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キリスト

メッセージ

2015年4月5日富里キリスト教会

「キリストの復活」
(ヨハネ20:11~18)

1.福音の核心

福音の中心は、イエス・キリストの十字架と復活の出来事です。パウロも、福音の核心は何かということを述べています。「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後12人に現われたことです。」(Ⅰコリント15:3~5)と。

イエス・キリストの福音の核心は、イエスの十字架と復活、そしてこの復活された主との出会いというこの三つです。わたしの罪のために死んでくださり、三日目に甦って今も生きておられるお方と出会うことによって、初めて主の復活の証人として、イエス・キリストの福音を宣べ伝えることが出来るのではないでしょうか。

復活の朝の墓前での出来事を見てもそうです。一番最初に墓に行ったのは、先週お話しましたが、三人のマリアでした。(マルコ16:1)そして、墓の入り口から石が取りのけてあるのを目撃したマリアは、急いで帰って行って弟子のリーダーであるペテロに知らせました。そして、ペテロともう一人の弟子が、墓に行ったところ、遺体を包んでいた亜麻布が置いてありましたが、主の遺体を見つけることは出来ませんでした。彼らは墓の中に入って、遺体を探しましたが見つからず、その後、家に帰って行きました。

その時のことを読んでみましょう。「それから、先に墓についたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた。イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。」(20:8~9)とあります。墓が空になっていた事実を見たので、主は復活したと信じたのです。空っぽの墓を見て信じたのです。これは弟子として立派なことではないかと思います。正しいことです。でも、聖書には、その後に、「イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の個所を、まだ理解していなかった。」とあります。一応復活は信じたけれども、まだ聖書からの確信がなかったということでしょうか。

つまりからの墓を見て信じるということと、聖書の御言葉からイエスが復活したということを信じるということは、別のことだったようです。確かに体が見当たらないので、イエスは復活したのだろうという信仰もあります。つまり自分の目で見て信じる信仰です。それともう一つ大事な信仰とは、聖書の復活の言葉を理解して、復活を信じるという信仰です。皆さんはどちらの信仰だと思いますか。

そして空の墓を見て信じる信仰と、聖書の御言葉を理解して信じる信仰の違いはどこかと言いますと、その人の後の行動がはっきり違ってくることです。つまり二人の弟子は、この墓を見て信じました。しかし彼らは、最後には自分の家に帰って行ったというのです。しかし、聖書の御言葉を聞いて理解し、信じた人は、仲間や他の人のところに行って「本当に主は復活しました」と復活についての証しをしていることです。つまりキリストの証人として伝道するようになったということです。これが復活の事実を信じる信仰と、聖書を理解して悟って信じる信仰との違いです。次に出て来ますマリアの場合もそうでした。

2.マリアの復活信仰

マリアも墓の中を覗き込んで、主の遺体がないことに気づき、悲しみのあまり涙を流しながらしゃがみこんでしまいました。すると、後ろから誰かが声をかけたのです。「天使たちが、『婦人よ、なぜ泣いているのか。』というと、マリアは言った。『わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのかわたしには分かりません。』こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった。イエスは言われた。『婦人よ、なぜ泣いているのか。誰を探しているのか。』マリアは、園丁だと思って言った。『あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのかを教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。』イエスが、『マリア』と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、『ラボ二』と言った。『先生』という意味である。」(20:13~16)

最初、泣いているマリアの後ろから声をかけたのは天使でした。しかし、天使が立っていることすらマリアは気が付かないほど、悲しみに打ちひしがれていました。そして、マリアは「わたしの主が取り去られました。」と言いながら、その声の方に振り向きました。するとそこにはイエス様が立っておられたのです。しかし、彼女はそれがイエスとは全く気が付きませんでした。それほど気が動転していたのでしょう。今度は、イエス様ご自身が、マリアに向かって「婦人よ、なぜ泣いているのか。誰を探しているのか。」と尋ねられました。しかし、それでもまだ彼女は気が付きません。

おそらくマリアは、イエスが納められていた墓穴を見つめながら、そこからひと時も目を離さないようにしていたに違いありません。彼女の心は墓の中にあったのです。そこにイエス様がいたはずだと。そしてマリアは、その声の主が、墓の管理人かと思ってこう言いました。「あなたがあの方をどこかに移動したのなら、その場所を教えてください。わたしが引き取りますから。」と。人間はこんなに気が付かないものでしょうか。イエス様が後ろに立っておられるのに、そしてその姿を自分の目で見たにもかかわらず、復活を信じられないのです。

