステージ4のすい臓がんが発見されて、倒れた時、彼は水の中に投げ込まれたようなシーンが映りました。その水の中に沈んでゆく底に、キリストが待っているのです。これが福音であり恵みなのです。

財前教授が手術を失敗したところで、つまずいたところでそこで十字架を見上げてほしいのです。そして自分の中にがんが見つかったという所で、十字架を見上げてほしいです。笹井博士も何もかも失敗したところで、十字架の主を見上げてほしかったです。首を吊る前に、十字架の主を見上げて、神の愛と赦しを受けてほしかったです。パウロは、馬から落ちて目が見なくなった所で、主の御声を聞きました。わたしたちが挫折し、失敗し、転げ落ちたところに主の御手があるのです。主の愛がそこで待っているのです。そして、そこが新しい人生の出発点になるのです。主の十字架はわたしたちをつまずかせますが、そしてそこから立ち上がらせてくださる奇跡の石なのです。

もう律法にとらわれる必要はありません。絶対に失敗しないという律法の呪いから解放されたのです。もっと良い研究成果を上げなければならないという律法の束縛から解放され、自由になるのです。失敗してもいいのです。論文が間違っていてもいいではないですか、もっといいものがあります。それは人間の命です。研究成果よりも、論文よりも、教授という地位よりももっといいものがあります。それは命です。希望です。愛です。自由です。赦しです。わたしたちはこの自由を得させるために、主によって召し出されたのです。ですから、これからは二度とあの「ねばならない」という律法の奴隷の世界に戻ってはいけないのです。

Even if we were saved by grace freely, the temptation to be number one always comes to our heart. But will the acts of the law be able to get the top of the mountain? No, whoever wants to get the highest by his own ability will fail to get. Because nobody can be a perfect by his own acts. When we fail to get the highest, we fall into the bottom of our life. But this is the place where we see the salvation of God. The one Son of God is waiting for us spreading his hands on the cross. We can jump into Jesus Christ our savior as we are. The place where we felt being fallen into the hell is the gate of heaven. This is Jesus Christ on the cross. The place where we fell is just a gate of salvation. We only have to look up Jesus and cry to Jesus and we only need to believe. There is our freedom by faith and liberation from sins.

3.愛と自由

「兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えあいなさい。律法全体は、『隣人を自分のように愛しなさい』という一句によって全うされるからです。だが、互いにかみ合い、共食いしているなら、互いに滅ぼされないように注意しなさい。」(5:13~15)

わたしたちが律法の呪いと束縛から解放されたのは、自由を得るためでした。でもその自由を自分勝手な気まま生き方をするという自由ではなく、隣人を自分のように愛しなさいと言う愛の実践の中に生きるためなのです。自由にされた者の愛の生活とは何かということについて、今日の聖書教育の中にいいことが書いてありました。「ミッシェル・クオストという司祭が、その祈りの中で『愛には二つしかありません。』と書いていました。それは『わたしだけを愛する愛』と『主と他者を愛する愛』だと。前者が強くなると後者が薄くなります。『真の愛は、わたしを飛び立って、他者へと向かうように作られました。』」という言葉です。

愛には自分を愛するかそれとも他者を愛するかの二つである。そして真の愛というものは、自分から他者へと向かう愛であるというのです。確かにわたしたちはイエス・キリストの十字架によって自由な者とされました。もはやどんなことにも縛られる必要はありません。イエス様が一切の束縛からわたしたちを解放してくださいました。しかし、パウロはその自由を自分のために使うのではなく、相手のために用いなさい。自分を愛するように隣人を愛するようにしなさい、これが真に自由とされた者の生き方ですよと。

そして教会はそのような人々の集まりではないでしょうか。皆、自由にされた者ですが、自分のためだけに生きる者はいません。皆神の家族として、お互いのために相手のために益を計って生きてゆきます。これがキリストの体である愛の教会の姿です。でも、先日来申して来ましたが、その自由さをわたしたちはつい自分のためにだけ使ってしまうことはないでしょうか。相手に対する配慮、特に教会の兄弟姉妹に対する愛の配慮はされているでしょうか。

Paul said “You were called to be free. But do not use your freedom to indulge the sinful nature ; rather serve one another in love.”(5:13)
We were called to be free, we were free from the law and we will be able to anything in Christ. But we have to use this freedom not to us but to the others. Someone said there are two ways to love. The one is to love for ourselves and other is to love for the Lord or the others. We have to love the others by flying away from us. We are now free. We who were free from the law to love the others. The true meaning of the law is to serve one another in love. So we should always watch the smallest one in our congregation not to stumble him. This is the true living in love.

わたしたちは何をしても自由です。お酒を飲んではいけない、肉を食べてはいけない、うろこのない魚(ウナギ)を食べてはいけないという律法の規定に縛られることはありません。だけども、その自由を自分のために、自分たちのためにだけ使ったならば、果たしてその自由は本当の自由だと言えるでしょうか。パウロは「この自由を、肉に罪を犯させる機会とせず、愛によって互いに仕えなさい。」(5:13)と言っています。わたしたちの真に自由な愛というのは、自分たちを楽しませるためのものでしょうか。自分たちが喜ぶためのものでしょうか。そうではありません。真の自由から来る愛は、他者に向かう愛なのです。相手はどう思うかです。相手の良心や相手の気持ちを配慮することです。これが本当に自由とされた者の愛の生活、愛の実践なのです。

まさに大事なのは、「割礼があろうがなかろうが関係ない。愛によって働く信仰だけなのである。」というパウロの信仰が現れています。彼の愛はどこまでも他者に向かっていたのです。相手がつまずかないために、時には割礼を施し、時には割礼は必要ないと主張しました。彼はどこまでも自由なのです。愛にあって働く自由なのです。信仰によって義とされたがゆえに、何でもできたのです。その愛はどこまでも相手に向かって働く愛でした。自分を愛する愛ではありませんでした。自分を楽しませる愛ではないのです。相手がどう思うかです。それが愛の基準です。わたしたちもせっかく与えられたこの自由な生き方を、自分のためではなく、相手のためにどこまでも追及するような愛をもって、互いに仕えてゆきたいと願っております。(岡田 久)

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