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キリストが形つくられるまで (ガラテヤ4:8~20)

メッセージ
2019年5月19日富里キリスト教会
「キリストが形つくられるまで」(2019)
(ガラテヤ4:8~20)
1. 神に知られているわたし

ガラテヤの人々の信仰の逆戻りについて、パウロは嘆きつつも愛をもって説得しています。今日の聖書箇所を読んでみましょう。
「ところで、あなたがたはかつて、神を知らずに、もともと神でない神々に奴隷として仕えていました。しかし、今は神を知っている、いや、むしろ神から知られているのに、なぜ、あの無力で頼りにならない支配する諸霊の下に逆戻りし、もう一度改めて奴隷として仕えようとしているのですか。あなたがた、いろいろな日、月、時節、年などを守っています。あなたがたのために苦労したのは、無駄になったのではなかったかと、あなたがたのことが心配です。」
(ガラテヤ4:8~11)

ここにわたしたちの信仰の三つの状態が述べられています。第一は、「神を知らずにいた時」です。第二は、「神を知っている」と思っていたときです。そして第三の段階は、「神に知られている」という信仰です。ガラテヤの人々は、パウロによれば、大きな試練と苦難を通して、彼らの信仰が試されて、今では、神を知っているという未熟な青年の信仰ではなく、神に自分は既に知られているのだという、成熟した大人の信仰の領域まで達していたのです。

真の神様を知らない時には、神社やお祭りや、お寺に行ったり、お正月には、初日の出を拝んだり、元朝参りに行ったりしていました。日本人なら誰でもしている宗教的な習慣です。偶像礼拝に行っていても、何とも思いません。皆がしているからということで、考えもなく引っ張られて行った時です。しかしいろんな信仰の闘いを経て、わたしたちもいまでは神に知られているという信仰の領域にまで達していたのです。

聖書にもありますが、お金持ちの若い青年が、永遠の命を得るためには何をしたらいいですかとイエス様に尋ねました。そうしたら、律法を守っていますかと問われ、「いや先生そういうことは小さい時から守ってきました。両親を敬い、悪いことは何一つしません、わたしこそ永遠の命をいただくのに最適の人間ではないでしょうか」と答えました。(ルカ18:18~23)これが、自分では神を知っていると思っている時の信仰です。何か良い行いをすれば、救われるという信仰です。律法主義的な信仰です。

しかし、イエス様から、あなたの全財産を施してからわたしに従ってきなさいと言われ、彼は悲しみに顔を曇らせてイエスの前を去って行きました。神を知っているという信仰が打ち砕かれたのです。若い熱心ではあるが、未熟な信仰の自分を思い知らされたのです。彼はそこから、何も良いことができない自分、欲深い自分、財産に頼っている自分というものを思い知らされました。自分の罪と限界を示されたのです。そして、そこでつまずいて、目を主の十字架に向ける時に、そんな自分でもイエス様は愛しているのだよという信仰へと気づかされてゆくのです。これが、「神様に知られている信仰」です。

Paul said three stages of faith. The first stage is that we did not know God, second stage is we know God, and third stage is we are known by God. The third stage that we are known by God is very powerful stage of faith, because even if we had sinned and we are imperfect and weak, God himself loves us and never abandon us. God surely loves us in whatever state we are. We are sinner and need God’s salvation and love.

この信仰は強いですね。神様がどんなわたしをも愛していてくださっているということに気が付いたのですから。たとえ神に背を向けても、失敗しても、できなくても、不十分でも神はわたしを愛して下さり、見捨てないお方だという確信を持ったのです。私が献身の時に示された御言葉が、申命記4:31~32の御言葉です。「あなたの神、主は憐れみ深い神であり、あなたを見捨てることも滅ぼすことも、あなたの先祖に誓われた契約を忘れることもないからである。あなたに先立つ遠い昔、神が地上に人間を創造された最初の時代にさかのぼり、また天の果てから地まで尋ねてみるがよい。これほど大いなることがかつて起こったであろうか。あるいはそのようなことを聞いたことがあろうか。」(申命記4:31~32)

自分は本当に伝道者になれるだろうか。神様はわたしをこれからも支えてくれるだろうか、そういう不安がありました。その時に、「試みにあなたの過ぎ去った日について問え。」(口語訳)と言う御言葉が示されたのです。今まで主が共にいなかった時があっただろうか?いや、どんな時にも神は共にいて下さった。あなたの人生を振り返ってみればわかることだ、だからこれからも共にいて助け導いてくださる。決して見離すことも見捨てることもないという確信に立つことができました。