ここに、見て信じる信仰と聞いて信じる信仰の違いがあるような気がします。皆さんはどちらですか。やはり今、自分の目の前に復活のイエス様が現われて下されば、確実に信じようと思っていますでしょうか。それも確かに一つの信仰です。でもそれは先ほどの二人の弟子のように、聖書の御言葉を理解して信じてはいなかったのです。いわば復活を確かめただけであって、実際に復活したイエス様と関係を持っていないということではないでしょうか。相対していないということでしょうか。人格関係と言いますか、名前を呼んだら「はい!」と答えるような関係ではなかったということではないかと思います。

復活の主を見よう、見よう、証明しようとする信仰です。復活という奇跡を科学的に確かめよう、実証しようとする限りは、本当に生けるキリストと出会っていないのではないでしょうか。二人の弟子も、空の墓を見て信じたのです。でも聖書の言葉を通して主と関係を結ぶという信仰ではなかったのです。名前を呼び合う信仰ではなかったのです。

この悲しみに打ちひしがれたマリアに対して、主はついに「マリア!」と彼女の名前を呼びました。この聞き覚えのあるやさしい主の声を聞いて、マリアはハッと気が付きました。そして後ろを振り返って、「ラボ二!」と言いました。「ラビ」はヘブライ語で先生という言葉ですが、それに「私の」という接尾語「二」がついて、「ラボニ(私の先生)」と叫んだのでした。どんなにかマリアが驚いたのかが分かります。

つまり、マリアの何が変わったのかと言いますと、今までマリアは主の身体を一生懸命探していました。それは物理的、科学的、医学的に自分の手に触れて触ってみなければ信じないという実証的な信仰です。でもイエス様は、そういう仕方でわたしたちには出会っては下さらないのです。科学的に実証されるような仕方では、真にイエス様と出会ったということにはなりません。先ほどの弟子のように、空の墓という事実を見て信じただけです。しかし、また本当の意味での復活信仰には至っていませんでした。つまり、聖書の御言葉を理解し、悟るという点で信じていなかったのです。

信仰というのは、目で見て確かめて信じるのではなく、どこまでも聞いて信じる、イエスの呼びかけに答えるという関係の中に起こるのです。わたしたちが「イエス様!」「天のお父様!」と呼びかける、そしてイエス様が「久よ」と呼びかける関係です。ですからイエス様は、真正面から突然現われたのではなく、わざわざマリアの後ろから、後ろに立って言葉で声をかけられたのです。つまり、マリアの目から見られるというのではなく、御言葉を通してマリアの耳から入ることによって、出会おうとされたのです。

主はマリアに対して、「マリアよ」と呼びかけておられるのです。マリアの背後からマリアに声をかけられた時の、このイエス様の言葉に込められた思いはどんなだったでしょうか。悲しみの果てに、泣きじゃくっているわが子をなだめるようなお母さんの声ではなかったでしょうか。憐れみと愛の眼差しを持って、優しく呼びかけられたのではないでしょうか。「マリアよ、こっちを向きなさい。わたしは生きている。安心しなさい。」と言っているような気がします。

つまり自分に向けられた神の言葉を理解し悟るということは、この聖書の御言葉を通して主にまっすぐに向き合うということです。そして、自分に問いかけられている神の御言葉に対して、応答すること、これが真の信仰ではないでしょうか。わたしたちの目も心も体も、全身全霊を持って完全に主に向き直り、主の御言葉に耳を傾けてこれに聞き従うことを、主が一番望まれていたのではないでしょうか。

この新共同訳聖書では、マリアが「振り向いた」と同じ言葉を使っていますが、口語訳聖書では前の14節の方は「振り向く」で、後の16節は「振り返る」と別な言葉を使っています。英語の聖書でも前は「turn around」ですが、後者は「turn toward」となっています。つまり、気が付かない時というのは、体をこの世の方に向けながら、顔だけを振り返っている状態では、完全に主に向き直っているということにはなっていません。そうではなく、体も手も足も全て主イエス・キリストに向き直ることです。

主は今もお一人お一人に、名前を呼んで語りかけておられます。この主の御言葉、すなわち聖書の御言葉にチャンと向き直って応答することです。これが復活信仰ではないでしょうか。御言葉を理解し、御言葉から復活を信じる信仰です。

3.名を呼ばれる主

他にも、神様から名前を呼ばれた人がいます。あの幼子サムエルも主から声をかけられました。「サムエルよ、サムエルよ」と。幼子サムエルは、その時「主よ、お話し下さい。僕は聞いております。」と答えました。主に呼ばれた時、サムエルは幼いながらも夜起きて、主の前に座って応答しました。(サムエル記上3:10)また新約聖書にも、「ザアカイ、急いで降りて来なさい。」と名前を呼ばれた人がいます。彼は直ちに木から降りて来て、イエス様を自分の家に迎え入れ、主を信じるようになりました。(ルカ19:5)

