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キリストの死にあずかるバプテスマ (ローマ6:1~14)

メッセージ
2017年5月14日富里キリスト教会

キリストの死にあずかるバプテスマ」
(ローマ6:1~14)

1.自分の中の罪を知る

さて皆さんは、主イエス・キリストを信じてバプテスマを受けました。そして自分はもう罪赦されて救われたのだ、天国に行くことができると信じて信仰生活に入り、今歩み続けています。しかし、そのうちに自分の肉の中に死んだはずの罪が、またむくむくと頭をもたげて来る時が来ます。自分では一生懸命良いことをしようとしながら、逆にいつの間にか悪いことになってしまっているのです。何で、こんなに一生懸命やっているのに、と思うことが何度もありました。それは、実は自分のうちに宿っている古い性質なのです。この古い性質、クリスチャンでありながら肉の中にまだ眠っている罪が存在していたのです。

せっかくバプテスマを受けて生まれ変わったのに、これでは全然生まれ変わっていない、回心していない自分というものがそこにありました。しかし、聖書には、先週学びましたが、「しかし、罪の増し加わったところには、恵みはなおいっそう満ちあふれた。」(ローマ5:20)とあります。つまり成熟したクリスチャンとは、自分のうちに罪があると言うこと、キリストなしでは、もうどうしようもない最悪の人間になってしまうという危険性を知っている人のことなのです。

ですから、そんな自分の大きなどうしようもない罪をも、すっぽりと覆い隠してくれるキリストの恵みと有難さが分かるのです。罪を知らない人はキリストと無縁の人です。そんな罪人の私をも、いつも無条件で愛し赦してくださっておられる方がいると言うこと、このお方を知っていると言うことが、恵みの中にあるクリスチャンなのです。ですからパウロはいつも「キリストにあって、キリストにあって」と言っています。キリストなしには生きて行けない人間、これがクリスチャンなのです。

ですから信仰生活というのは、自分が罪赦されて新しく生まれ変わって、これから聖い正しい生活をするんだということではなく、まず第一に、自分の内側にはまだしっかりと罪が存在していると言うことを認めるところから始まります。パウロは7:18にこう言っています。「私は、自分のうちには、つまりわたしの肉には、善が宿っていないことを知っています。善をなそうとする意志はありますが、それを実行できないからです。わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。」(ローマ7:18~20)

でも安心して下さい、キリストの恵みはアダムの罪よりも強いのです。キリストにある霊の力は、アダムの肉の力よりも強いのです。そしてこの霊と肉との戦い、恵みと罪との闘いが信仰生活なのです。皆さんも今まで何回となくこの戦いを経験してきたと思います。そして信仰のあるクリスチャンは、常にこの自分のうちに内在している罪を監視している人です。油断しないで、いつも目を覚まして自分で自分を見張っています。これが祈りです。そして、そういう自分の罪の姿を映してくれるのが、聖書なのです。ですから、クリスチャンはいつも自分の姿を聖書の鏡に映して、罪を悔い改めて祈るのです。聖書を読まないクリスチャンは、自分がどんな姿をしているのかさえも解らずにおります。このようにして、浸礼の水に沈むバプテスマは一回限りですが、心のバプテスマは、生きている限り一生繰り返されて行きます。それが今日の箇所です。

2.主と共に十字架につけられた私

今日の聖書箇所を読んでみましょう。
「では、どういうことになるのか。恵みが増すようにと、罪の中にとどまるべきだろうか。決してそうではない。罪に対して死んだわたしたちが、どうして、なおも罪の中に生きることができるでしょう。それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるためにバプテスマを受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるためにバプテスマを受けたことを。わたしたちはバプテスマによってキリスト共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。」(ローマ6:1~4)

パウロに反対する人たちは、全くの言いがかりとも言えるような反論を投げかけました。「恵みが増すように罪の中に留まった方がいいのか!」と。これが間違いだと言うことは一目瞭然です。なぜなら私たちのうちにすでに罪が存在して、いつも自分の存在と信仰を脅かそうとしていますから。罪の本当の怖さを知らない人は、このような言葉遊びのような反論をします。キリストの名によるバプテスマを受けた人は、すでにキリスト共に葬られたのであり、キリスト共に死んだも同然なのです。キリストと一緒に磔(はりつけ)にされたと言うことです。自分だけの死でしたら、本当の意味で死んだことにはなりませんが、キリストと共にその死にあずかるバプテスマは、もはやキリストの十字架の血によって、罪が赦されるのです。自分の罪と死に死に切ることができるのです。

