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キリストに結ばれるバプテスマ (ローマ6:1~11)

メッセージ

2012年6月2日富里キリスト教会

「キリストに結ばれるバプテスマ」
(ローマ6:1~11)

1.クリスチャンの古い罪の根っこ

今朝は、バプテスト教会の主張するバプテスマとは何かということを、パウロの手紙から学んでゆきたいと思います。パウロの手紙は、少し回りくどいと言いますか、しつこいと言いますか、同じ事柄が言葉を変えて何回も繰り返し、繰り返し語られている箇所があります。この6章の前半部分はバプテスマについて、同じことが七回言葉を変えて繰り返し語られています。また、6章の前の7章でも、12節からの「アダムとキリスト」と言う段落のところでも、人間の罪が増大しても、キリストの恵みがもっと満ちあふれるということが、七回も繰り返して述べられています。そして、この6章の後半部分の15節からも、罪の奴隷と義の奴隷の違いとその結果について七回繰り返し語られています。

これは何を意味しているのかと言いますと、バプテスマを境にして、バプテスマを受ける前の自分、そしてバプテスマを受けた後の自分について述べているような気がします。つまり、私たちが罪人であった時にも、キリストは既に十字架において私たちの罪を赦して下さっているという恵みの大きさを述べています。そしてまた、バプテスマを受けた後も、恵みのもとに置かれている者として、神の僕として聖なる生活を送るようにと勧めているのです。この神のもとに置かれている生活の始まりが、バプテスマだということではないでしょうか。

この救われる以前におけるキリストの恵み、救われた時のバプテスマの恵み、そして救われた後の人生の恵みという三つの段階のことが、七回づつ語られていることになります。ということは、私たちが何度も何度も主の恵みを思い出して、主に選ばれ救われた者として、信仰を持って生きること。そして、失敗しても、罪を犯してしまっても、常にキリストの大きな恵みのもとに立ち帰って、絶えず聖い生活をめざし、その結果である永遠の命に至ることができるようにと励ましているのではないかと思います。(ローマ6:22~23)

つまり、キリストによる救いは一瞬にして起こりますが、私たちが救いの実を結んでゆくには時間がかかることを意味していると思います。救いの継続が大事です。種を蒔いて、すぐに実がつく植物はありません。時間をかけて、時を待ちながら、水や肥料を施したり、雑草をとったり害虫を駆除したりしながら育ててようやく花が咲き、実がつくのです。ですから、パウロは七回も繰り返し繰り返し、神様の恵みの大きさについて語っているのです。

古い根っことは何でしょうか。それは、私たちの心の中にある古い根っこです。固い心、苦い根、人を赦せない心、ガンバリズム、そういう根がまだ残っているのです。バプテスマを受けただけでは、拭いきれないものが解決できない問題が残っているのです。もちろんそれらを持ったままでいいのです。イエス様の十字架はそのようん私たちの苦い部分、闇の部分も最終的には全て掘り起こして下さり、良い地にして下さるのです。それが信仰生活です。

時には、長い信仰生活の中で、前よりも大きな深い根っこを抱え込んでしまうことがあるかもしれません。これをまた、掘り起こす作業も必要です。時間も労力もかかります。でもそれがこの宣教の働きであり、教会生活です。伝道と牧会の働きではないでしょうか。固い大きな根っこは、なかなか抜けないかもしれませんが、でも、いつかは必ず抜けます。それは私たちがイエスに結びつくバプテスマを受けたからです。すでにキリストの恵みの中に入ったものなのです。キリストの勝利の中に移され、キリストの十字架と共に自分というものに死んだものです。

つまり何を言いたいかと言いますと、神の畑である皆さんがたくさんいろんな作物を実らせるためには時間と労力がかかるということです。バプテスマを受けて劇的に変化して、翌日から完全な人間になったという人は誰もいません。時間をかけて、草取りをし、木の根っこを抜いたり、石や砂利を私たちの心の畑から少しずつ取り除いて行きます。ですから、パウロは同じようなことを何度も何度も繰り返して、口がすっぱくなるほど語っているのです。バプテストの場合もそうです。バプテスマの儀式は一回限りですけれども、毎日古い自分に死んで、新しく生まれ変わって行くのです。成長の始まりが、バプテスマだということです。

2.キリストの死と復活の姿と一体になる

6:3から読んでみましょう。「それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるためにバプテスマを受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるためにバプテスマを受けたことを。私たちはバプテスマによってキリスト共に葬られ、その死にあずかる者となりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、私たちも新しい命に生きるためなのです。もし、わたしたちがキリストと一体になってその死にあやかるならばその復活の姿にもあやかれるでしょう。」(ローマ6:3~5) 

5節に、「キリストと一体となる」と言う言葉がありますが、これは原語のギリシャ語では、スィンフュトスと言う言葉になっています。(K.J.訳=We have been planted together )これは、一緒に植えるという意味があります。ですから、新改訳聖書では「一体となる」を「キリストにつぎ合わされる」と訳しています。つまり、イエス・キリストという元の木にわたしを継ぎ合わせると言うことです。接ぎ木のイメージではないかと思います。

つまり、イエス・キリストという元の木に自分を接ぎ木するのが、あの水に沈める浸礼のバプテスマだということです。イエス様に紐でしっかりと縛られて、一緒に水に入る、これはキリストの死にあずかるバプテスマです。一度古い自分、罪の自分に死ななければならないのです。この自分に死ぬということはなかなか難しいことです。中には、バプテスマの時に、どうしても体を水に沈めるのが恐くなって、わたしが沈めようとしましたら、水槽の淵に必死に手をかけて沈むまいとされた方がおられました。気持ちはわかりますが、バプテスマは、観念してキリストと共に水に沈んで、一緒に死ぬということを意味しています。

