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キリストはアダムよりも強い (ローマ5:12~21)

メッセージ

2013年5月5日富里キリスト教会

キリストはアダムよりも強い」
(ローマの信徒への手紙5:12~21)

1.アダムの罪によって、死が全人類に入り込んだ

「このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。全ての人が罪を犯したからです。律法が与えられる前にも罪は世にあったが、律法がなければ、罪は罪と認められないわけです。しかし、アダムからモーセまでの間にも、アダムの違反と同じような罪を犯さなかった人の上にさえ、死は支配しました。実にアダムは、来たるべき方を前もって表すものだったのです。」(ローマ5:12~14)

人間は誰でも必ず、死を迎えます。しかし、その死の原因は何かということを意外と知る人はいません。聖書には、人が死という罰を運命づけられたのは、アダムの罪によってだと記されています。創世記2:17で神様はアダムに、「エデンの園の中のすべての木から取って食べても良いが、善悪の知識の木からだけは食べてはいけない。食べると死ぬから。」と言いました。しかし、アダムとエバは、蛇の誘惑によって、善悪を知る木からも実を取って食べてしまいました。その結果、エバには産みの苦しみを、アダムには労働の苦しみを与え、最後には両方とも死んで土に帰るという運命が与えられました(創世記3:16~19)。

この人類の祖先であるアダムの犯した罪によって、アダム以来すべての人類に罪の性質が与えられ、その結果、この世界にも死が入り込んでしまいました。これが「一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。」(5:12)という言葉の由来です。そしてパウロは、モーセの律法が与えられる以前の人間にも、このアダムの罪によってすべての人が罪人であるということを証明しようとしました。

いずれにしましても、どんな人でも、いつの時代の人でも死というものを経験する限り、その死の原因、理由となっている罪の中に置かれ、生まれてくるのであるということです。ただその罪の自覚と言いますか、意識というものが人によっては違いがあったわけです。イエス様の時代も、ある人はイエス様の前にひれ伏し、全財産である香油を注ぎかけるほどに感謝を表したし、ある人は普通に先生として迎えただけですし、ある人は神を冒瀆する者だと言って殺してしまった人もいたわけです。

イエス様は、罪に苦しむもの、死を怖れる者、悲しむもの、苦しめる者、心の渇きを訴える者のところにしか行くことはできませんでした。自分の罪と死に打ちのめされ、呻き苦しむ者こそ、真に来たるべきお方、救い主を待ち望む人々だったのです。人間はこのアダムの体だけではやがて朽ちて死んでしまう運命なのです。人間は罪の中に埋まってしまうしかない存在なのです。やがて、土に帰る空しい存在でしかないのです。そしてその行き着く先は永遠の滅びです(Ⅱテサロニケ1:9)。この罪の体を贖ってくれる人はいないのか、どうしたら罪が赦され、死の罰から解放され永遠の命の中に生きることができるのだろうか、そういう問いをあげたのがヨブであり、旧約の預言者たちだったのです。

そういう意味で、アダムは来たるべき方、救い主の予型、即ちあらかじめ前もって表す人間だったのです(5:14)。ですから、どんな人間でも、この根源的な問い、私はどう生きたらいいだろうか、なぜ私は死ぬのだろうか、死とは一体何だろうか、どうしたら永遠の命を見つけることができるのだろうかという問いを持っている存在なのです。なぜなら、皆さんすべて基本的にはアダムの子孫として生まれ、アダムの性質を持って、アダムとして死を迎えるのです。

罪というのは、その帰り行く先方向を失っているということです。出て来たところである神に対して背を向けているということです。神から離れてしまっているということ、これが人間の罪の状態です。ある人は実際に大きな刑法上の犯罪を犯して、初めて自分の罪に気付く人もいるでしょう。他人を犠牲にしてしまった、傷つけてしまったということで己の罪に恐れおののく人もいると思います。でも、そういう大罪を犯さなくても、皆死を迎えるわけですから、そのことが私たちが罪人であることを立派に証明しています。神から離れてしまった存在であることを証明しています。ですから、私たちはキリストのもとへと行くしか生きる道がない存在なのです。本来神から出て来た者ですから、向きを変えて神のもとに帰らなければならないのです(ローマ11:36、コヘレト12:7)。

2.アダムの罪を覆うキリストの恵み

イエス・キリストは、私たちの罪を贖い、赦し、清めてくださるために、自ら肉体を取ってこの世に来て下さいました。そしてその肉において、私たちの罪を罰して下さり、罪の贖いと赦しを宣言して下さいました。それがあの十字架です。神御自身がまず先に、十字架を通して御自身の義を示して下さり、それから主を信じる者を義としてくださるのです。神の義である十字架に、誰も反論できるものはいません。そして、このキリストの十字架の救いは、罪人の私たちのところに、一方的な恵みとして届けられました。

ローマ書の前の個所で、このキリストの救いの恵みをこう記しています。「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。」(ローマ3:23)ここに、恵みにより、無償でとあります。これは神様からの一方的なプレゼントであり、何のお返しもいらないということです。また、どんな罪を犯していても、それを無償で赦して下さるということです。私たちの犯した罪に対して、何のお咎めも、罰も、罰金も処分もいらないということです。この恵みの賜物であるイエス・キリストを受け入れるならば、私たちの罪が無償で帳消しになるということです。今がその時です。

