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キリストの弟子をめざして (ローマ7・24~25)

メッセージ

2010年7月11日富里教会
キリストの弟子をめざして」
(ローマ7:24~25、8:12~17)

1. 私という罪

人間はもともと神様に造られ、神様と交わりを持っていた存在でした。神様の最高作品でした。でも、アダムがサタンである蛇の誘惑に負けて、エデンの園の善悪を知る木の実を食べてから、自分の目が開かれました。この時から人間は、私という自我を持つことになりました。これを、聖書では罪といいます。神中心の世界から、自分中心の世界に変わりました。そして、自我に目覚めた人間は、自分が裸である事を恥ずかしく思いました。また、もう一人の人間エバが、自分とは異なる体であることに気がつき、アダムは自分の身体を、無花果の葉で隠しました。ここに自分の欠点や弱さを隠して、何とか相手よりよく見せようとする私=自我という罪の姿があります。ですから、生まれながらに人は全て、罪人であり、例外なく罪の支配のもとにあるのです。

それでも、神様は私たちを愛して下さって、御ひとり子イエス・キリスト様をこの世に遣わされ、イエス様の十字架の贖いによって、私たちの罪をことごとく赦して下さいました。イエス様は、サタンが足場とする人間の肉をとってこの世に来てくださり、ご自分の肉を十字架につけることによって、肉の中に働く罪の支配を打ち砕き、断ち切って下さったのです。ですから、イエス・キリストを信じる者は、自分の心の中の「自我=I」に死んだ者です。「SIN=罪」という言葉の真ん中にIがあります。この「I=自我」に死んだ者は、Oになります。するとSINからSONになります。つまり、「I=自我」に死んだ者はSON=神の子になります。「SON=神の子」とは、イエス・キリストと共に十字架の上で死んだ者なのです。そして、イエス・キリストと共に甦った者であり、罪の支配に勝利した者なのです。

ですから、イエス・キリストを自分の心の中に受け入れ、信じる者は罪赦され、すでに神の子とされ、天国に自分の名が記されている者なのです。でも、私たちは、現実にはまだ、この肉体を持って地上に生きています。ですから、まだ罪がこの肉の中に残っているのです。ですから、たとえ主を信じ、神の子とされたにもかかわらず、私たちの人生には罪の誘惑とそれとの闘いがあります。

バプテスマは一回限りですが、肉との戦いは、生きている限り生涯続きます。先ほどの弟子の人格のように、たとえ弟子であっても、たとえ主を信じて天に向けて霊の窓を開いていても、時には、サタンの誘惑にあって、下の肉の窓を開いてしまうこともあります。両方の窓が開いて、心の中に「I=自我」という罪が頭をもたげてきて、負けてしまうこともあるでしょう。

ローマ7:24に、パウロもこう嘆いています。「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。」と。これも現実のクリスチャンの姿です。「I=私」という自分を見るときに、「I=私」という立場に立つときに、自分でも良いことをしようと思うけれども、それができないみじめな現実の自分があるのです。

それでも、私たちは救われているのです。先ほどの肉のクリスチャンであっても、私たちはすでに救われているのです。サタンは、いつも「お前はもうだめだ。それでもクリスチャンか。クリスチャン失格。ユダのように飛び降りて自殺してしまえ。」と挑発してきます。でも大丈夫です。そういう肉につけるようなクリスチャンでも、すでに救われているのです。たとえ、肉の窓が開いて、肉的なクリスチャンであっても、私たちはすでに神の子なのです。それは変わりません。

次の25節を読んで下さい。「わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。このように、わたし自身は心では神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えているのです。」と言っています。たとえ、神と罪の両方に仕えるようなことがありましても、分裂したような人間でも、イエスの十字架の故に、私たちはすでに救われているのです。神の霊が心に宿り、聖霊様が保証人となって下さっているのです。ですから、たとえ霊の窓と肉の窓の両方が開いているような者でも、まず神様に感謝しなさいとパウロは言っているのです。