誰でも死ぬことは正直言って恐いです。死にたくはありません。それはまだ、自分の罪というものが良く解っていないからではないでしょうか。自分の罪の大きさに気づけば、自分に死にたいと思います。わたしの罪のためにイエス様が、十字架にかかって下さった。このお方を受け入れ、一体となってこれからの人生を歩んで行きますというのが信仰です。

長い人生では、時には、本当に水の中に沈められるような苦しい時を通らせられることもあると思います。その時に、ああ、自分はあの時イエス様と一緒に沈んだんだ、イエス様と一緒だから死んでもいいと思って、その水の底のような状況の中でも、主にすべてを委ねる訓練をさせてもらえるのではないでしょうか。これがキリストの死にあずかるバプテスマです。心のバプテスマです。自分という思い、自分の考え、自分のポリシーに死に切るための浸礼のバプテスマを、その後も経験するのです。そして、だんだんイエス様とのきずなが深まり、縛った切り口からイエス様の養分と水分がだんだんと濃くなって行くのです。そして、イエス様に少しずつ似たものとされてゆくのではないでしょうか。この過程が私たちの信仰生活です。

元の木に接ぎ木された枝の方はどうですか。すぐに、元の木のような良い木になるでしょうか。なりません。接ぎ木された枝が、元木のようなきれいで立派な実をつけるようになるまでは何年もかかります。元木は元木、接ぎ木は接ぎ木のままです。でも何年もの間、長い年月が経つと、縛っていた紐をとっても、木はしっかりと繋がっています。そして、やがて元木か接ぎ木か解らないほどに、一体となり、まるで元木のようになり、元木と同じ花を咲かせ、おいしい実をつけます。これがキリストの復活の姿にもあやかるようになるということです。

この二本の木が、つなぎ目が解らなくなるまでに一体となるには、何年もかかりますが、着実にこの二本の木は、しっかりと交わっているのです。さて、この元木と接ぎ木の間に、一体何が起こっていたのでしょうか。そうです。元木の養分を接ぎ木がしっかりと受け取って十分に養われたからですね。これがバプテスマの意味なんです。接ぎ木は、すぐには実をつけませんから、焦って頑張る必要はありません。それよりも、ただ黙ってしばらくの間、元の木につながっているだけでいいのです。そうすれば、自然と養分が行き届き、継ぎ目も皮が覆って、縛っている紐をとってもどこからどこまでが元木でどこからが接ぎ木か解らなくなっています。

今日も晩餐式がありますが、これはキリストの死にあずかるバプテスマと同じように、自分の罪を悔い改める時でもあります。主は自分の罪のために今も十字架の上で、とりなしをして下さっている恵みを感謝しつつ、罪の悔い改めをする時でもあります。古い自分に、罪の自分にキリスト共に死ぬ時でもあります。そして、聖霊の助けによって、上よりの力をいただいて主を証するために出て行く決断の時でもあります。バプテスマは一回限りですが、主の晩餐式は繰り返し繰り返し行われます。

3.キリストと一体となり続けるには

それでは最後に、私たちはどうしたら、キリストと一体になり続けることができるでしょうか。私たちは、クリスチャンとして聖い生活をしようと願いつつも、時には罪に負けて自分の弱さばかりが目につく時もあります。6:6から読んでみます。「わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。死んだ者は、罪から解放されています。わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じています。」(6:6~8)

6節に、「もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。」また、8節に「キリストと共に生きることにもなると信じます。」とあります。自分がすでにキリストと共に死んで、罪の奴隷となることはないと「知ること」です。また、「信じること」です。自分が今、このキリストの恵みの下に置かれていること、キリストに接ぎ木をされて一体となっていることを「知ること」です。そして、そのことをさらに「信じて行くこと」です。これが信仰の戦いではないでしょうか。ヨハネ15章では、「あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものは何でも願いなさい。そうすればかなえられる。あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。」(ヨハネ15:7~8)とあります。

ここではただ黙ってわたし、イエス・キリストに繋がっていなさいと言っています。そしてこの主と繋がるということは、具体的には、主の御言葉をいつも私たちの心の内に蓄えておくことです。そして、何事でも願い求めることです。つまり、「御言葉に留まり、常に祈り続けること」がイエス様と繋がって行くことです。バプテスマとは、このイエス様の御言葉の中に自分を沈めるという意味もあります。そして水からあがられる時には、聖霊の助けを持って水の中から立ち上がり、聖霊の宿る宮として祈りに専念するということではないでしょうか。水と霊によって新しく生まれ変わる儀式です。

バプテスマは、この御言葉と祈りの生活の出発点だと言っても過言ではありません。そして、元木であるイエス・キリスト様にしっかりと繋がって行くことです。そして主の晩餐式に毎回あずかるように、私達も主イエスの御名によるバプテスマの意味をいつも思い起して、主の十字架のもとに立ち帰って行く者でありたいと願っています。御言葉と祈りの生活の出発点、これがキリストに結ばれ、一体となるためのバプテスマであり、信仰生活のスタートだということです。そうすれば、やがて永遠の命の実を結ぶと聖書は約束しております。
                            (岡田 久)

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