あのユダの死のような自殺は、自分をどこまでも主張して死ぬと言うことであり、自分の罪を帳消しにすることはできません。どこまで行ってもその罪はそのままであり、処分されないまま残ります。そしてその結果は、永遠の滅び以外のなにものでもありません。でもキリスト共に死ぬと言うことは、その罪が贖われること、赦されるのです。「義」という感じで何度も説明してきましたが、自分という罪を神の子羊キリストの「羊」が覆い隠してくれるのです。でももし、この「羊」がなければ、「我」の世界です。自分、自分、自分中心の世界、まさに罪そのものです。

この自分のうちにある罪に対して死に続けるというのが、信仰生活です。信仰の戦いです。パウロはそのことをこの6章で、何度も何度も言葉を変えて言っています。「死にあずかるバプテスマを受けたのだ」(3節)「キリストと共に葬られたのだ」(4節)「キリストと一体となって死の姿にあやかるならば」(5節)「古い自分は十字架につけられた」(6節)「キリスト共に死んだ」(8節)「あなたがたは罪に対して死んだ」(11節)

それだけ私たちのうちにある罪はしつこいということです。一回死んだだけではなく、何度も何度も死に続けなければ自分のうちにある罪はなくなりません。いや、一生この戦いかも知れません。なぜならば、わたしたちは自分というものに、死ななければ生かされないからです。十字架の死を通して初めて復活の光に入るのです。自分というものがしっかりと生きていては、神様の用いる真の道具とはなって行きません。自分というものにしっかりと死んで行くことよって、初めて神の御業がその人のうちに現われて来るのです。

皆さん、ここでもう一度「拡大する人生」の大事な言葉を思い出してみましょう。「あなたはキリストにある新しい命の故に、未信者の友達を見下げたりしていませんか?怒りや欲求不満、憤慨や肉欲を感じ、それがあなたの生活に現われていませんか。こうした内側の矛盾のために、自分は本当の自分ではないと感じたことはありませんか。きまり悪く感じることはありませんか?あなたを見守っている人たちの前で、心に勝利を収めているふりをしようとしていませんか。そして、そのような生き方は本物ではないと知っているのではないでしょうか。

あなただけではありません。他の人たちも同じようなことを経験しました。彼らは本当の状態を隠して、心に勝利を収めているクリスチャンの役を演じました。彼らは主のための活動で忙殺され、忙しく立ち働いていれば、聖い生活が自然とできると考えました。しかし、次第に現実を否定できなくなりました。彼らは嘘の生活をしていると認めました。心に勝利がなかったのです。自分が偽善者であると思い、落胆して、クリスチャン生活から徐々に身を引いて行ったのです。

あなたはこのような状態に陥る前に知っておくべき事実があります。既に学んだことですが、すべてのクリスチャンは新しい性質と古い性質を持っていると言う事実です。あなたが古い性質を変えようと努力しても新しい命であるキリストをまねることはできません。あなたがなすべきことは、古い性質に逆らって、新しい性質であるキリストを選択することです。古い性質を十字架につけるのです。肉の思い、罪の道を捨て去り、キリストを選びとることです。」(「拡大する人生」P60~61)

この文章は、「拡大する人生」のハイライトの一番心を打つ文章です。それはキリストのようになろうとすることではなく、あなたの心に主をお迎えしてキリストに自分の人生と生活と自分の心を明け渡すことです。そして聖霊に満たされることを祈るのです。キリストに顔を向けるだけでいいのです。主に顔を向けるのです。(Ⅱコリント3:16~18)それだけでいいのです。

それがあなたの選択です。これが信仰の決断です。バプテスマの時だけでなく、生きている限り、この信仰の決断、キリストを選びとると言うことが大事です。別な言葉で言いますと、古い肉の自分に死んで、霊の新しい自分に生きると言うことです。イエスの十字架を信じているなら、主はそのようにわたしたちを造り変えて下さいます。「割礼(バプテスマ)の有無は問題ではなく、大切なのは、新しくされることです。」(ガラテヤ6:15)これこそ真のバプテストです。水に全身を沈めるという形式だけではなく、霊のバプテスマ、心のバプテスマが大事なのです。