2.感謝の祈りの力

ここで大切なことは、感謝することです。何事も、全てのことにです。仕事が辛い、それも感謝。家族のことで悩みを抱えている、それも感謝です。梅雨で雨が多く、庭の雑草が生えて来た。これも感謝です。私も教会の庭の草取り大変でした。赴任してから2年間、サタンとの闘いよりも草との闘いが大変でした。でも、全て感謝ですから、一株一株、感謝しながら引き抜きました。お蔭様で、もうすぐ雑草に勝利しそうです。

この感謝の祈りが、肉の窓を閉じ、心の霊の窓を開いてくれるのです。なぜ感謝の祈りがそんなに力があるのでしょうか。それは、聖霊様によって祈るからです。聖霊様が、私たちが苦しい時でも、神様に最高のふさわしい祈りを、代わりに捧げて下さるからなのです。祈りは聖霊様の助けによって、私たちの心の内におられる聖霊様御自身の声だからです。

感謝の賛美歌が一杯ありますね。「感謝を捧げることは、あなたの力です。・・・朝に夕に、とこしえまでも王なる主を讃えましょう。」(「主イエスを喜ぶことは」より)「感謝します。試みに合わせ、鍛えたもう主の導きを。感謝します。苦しみの中に育てたもう主の御心を。しかし、願う道が閉ざされた時は、目の前が暗くなりました。どんな時もあなたの約束を、忘れない者として下さい。」(「感謝します」より)試みの中でも、苦しみの中でも、道が閉ざされても、主に感謝を捧げることです。それが勝利の道です。感謝こそ勝利の力です。

最後に、一人の姉妹の証をして終りたいと思います。この女性は、父親がアルコール依存症でしたので、中1の時には道端にさ迷いながら歩くような生活でした。そこからどんどん落ちて行ったのですが、自分を奮い立たせて、大学に行き小学校の教員になりました。ある時、クラスの中の一人の子が、自分が今度バプテスマを受けるので、その前にヨハネ3:16の御言葉を暗記しなければならないので、聞いて欲しいと頼まれました。その子は、大きな声で「神はその一人子を賜ったほどに、この世を愛された。」と言いました。それを聞いた先生の目に涙が込み上げてきました。そして生徒と一緒に、教会の礼拝に出席しましたが、礼拝の間中、彼女の目から涙が止まりませんでした。

アパートに帰ってきた彼女を待っていたのは、泥棒でした。お金がなかったので、彼女は顔を殴られました。そして部屋から逃げようとする泥棒を引き止めて、さっきのヨハネ3:16のみ言葉を読んであげました。そうしたら泥棒は、自分には病気の母親がいて金が欲しかった。でも赦して欲しいと彼女に謝りました。泥棒は去って行きましたが、彼女は今までの自分の罪深い生活を悔改め、イエス・キリストを信じる決心をしました。ちょうどその時、同棲していたボーイフレンドにも、イエス様を信じて一緒に教会に行くようにと勧めましたが、彼は断って部屋を出てゆきました。その後、バプテスマを受けた彼女は、宣教師となって主に仕える人生を歩んでいます。

神様は、わたしたちがこの神様の霊によって、勝利の人生を歩まれることを望んでおられます。十字架の上で罪の勝利して下さったイエス・キリスト様を心にお迎えするならば、だれでも罪赦され神の子とされます。たとえ、人生の中で肉の窓を開いて時には罪に負け、失敗するようなことがありましても、イエスの十字架の恵みの故に、あなたはすでに神の子なのです。聖霊様によっていつでも「天のお父様!」と呼べる特権が与えられています。感謝を捧げることができます。神様をほめたたえることができます。勝利の人生を歩ませて下さいます。今日、まだこのイエス・キリスト様を心の中に迎えておられない方がおられましたら、今日、イエス様を受け入れて信じることをお勧めします。
                                     (岡田 久)

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