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キリストの昇天 (使徒言行録1:6~11)

メッセージ

2015年5月17日富里キリスト教会

「キリストの昇天」
(使徒言行録1:6~11)

1.教会を離れないで約束された聖霊を待つ

イエス様が復活されてから天に帰られるまで、40日間、弟子たちに復活の事実を告げ知らせました。この40という数字は、苦難の数を現しています。40年間、荒野の旅をしたイスラエルの民、イエス様ご自身も、40日間荒野でサタンの試みに会われました。ですから、この復活から昇天までの40日間と言いますのは、弟子たちにとってはある意味では試練の時ではなったかと思います。イエス様にとってもそうでした。なかなか復活ということを信じてもらえないで、何度も弟子たちに現われては説明していたのです。

あるものは、エルサレムから離れて行って自分の実家に帰って行きました。あるものたちは、漁師という元の職業に舞い戻って、昔の生活をして生計を立てていました。あるものは、復活など絶対にないと言って復活を否定しました。ですからこの40日間は、弟子たちにとりましては信仰が揺さぶられ、試される時でもあったのです。

私達もそうです。バプテスマを受けて三年間くらいは、一生懸命教会生活を守りますが、4年目あたりになると、「復活なんてあるのだろうか。」と疑問を持ったり、他の兄弟姉妹と自分を比較して優越感に浸ったり、逆に落ち込んだりする時期かもしれません。いわば非常に不安定な信仰生活の時期として、40日間という試練の期間があったのではないでしょうか。その間、ある人は信仰の確信を失って礼拝を休んだり、教会に来なくなったりします。よくバプテスマを受けて、4人に1人しか残らないと言われる時期かもしれません。でもイエス様はこう言いました。「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。」と。(ルカ24:49)

私も同じように言いたいです。信仰に入ってまだ確かな確信、特に復活というものがなかなか信じられないという方もおられるかもしれません。自分だけが不信仰じゃないだろうかと、不安を覚えているかもしれません。他の人はみんな確信を持っていい働きをしているのに、自分はなにか皆よりも劣っているのではないだろうかと考えている人もいるかもしれません。でも、決して群れから離れてはいけません。たとえまだ確信がなくても、不安でも、疑いや疑問だらけでも、群れから離れないで待っていなさいと主は言っておられます。(教会の葬儀での確信)

2.間もなく聖霊のバプテスマを受ける

この聖霊のバプテスマを受けると、力が与えられるとあります。そしてエルサレムだけではなく、ユダヤとサマリヤの全土まで、更に地の果てに至るまでキリストの復活の証人として出かけて行くとあります。弟子たちは今すぐにも神の国が実現すると思いました。でも主は、その神の国の実現はわたしたちの知るところではなく、その前に、聖霊がわたしたち一人一人の上に下る時が来るのだというのです。そして力が与えられて、エルサレムから始まって近隣のユダヤサマリヤ、最後は地の果てまでもキリストの証人となって出かけて行くと預言されました。つまり聖霊のバプテスマによって、一人一人に力が与えられて、地の果てまでキリストの証人となって行くというのです。

なぜ日本人のクリスチャンは伝道しないのか、いつも教会の内側にひしめき合って、仲間同士で結束をして他の人々を受け入れようとしないのか。それはやはり、この聖霊のバプテスマを受けていないからではないでしょうか。聖霊のバプテスマというのは、まず信仰を告白する時にその人に御霊の最初の力が働いて最初の実を結びます。これが聖霊のバプテスマです。信仰告白です。しかし聖霊のバプテスマは、最初の信仰決心の時だけではなく、その後も、この聖霊のバプテスマを受け続けて聖霊に満たされなければなりません。この二千年前にすでに聖霊のバプテスマは始まりました。誰でも主を信じて受け入れ、この聖霊様を求め、聖霊様に満たされることを願うならば、誰でも例外なく聖霊のバプテスマを受けることができます。

そのためには、先ほども言いましたように、教会を離れずに、仲間たちと一緒に絶えず教会堂に行って主を礼拝すること、そして真心から感謝と喜びを持って主の残された晩餐式を守り、兄弟姉妹と愛の交わりと励ましをして行くことです。今月末には賛美礼拝がありますが、全員が集まっていつもの礼拝よりも、主に向かって賛美を捧げて行きたいと願っています。そのようにして教会が一致を保って歩んで行く時に、私たちの上に聖霊が豊かに降り注がれるのです。そして一人一人が上からの力に満たされます。祈りと賛美が教会の大きな力になります。

そしてわたしたちがこの聖霊のバプテスマを受け、聖霊様に満たされる時に、何が起こるかと言いますと、宣教即ち御言葉を語りことが起こるのです。今日の教会学校の礼拝でも話しましたが、「恐れるな。語り続けよ。黙っているな。わたしがあなたと共にいる。だから、あなたを襲って危害を加える者はない。この町には、わたしの民が大勢いるからだ。」(使徒言行録18:9~10)という主の御言葉を学びました。

聖霊を受けると恐れが消えるのです。これを話したら、関係にひびが入るのではないだろうか。あるいは、馬鹿にされるのではないだろうか。恥をかくのではないだろうか。あるいは「あんたクリスチャンだったの。へ~。人は見かけによらないわね。」と言われるのではないだろうかと、いろんな不安や恐れ、心配があります。でも聖霊のバプテスマを受けると、たとえ相手がどんな反応をしようとも、大胆に愛をもってその人に福音を語ることができるようになるのです。

3.キリストの昇天と再臨

弟子たちは主が昇って行かれる姿を見上げていると、そばにいた二人の御使いがこう言いました。「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。」(1:11)と。

私はこの場面は、主の再臨に際して私たちがどのようにして天に引き上げられるのかということを、予告した場面ではないかと思っています。第一テサロニケ5:16にこうあります。「すなわち、合図の号令がかかり、大天使の声が聞こえて、神のラッパが鳴り響くと、主御自身が天から降って来られます。すると、キリストに結ばれて死んだ人たちが、まず最初に復活し、それから、わたしたち生き残っている者が、空中で主と出会うために、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられます。このようにして、わたしたちはいつまでも主と共にいることになります。」(Ⅰテサロニケ4:16~17)

主の再臨の時には、わたしたちもこのキリストの昇天の時と同じように、霊の体、栄光にか輝く復活の体に一瞬にして変えられて、天に引き上がられてゆくのではないでしょうか。そのことをこの主の昇天はあらかじめ示しているのです。それはこの御言葉をそのとおりに信じるほかありません。だれも死後の世界を体験したことが無いように、この主の再臨に際しての私達の昇天もただ信じる以外にしかないのです。そしてそのことは、真理の御霊である聖霊様が教えてくださいます。

聖霊降臨、ペンテコステの出来事がすでに二千年前に起こった以上、そしてキリストの弟子達が、全世界に福音を宣べ伝えて、今日教会があちこちに建てられている以上、主の再臨も必ず起こります。そしてわたしたちの昇天も起こることを、御言葉は約束しています。ですから、今はこの福音を宣べ伝えるべき時です。もし、わたしはまだそこまで勇気がありませんという方は、待っていましょう。再度聖霊のバプテスマが与えられます。上から力が与えられて、地の果てまでも福音を宣べ伝えようという力と勇気が湧いてきます。地の果てとは、インドネシア、アフリカだけではなく、まだ福音を聞いたことのない人々の心の扉を意味しているのではないでしょうか。一歩足を踏み出しましょう。一言自分の救いを証しましょう。勇気を持って。  

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