ローマ5:15に「しかし、恵みの賜物は罪とは比較になりません。一人の人によって多くの人が死ぬことになったとすれば、なおさら、神の恵みと一人の人イエス・キリストの恵みの賜物とは、多くの人に注がれるのです。」とあります。ここで、アダムの罪大きさとキリストの恵みの大きさが比較されています。つまり、アダムの罪の場合には、たった一人の人アダムの犯した罪によって、全人類意に罪が入り込みました。まるで、小さなふくらし粉が小麦粉全体を膨らませるように、全体に罪が染み渡りました。罪の力とその影響力も大きなものがあります。

しかし、たとえ、一人の人間アダムの罪によって、全人類に、しかも時代を超えて全ての人に罪が影響を及ぼしたとしても、キリストの救いの恵みは、この全人類の莫大な罪人の数をも、たった一人の人間キリストの十字架によって帳消しにされたのです。いかがでしょうか。単純に数学の計算をしてみてください。キリスト一人の死によってもたらされた十字架の恵みは、何十億、何千億というアダム以来の人間の数をも全て帳消しにするほど、大きな力と影響力を持っているのです。アダム一人の罪の力と、それを包み込むたった一人の人キリストの救いの恵みは、どんなにも大きいことかということです。

この会堂の中で、たった一人の人の罪によって全会衆に罪が入り込みました。しかし、キリストの恵みは、どんなに会衆の罪人の数が多くても、たった一人でそれを全部帳消しにできるということです。パウロはそのキリストの恵みの大きさを、感極まって、次の16節から21節までの中に、六回も言葉をかけて説明しています。合計七回、このキリストの恵みがアダムの罪をはるかに超えるほどに大きいと言葉を言い換えて述べているのです。(≪は不等号)

16節=一つの罪で有罪の判決が下される。≪しかし、多くの罪を恵みは無罪判決にする。
17節=一人の罪によって人類を死が支配した。≪一人のキリストを通して恵みと義の賜物が支配した。
18節=一人の罪によってすべての人が有罪判決を受けた。≪一人の正しい行為によってすべての人が義とされ命を得た。
19節=一人の不従順によって多くの人が罪人とされた。≪一人の従順によって多くの人が正しいとされた。
20節=罪が増した。≪恵みはいっそう満ちあふれた。
21節=罪が死によって支配した。≪恵みは義によって支配した。

たとえ、アダムの罪が全人類に及んだとしても、たった一人の義なる人キリス
トの救いの恵みは、それをはるかに凌駕して覆い尽くして満ちあふれるという
のです。キリストはアダムよりも強いのです。ここにキリストの恵みの圧倒的
な勝利、優位性、充満が述べられています。

3.罪の増し加わるところに、
恵みはなおいっそう満ちあふれる

最後に、ここで気をつけてもらいたいのは、キリストの恵みが増し加わると、逆にアダムの罪が減少してくるのではないかとふつうは考えてしまいます。神の恵みが増せば増すほど、人間の罪の部分は少なくなってくるのではないかと思います。クリスチャンも、信仰に入ってクリスチャンらしい生き方をしよう、悪いことはやめてよいことをするように努力しようと思います。そうしますと、そこにまたあの律法の罠が出て来て、自分は悪いことはしていない、罪は無くなった、罪を犯したこともない、いつも正しいことを行っているという律法的なクリスチャンになって来てしまいます。そうしますと、律法の罠に陥って、眠っていた罪がまた黙々と頭をもたげて来ます。そして他人を裁いたり、同じクリスチャンを非難したりしてしまいます。

キリストの恵みの下に生かされている私たちは、絶対に罪を犯さないということではなく、たとえ罪を犯してしまっても、それを告白し悔い改めるならば、いつでも主の贖いによって罪を赦していただけるということなのです。これが、20節後半の言葉です。つまり、「罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれました。」という言葉です。

主を信じていても、私たちはまだ肉体を持っている者です。信仰生活の中でも、過ちや罪に陥ることもあるでしょう。しかし、たとえ失敗や過ちがあっても、自分の罪を、自分の非を認めて主の前に罪を悔い改めるならば、罪の赦しをイエス様の贖いによっていつでも帳消しにしていただけるのです。いや、むしろ、私たちはクリスチャンになる前よりも、なってからの方が自分の罪の大きさや汚れによけい心を悩ますことがあるかもしれません。

「罪がなくなって」恵みが満ち溢れたというのではなく、「罪が増したところに」恵みが満ち溢れたのです。ですからパウロは自分のことを、「わたしは罪人の最たるものです。」(Ⅰテモテ1:15b)と言っています。ヨハネも「自分に罪がないというなら、自分を欺いています。自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、私たちの罪を赦し、あらゆる不義から清めてくださいます。また、罪を犯したことがないという人は、神を偽りものとする人です。」
(Ⅰヨハネ1:8~10)と言っています。

私たちもパウロやヨハネと一緒になって言いましょう。「わたしは罪人です。罪人の最たるものです。私は、神様に対して罪を犯しました。主よ、わたしの罪をお赦しください。」この世に正しい人は一人もいません。善を行う人もいません。全ての人は道から迷い出てあてどもなくさ迷っています。でも今、わたしたちの目の前に神様の義が示されました。それは神の独り子イエス・キリストを信じる信仰による義です。全ての人に無償で与えられる神の恵みのプレゼントです。この神様の恵みの下に立ち帰りましょう。本来神によって造られたものです。本来自分の居るべき場所である神のもとに、主の十字架の下に立ち帰りましょう。今日がその時ではないでしょうか。       (岡田 久)

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