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キリストの受けた傷 (イザヤ53:5~9)

メッセージ

2016年3月13日富里キリスト教会

キリストの受けた傷」
(イザヤ53:5~9)

1.すべての罪を負われた主

今日のイザヤ書の御言葉を読んでみましょう。
「わたしたちは羊の群れ、道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。その私たちの罪をすべて、主(父なる神)は彼(キリスト)に負わせられた。苦役を課せられて、かがみ込み、彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる子羊のように、毛を切る者の前に物を言わない羊のように、彼は口を開かなかった。捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。彼の時代の誰が思いめぐらしたであろうか、わたしの民の背きのゆえに、彼が神の手にかかり、命ある者の地から絶たれたことを。」(53:6~8)

ここに罪とは何かということが記されています。6節に「道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。」という言葉です。つまり罪というのは、何か悪いことをしたということもありますが、その根本的な所は、道を誤って自分勝手な方向に進んで行っているということです。口語訳では、「自分の道に向かって行った」とあります。つまり、神に向かって心を向けるのではなく、自分の道を行くことです。これが道を踏み誤るということであり、的外れ、目標のない人生ということです。罪の状態です。自分では真っ直ぐ歩いているようでも、自分の道を歩むならばそれは道を誤っていることになります。すべて自分、自分なのです。その行き着く先は死以外のないものでもありません。

あの弟子の一人ユダは、暗闇に向かって姿を消しました。決して振り返って涙を流すことはありませんでした。自分が裏切り者の張本人であるにも関わらず、何の良心の呵責も心の痛みもないまま、主の愛と憐れみを振り払って闇の中に消えて行ったのです。ユダには悔い改めはありませんでした。でも主はそういうユダのためにも血を流されたのです。ペテロも裏切りました。でも彼は涙を流して泣くしかなかったのです。自分の弱さふがいなさ故に泣いたのです。そういう弱い自分のためにも、主は憐れみをもって十字架の上で命がけでとりなしていて下さると言うことを知りました。それがペテロの涙です。これが悔い改めると言うことです。

わたしはこのイザヤ書に預言されたキリストが、どこまでわたしたちの罪と弱さを担って下さったのか、53章の中からその言葉を拾い上げてみました。3節から見てみますと、キリストはわたしの代わりに「多くの人から軽蔑された。」「人々に見捨てられた。」「痛みを負った。」「病をこうむった。」「人々に無視された。」「神に打たれた。」「神に苦しめられた。」「槍と釘で刺し貫かれた。」「神から打ち砕かれた。」「神によって懲らしめを受けた。」「傷を受けた。」「苦役を課せられた。」「逮捕された。」「裁判にかけられた。」「命を取られた。」「地上から絶たれた。」「反逆者と一緒に埋葬された。」

わたしたちが経験することのできないほどの多くの苦しみを、この苦難の僕は受けられたのです。しかもそれは自分の蒔いた種ではありません。自業自得ではないのです。すべてわたしたちの罪の身代わりになって受けて下さったのです。ペテロの弱さのためにも、ユダの自我の強さのためにも、そしてわたしの罪のためにもです。罪に対する一切の責めと懲らしめを、御自分の上にお受け下さったのです。6節に「わたしたちは羊の群れ、道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。その私たちの罪のすべて、主(父なる神)は彼(キリスト)に負わせられた。」とあります。わたしたちの罪のすべてを御子の上に負わせられたのです。裏切りも、嘘をついたことも、従わなかったことも全ての罪を御子の上に負わせられたのです。

しかし、人間の深い罪の根は、その自分の罪過ちをさえ、どこまでも隠し通そうとするところにあります。自分の罪を告白するならば、そこに大きな主の恵みと赦しの力が即座に働きます。「自分の罪を公に言い表すならば、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを聖めて下さいます。」(Ⅰヨハネ1:9)とあります。(Ⅰヨハネ1:8~10)逆に罪の力、サタンの声は、「大丈夫、お前は悪くない。黙っていれば誰も知らない。」です。サタンは罪をどこまでも隠し、自分を義として、闇の中へと逃げ込んでしまおうとさせます。