皆さんもそうです。神を知ろう、何とかしようという信仰よりは、すでに皆さん方も神様に知られているではないですか。今までの人生を振り返ってみてください、神が共にいなかった時があったでしょうか。神様が知らん顔をした時があったでしょうか?ガラテヤの人々の信仰も、神に知られている信仰まで成長していたのです。

2. 弱さと伝道

そして、その彼らの信仰の成長ぶりを表しているのが13節からの御言葉です。
「知っての通り、この前のわたしは、体が弱くなったことがきっかけで、あなたがたに福音を告げ知らせました。そして、わたしの身には、あなたがたにとって試練ともなるようなことがあったのに、さげすんだり、忌み嫌ったりせず、かえって、わたしを神の使いであるかのように、また、キリスト・イエスででもあるかのように、受け入れてくれました。あなたがたが味わっていた幸福は、いったいどこへ行ってしまったのか。あなたがたのために証言しますが、あなたがたは、できることなら、自分の目をえぐり出しても私に与えようとしたのです。」(4:13~15)

パウロのガラテヤ伝道は、使徒言行録16:6によりますとこうあります。「さて、彼らはアジア州で御言葉を語ることを聖霊から禁じられたので、フリギヤ・ガラテヤ地方を通って行った。」とあります。つまり、パウロのガラテヤ伝道は本来の伝道コースではなく、途中で予定が変更させられてたまたま寄った地域だったのです。このガラテヤ書では「体が弱くなったことがきっかけで」とありますので、おそらくパウロの病気のせいでガラテヤを通ったのではないかと思います。でもそこでも不思議な神様の導きによって、伝道がなされてガラテヤ教会ができたわけです。

伝道者が病気で弱っていたにもかかわらず、人々はパウロをまるで神の使いのように思って受け入れてくれました。普通、伝道者が病気や障害を持っていると、逆にそれにつまずいてだれも信じる人が起こらないものです。この人は何か神様から罰を受けたので、こういう病気を持っているに違いないと思います。ガラテヤの人々は、そういう弱さがあったにもかかわらず、パウロを受け入れ福音も受け入れました。そして、自分たちの目も与えたいとさえ思いました。もしかしたら、パウロは目の病気だったかもしれません。それほどに、パウロのことを慕っていました。

パウロは何度も自分の病気のために祈りましたし、祈ってもらいました。でもいくら祈ってもこの病気は治りませんでした。そうしましたら、主が「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ。」(Ⅱコリント12:9)いう御声を聞きました。そこでパウロは、逆に開き直って自分の弱さを誇るようになったのです。自分の欠点と障害を隠さずに告白したのです。いやむしろその弱点を誇るようにさえなったのです。これがパウロの伝道です。十字架の言葉を誇る伝道です。

いかがですか、皆さんは自分の欠点や病気や障害を公にできますか。ふつうは必死に隠そう隠そうとするものです。でも神様の恵みと祝福はその弱さの中にこそ、表わされるのです。パウロは自分の弱さを誇り、自分の欠点を誇り、自分の障害を誇ったのです。なぜなら、そういう時にこそ自分は神の力によって強くなったのです。皆さんも自分の病気を恥ずかしく思う必要はありません。むしろその弱い所に、その不十分なところに神様の力が働くのです。その神の力によって、ガラテヤでも福音が宣べ伝えられ、多くの人々が福音を信じました。

When Paul went to the region of Galatians, he had a sick. For the reason of Paul’s illness they had to go through the region of Galatian. But Galatian people welcomed him and believed in the Gospel in spite of his illness. God’s power worked through our weakness and handicaps. So we should never ashame and hide our weakness and illness. Paul said “ I will boast all the more gladly about my weaknesses so that Christ’s power may rest on me” (ⅡCorinthians12:9)

3. わたしの子供たち

最後になりますが、このガラテヤの信徒が、まるで手のひらを返すように今度はパウロに敵対してきたのです。なぜか、それはあのエルサレムから来た偽クリスチャン、ユダヤ教まがいのクリスチャンたちの熱心な懐柔策によるものでした。彼らはバプテスマを受ければ救われるけれど、できれば割礼も受けた方がいいよとアドバイスをするようにして、ユダヤ主義をこっそりと教会に持ち込んできたのです。ガラテヤ教会は無牧でしたので、本部から来たそういう人々の教えをついなびいて受け入れてしまったのです。