そうすれば、あなたのうちにある神の霊があなたを活かし、あなたを導いてくれます。自分の思いではなく、神の思い聖霊様の導きに従うことです。この繰り返しがわたしたちの信仰生活であり、聖霊の導きを選びとることがその戦いの勝利の秘訣です。キリストを心の内に迎え入れ、聖霊の導きに委ねる生活です。これがキリスト共に死に、キリスト共に生きるという生活です。

3.神の義の道具

「従って、あなたがたの死ぬべき体を罪に支配させて、体の欲望に従うようなことがあってはなりません。また、あなたがたの五体を不義のための道具として罪に任せてはなりません。かえって、自分自身を死者の中から生き返った者として神に献げ、また、五体を義のために道具として神に献げなさい。なぜなら、罪は、もはや、あなたがたを支配することはないからです。あなたがたは律法のもとではなく、恵みの下にいるのです。」(6:12~14)

この心の霊的なバプテスマを続けていることによって、わたしたちは少しずつ、徐々に新しくされて行きます。自我を捨て、キリストに心を明け渡し、キリストが自分を用いて下さるような人生を歩むことができるようになるのです。あきらめず、気落ちしないで、絶えず主の前に自分の罪を告白して、十字架に立ち帰って行く時にキリストの支配が大きくなって行くのではないでしょうか。すぐにカチン、コチンと来なくなります。切れにくくなってきます。愛と寛容と忍耐の霊的な賜物によって、霊的な実をつけて来ます。内側から聖められて、その変化が言葉や態度や行動に表れて来ます。

若いころは、いろいろと自分の理想や方策というものを考えていました。でももう何もすることがなくなってから、ようやく神様がわたしたちを使おうとするのではないでしょうか。それまでは、若さゆえの自分の力が邪魔をして神様の良い器になることを妨害していたかもしれません。パウロは自分の「五体を義のために道具として神に献げなさい。」(6:13)と言っています。わたしたちも時間をかけて、神様の道具になって行くのではないでしょうか。90歳まで時間をかけてみるつもりで、少しずつ変えられてゆきたいものです。自分が自分の道具である体を使うのではなく、神様が使うのです。わたしたちは単なる道具なのです。英語では道具のことをInstrumentsと言っています。いわば楽器という意味があります。音色を出すのは神様です。

つまり自分自身の若々しい命に死に切ることによって、もはや自分ではなく、自分は死んでしまってキリスト様だけが自分を支配するようになることを願うのです。これが神の道具です。吹くのは神様です。所有者も神様です。神様にしっかりと心を向ける時に、神様が息を吹いて下さって心地よい音色を奏でてくれるのです。尺八は尺八の音を出し、ギターはギターの音を出します。それぞれ違う音が出るのです。みんな同じ音ではありません。和楽器もあれば洋楽器もあります。東南アジアの楽器もあります。それぞれ違う音ですが、それらが一緒に演奏するならば、そこにすばらしいオーケストラができるのではないでしょうか。これがわたしたちの教会であり礼拝なのです。それぞれの「身体を義のために道具、即ちキリストのための道具として神に献げなさい」(6:13)と言っています。

最後にこの6章22節の最期の言葉を読んでみたいと思います。「あなたがたは、今は罪から解放されて神の奴隷となり、聖なる生活の実を結んでいます。行き着くところは、永遠の命です。罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです。」(6:22~23)
わたしたちは皆、キリストのバプテスマにあずかった者として、日々に自分の罪に死んで、キリストにある新しい命に甦っています。これが聖なる生活です。聖なる生活とは、「聖」という漢字の示す通り、耳で聖書の御言葉を聞き、口で罪を告白して祈りつつ、心に王なるキリストをお迎えする生活のことです。

その行き着く先は、永遠の命です。でももし罪の奴隷となって行くならば、その行き着く先は確実に死が待っています。命の道を取るか、死の道を選ぶかは、わたしたちの日々の信仰の決断にかかっています。わたしたちはすでに、イエス・キリストの大いなる恵みの下に移されている者ですですから、いつもこのお方を見上げて、主の前に自分の罪を告白しつつ、イエス・キリストに自分の心を明け渡して、聖霊様の豊かな導きを祈り求めて歩んで参りましょう。

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