なぜ自分の罪を認めて告白するだけで赦されるのか、このイザヤ書の苦難の僕の歌にありますように、イエス・キリストがわたしたちの罪の一切の苦しみとその責任を、御自分の身に負って下さったからです。わたしたちが受けるべき罪の代価を、全部、神御自身であるキリストが負って下さったのです。そしてわたしたちを無罪放免、罪なき者として神の前に立たせ永遠の命を与えて下さったのです。どんな罪でも赦されます。これが福音です。それを成し遂げて下さったのが、イエス・キリストの十字架です。わたしには罪がない、罪を犯したことがないという人は、自分を偽っているのです。主の十字架とは何の関係もない人です。(Ⅰヨハネ1:8~10)教会は罪人の集まりであり、イエスの血潮によって、無償で赦されている人々の集まりです。これが本来の羊の群れである教会の姿です。

2.キリストによって成し遂げられる

主イエス・キリストは、そのためにこの世に肉を取って来て下さいました。御自分のなすべき使命を十分にご存じでした。53:10を読んでみましょう。
「病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ、彼は自らを償いの献げ物とした。彼は、子孫が末永く続くのを見る。主の望まれることは、彼の手によって成し遂げられる。」(53:10)

父なる神は、御自分の一人息子イエス・キリストが罪の贖いの供え物として、全人類の罪のために十字架に架かられて苦しみ、あげくの果てには命を取られてしまうことを望まれたのでした。神はそのことを望んだのです。父親がわが子を罪人の身代わりとして、罪の代価を支払うことを望まれ、病を負わせただけではなく、その病を担った上に更に、死まで経験することを望まれました。「打ち砕く」という言葉は、ただ単に「死ぬ」とか「絶たれる」という言葉よりももっと残酷なような気がします。

わたしは苦しみを与えてそれをじっと見ている父親もそうですが、その親の気持ちを汲んで、黙々とその苦しみを耐えて従っているわが子の姿もすごいと思います。一言も口を開かなかったのです。もし、イエス様が途中で、その苦しみに耐えかねて、十字架を止めてしまったらどうなったでしょうか。苦しむ代わりに、天使の軍勢が来て十字架からイエス様を下ろして、悪い人々を一網打尽に成敗してしまったらどうなったでしょうか。おそらく、わたしたちの罪は償われないまま残ったのではないでしょうか。

ではどうして父は、わが子を十字架につけることを望まれたのでしょうか。そして、なぜ御子は、屠場に引かれて行く子羊のように、一言も発しないで黙々と最後の最後まで従い通したのでしょうか。それは、神がこの世をそしてわたしたち一人一人を愛して下さったからです。わたしたち一人一人を、わが子を与えるほどに愛して下さったのです。「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに神の愛が私たちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」(Ⅰヨハネ4:9~10)

この愛の神様の御心を御子は十分に知っておりましたから、ただひたすら忍耐と従順をもって、御父の御心に従い続けたのです。この御子イエス・キリストの従順と信仰によって、そして御子の御苦しみによって、救いが成し遂げられたのです。わたしたちの罪がすべて贖われ、御子の十字架を通して私たちに救いの道が示されたのです。そして迷いの道から救い出され、羊の群れである教会へと連れ戻していただいたのです。わたしたちは羊の群れなのです。羊飼いに養われ、神の愛の内に憩いと安らぎの中を歩む群れです。

でも、口では従いますと言いながら、何か不利なことが自分の身に降りかかると主なんか知らないと言ってしまうようなわたしたちです。それでも主の十字架の恵みは、常に私たちの上に注がれています。弱い自分、すぐに罪を犯してしまう自分、口ほどにもない自分ですが、そういう私たちのために今もなお罪を贖い執り成していて下さるお方がおられます。ですから、遠慮することなく、自分の罪や非をそのまま告白して行くものとなりましょう。主はわたしたちの罪をすべて、どんなことでも代わりに負って下さり、わたしたちに命と平安と希望を与えて下さいます。

また、わたしたちが受けた心の傷も、主が身代わりになってくださり、その痛みも苦しみも全て十字架の上でいやして下さいます。もし、いまだにいやされない心の傷を負っている方がいましたら、主の前にそのことを告白しましょう。イエス様が、その傷も痛みの悩みも全て、身代わりになって受けとめて下さり、わたしたちに安らぎと平安を与えて下さいます。今週、来週とまだ受難節が続きます。罪の告白の祈りをもって十字架の主を見上げ、その大きな神の愛と御子の恵みを感謝しつつ歩んで行きたいと願っています。  

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