そして彼らの狙いは何かといいますと、正しい信仰を教えるのではなく、自分たちユダヤ人クリスチャンを敬って欲しい、自分達が教会では上位に立ちたいという肉の思いからでした。自己中心、自分中心の伝道です。そのためにはどんな手を使ってでも、信徒を自分の味方につけようとしてきました。その熱心さは半端なものではありませんでした。そして、すっかりそのようなサタンの誘惑に陥ってしまったガラテヤの信徒は、今度はパウロに敵対し始めたのです。そしてパウロが、本当の福音はこうですと正しいことを言えば言うほど、逆に敵対してきたのです。パウロは、「今までの苦労が無駄になってしまったみたいだ。わたしはあなたがたのことで途方に暮れている。」と彼らの心変わりを見て、自分の心境を正直に書いています。

どんなにかパウロが失望落胆したことでしょう。今までの働きがまるで水の泡になったような虚しさを感じました。そして更に彼を悲しませたのは、福音の真理を語れば語るほど、ガラテアの人々が自分の敵になってしまったことでした。「真理を語ったために、あなたがたの敵となったのですか?」(16節)彼らの気持ちがすっかりユダヤ主義者たちに虜にされてしまっていたのでしょうか。愛する自分の子供から反発を食らったのです。こうなってきますと、まさに伝道者の働きは、あの預言者の働きと同じですね。神の真理を語れば語るほど、耳を背けて聞かなくなり、逆に反対して敵に回ってしまうのです。

それでも伝道者は預言の言葉を語らなければなりません。語ることが大事です。言葉にすることが大事です。まさに預言者的説教の働きです。彼はこう言っています。「わたしの子供たち、キリストがあなたがたの内に形作られるまで、わたしは、もう一度あなたがたを産もうと苦しんでいます。」(4:19)パウロは彼らを、「わたしの子供たち」と言っています。自分が霊的な産みの苦しみを通して産んだ人々です。彼はどこまでも、彼らの親なのです。いや親になろうと、パウロは決心しています。

Paul said “My dear children, for whom I am again in the pain of childbirth until Christ is formed in you.” He decided to have a pain of child birth again, because the people who brought the Jewish customs into the Galatian church separated them from Paul. Galatian Christian boasted some Jewish customs like a Jewish Christians and gradually went away from the truth of Gospel. Paul accused them and persuaded them to come back from the different Gospel even if he will be the pain of child birth to form Christ in them. Paul called them my children and loved them with God’s love.

ガッツ石松のお母さんが、自分の子供が悪さをして不良になって行ったとき、「自分は、おまえをもう一度産むことはできない。」と言ったそうです。親が子供を産むということは、本当に命がけの仕事です。苦しみ呻きながら、わが子を産みます。その子が道を外れた時に、もう一度真人間に産みかえることはできないと言ったのです。親は二度も産みの苦しみをしたいとは思いません。

でもパウロはもう一度わが子を産みなおすためには、どんな苦しみもいとわないと言っています。わたしたちの中にキリストが形造られるまでは、苦しむことをいとわないと宣言しています。キリストの体が形造られるということはどういうことでしょうか。わたしはそれは、教会の方々が自分の弱さを誇るということではないかと思っています。

自分の弱さを欠点や失敗を恥ずかしがらずに、公にするということです。よく見せる必要はありません。ユダヤ主義の人々は、何とか自分を良く見せよう良く見せようとしていました。そして自分が優位に立ちたい、教会で一目置かれたい、できれば上に立ちたい、そういう思いが教会に蔓延する時、それはもはや教会ではなくこの世の世界になってしまいます。うわべを飾る世界です。そのような欲求は、時代を超えて、昔も現代もの教会の中にも入って来ます。人間の罪のなす業です。

でもパウロは、神の力は人の弱さの中にこそ発揮されるといいました。弱いからこそ強いのです。自分を守ろう守ろうとする人は強がります。欠点を隠します。そしてそこから悪い実が次々と出てきます。教会を汚します。強がる必要も、良く見せる必要もありません。わたしたちは皆罪人なのです。わたしは富里教会の方々が、もっともっと自分の罪について口に出していいのではないでしょうか。隠す必要はないのです。自分の弱さや欠点や障害を隠す人は律法主義者です。うわべを飾る必要はありません。わたしたちが知っているイエス様は、皆どんな人でも、罪があっても失敗しても、見捨てる方ではありません。

いつも見ていて下さるお方です。お一人お一人神に見られ、すでに神に知られている存在なのです。客観的に、誰が何といおうが、神様はあなたがたを愛しているのです。もし自分は、今まで何とか自分を良く見せよう良く見せようとしてきたならば、その罪を悔い改めて初心に帰りましょう。罪をすでに赦されているのです。神に知られているのです。皆さんは神に愛されている存在です。どんな罪をも赦す、恵みの福音に立ち帰りましょう。(岡田 久)

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