またあの伝道者パウロも、クリスチャンを迫害していた最中に主に出会いました。主はパウロのあまりにも傍若無人な態度に「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか。」と呼びかけました。そして彼の目をつぶして、一切が見えなくなるようにしたのです。これからは目で確かめる信仰ではなく、御言葉を聞いて悟る信仰へと変えて下さったのです。それは聖霊様の働きによるものです。パウロは、自分の目が見なくなることによって、初めて神の御言葉を理解することが出来ました。そして、新しい霊的な目が与えられました。

わたしは、「マリアよ」と呼びかけた主の御言葉の中に、神様の大きな愛と憐れみを見ることが出来ような気がします。名前を呼ぶということは、その人の生みの親としての思いが伝わってくるような気がします。なきじゃくっているわが子に、やさしく声をかける母親のような呼びかけです。愛の言葉です。しかもただ単に愛しているというだけではなく、あなたのために自分の命をも与えるほどの思いがこもっているのではないでしょうか。実際、イエス様はマリアのためにも、ご自身の尊い命を献げて下さいました。名を呼ぶというのは、そういう思いのこもったものです。

イザヤ書43:1にこういう素晴らしい言葉があります。「イスラエルよ、あなたを造られた主は、今、こう言われる。畏れるな、わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ。・・・わたしの目にあなたは値高く、貴く、わたしはあなたを愛し、あなたの身代わりとして人を与え、国々をあなたの魂の代わりとする。」(イザヤ43:1b、4)

主が名前を呼ばれるということは、神様が私たちの生みの親であるであるということです。本当の意味での霊的な生みの親だということです。肉の親はせいぜい18歳までしか養いませんが、霊の親は、御言葉によってわたしたちを生んでくださり、御言葉を持って今も養っていて下さり、これからも年をとってからも永遠に持ち運んで下さるお方です。そして何よりも、御自分の命を与えるほどに、わたしたちを愛して下さったお方です。そして、何よりも私たち一人一人をかけがえのない、貴いものとしてあるがままで愛して下さるお方なのです。これが、わたしたちの名前を呼んで下さる主なる神様です。

4.遣わされる主

そして何よりも復活の主と出会った人は、復活の主の証人となるのです。これが先ほどの二人の弟子達と違うところです。二人の弟子は、空の墓を信じて自分の家に帰って行きました。しかし、彼らはまだ聖書の言葉を理解していませんでした。しかし、マリアは、実際に復活の主とお会いした時に、主と相対して会話をし、語り合ったのです。このように、主は復活して一人一人と御言葉を通して語られるのです。生きて働くということは、日々の生活の中で、実際の日常生活の中で、聖書の御言葉と共に歩むことです。

主はマリアに対して、「わたしは、これからわたしの父である神のもとに上る。」(20:17)と、弟子たちに告げなさいと命じました。マリアは言われたとおりに、弟子たちのところに行って「わたしは、主を見た」と言いました。するとその日の夕方に、弟子たちのいる所に、復活の主が現われて下さったのです。

このようにして復活の主と出会った人は、仲間のところに行って主の御言葉を宣べ伝え、彼らを励まし、主の十字架と復活を人々に告げ知らせる者となりました。マリアこそ、最初の日曜礼拝の宣教者となったのです。そして誰でも復活の主を証し、宣べ伝える所に復活の主が現われて下さるのです。その日の夕方に、みんなが集まっているところに主が現われて下さいました。

これがわたしたちが、毎週日曜日に守っている主日礼拝の始まりなのです。復活の主が、日曜日ごとの礼拝の中に現われて、御言葉を語って下さいます。そして、わたしたちに息を吹きかけて聖霊を与え、わたしたちを復活の証人としてここから一週間の宣教の場に遣されるのです。こうして、日曜日ごとに主を礼拝し、主の御言葉の中に復活の主が現れて、上から聖霊の力を与え、また一週間の宣教の働きに遣わして下さるのです。それが今日2015年間、延々と続けられてきました。毎週、毎週、日曜日の朝「今日、主は甦られた。」と言って喜び祝いつつ、主が再び来られるときまで主を礼拝して行くのです。

わたしたちは今日も、主を礼拝するために集まってまいりました。主は甦って今も生きておられます。主は十字架の上で、罪と死と悪魔に勝利されました。死人の中から復活された勝利の主を、心から賛美し、御名を崇めましょう。そして、上からの御言葉と御霊の力に満たされて、新しい力を与えられ、ここからまたそれぞれの一週間の宣教の場へと出かけて行きましょう。今月はこの復活の主を、喜びを持って一人一人に語り伝える月にしましょう。

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