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カインとアベル (創世記4:1~12)

メッセージ

2011年5月22日富里キリスト教会
カインとアベル
(創世記4:1~12)
1.二つの献げ物

創世記4章1節からを読んでみましょう。
「さて、アダムは妻エバを知った。彼女は身ごもってカインを産み、『わたしは主によって男子を得た』と言った。彼女はまたその弟アベルを産んだ。アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった。時を経て、カインは土の実りを主のもとに献げ物として持って来た。アベルは羊の群れの中から肥えた初子を持って来た。主はアベルとその献げ物に目を留められたが、カインとその献げ物には目を留められなかった。カインは激しく怒って顔を伏せた。」(創世記4:1~5)

弟アベルは、自分はあのアダムの息子であり、まぎれもなく父の罪の血をひいた罪人であることを自覚していたのではないでしょうか。ヘブライ書11:4にこうあります。「信仰によって、アベルはカインより優れたいけにえを神に献げ、その信仰によって、正しい者であると証明されました。神が彼の献げ物を認められたからです。アベルは死にましたが、信仰によってまだ語っています。」と。

ですから、アベルは、羊を飼う者でしたから当たり前のようですが、神に礼拝を献げるためのふさわしい供え物として、群れの中で最上の羊の初子を選んで献げたのです。子羊の血が流され、祭壇に供えられました。彼は自分の罪の告白と悔い改めをもって礼拝を献げたのです。ここにアベルの信仰がありました。このような献げ物を、神様は目に留められ、喜んで受け入れられました。

一方、カインも土の実りを持って来て献げました。(土の実りとは、作物の他にも自然に取れる木の実のことか?)しかし、そこには動物の血が流されず、罪の悔い改めと言う供え物はなかったのです。どんなに立派な供え物でも、そこに罪の悔い改めという要素がないならば、それは献げ物の大きさを競う人間の傲慢以外の何者でもありません。ですから、神はカインの献げ物を退けられました。

神が自分の献げ物に目を留められず、アベルの方を目に留められたので、カインの心は怒りに燃えました。聖書には「激しく怒って顔を伏せた」とありますから、いかにカインが神に対して怒ったかが分かります。兄カインは、なぜ神が自分の供え物を顧みられなかったかが、分かりませんでした。ただ、恥をかかされた、神に無視された、プライドが傷ついた、神は不公平だと言わんばかりに自分のほうから顔を伏せてしまったのです。顔を伏せるというのは、自分から神との交わりを断つということです。

カインの献げ物には、罪の告白と悔い改めがありませんでした。彼の目は神に向くことなく、顔を伏せ、隣りの競争相手の弟アベルの方にばかり向いていました。そして、いつかはこの恥をかかされた思いを復讐してやろうと考えていたのです。罪というのは、神から目が離れて、隣を見ることです。そして、比べることです。自分の方が優っていれば、有頂天になり、自分の方が劣っていれば、自分を責め、見せかけの物でその欠けを隠そうとすることです。ある人は、自分を責めて、自分を否定してしまい自殺する人もいることでしょう。またある人は、逆に攻撃を仕掛けてきます。兄カインは、か弱い年下の弟アベルに攻撃をして、亡き者にしようとしました。

2.罪を支配する

罪の原語は、ヘブライ語で「ハタート」と言いますが、これは「的を外す」という動詞「ハーター」に由来した言葉です。(新約のギリシャ語も罪を「的外れ」という言葉に語源を持つハマルティアを用いています。)つまり、罪と言うのは、神様に心も顔も向けていない、向きがずれているということです。あのアーチェリーの選手が、全身全霊をもって、遠くの的をめがけて矢を射るようなものです。わずかでも、手元が狂えば、射る角度がずれて的に命中しません。ですから選手は、全身全霊を込めて真っ直ぐに射ることに専念します。(BSのアンテナもそうです。1度方角が狂ってもBSテレビは映りません。)

私たちも、心の方向も目の方向も前の方に向け、的である神様にまっすぐに向き合わなければなりません。たとえ、恥ずかしくても、神に顔を向ける時、神様がその恥を覆ってくれます。皮の衣を与えて下さいます。「アダムよ、どこにいるのか。カインよ、どこにいるのか。」と呼びかける神の声の方に、真っ直ぐ顔を向けることです。神様が、必ず仲介者であるイエス・キリストを立てて、神の愛と肯定(そのままでいいんだよ)を持って迎えてくださいます。

では、兄カインはどうしたのでしょうか。6節から読んでみましょう。
「主はカインに言われた。『どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない。』」
(創世記4:6~7)

神様は、カインに対して「お前はそれを支配せねばならない。」と言いました。罪は私たちを慕い求めて、しつこく追いかけて来ます。なかなか簡単に手を引きません。あの手この手と、手を変え品を変えて近寄ってきます。自分ではできませんが、私たちが神様に祈る時、神様が御言葉と聖霊様を通して、私たちを罪に勝利させて下さいます。「霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい。どのような時にも、“霊”に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい。」(エフェソ6:17~18)とあります。祈りと御言葉が、罪を支配し、罪の誘惑に勝たせて下さいます。

人生には二つの道があります。それは祝福と呪いの道です。祝福は、「兄カインが、神に向って祈る時」(祈り+兄=祝)、それは「祝福」の道へとつながります。また、「兄カインが自分の口で言葉を発する時」(口+兄=呪)、それは「呪い」の道へとつながります。カインの罪は私たちの心の中にも生きています。私たちもカインの末裔です。でも、私たちが神に向って目を注ぎ、御言葉に立って祈る時、それは祝福の道へとつながります。神様は、私たちにも「お前は罪を支配せねばならない。」と命じておられます。これは私たちが罪に勝利し、罪をコントロールすることが出来ると言うことです。

3.血の叫び

最後の箇所を読んでみましょう。「カインが弟アベルに言葉をかけ、二人が野原に着いたとき、カインは弟アベルを襲って殺した。主はカインに言われた。『お前の弟アベルは、どこにいるのか。』カインは答えた。『知りません。私は弟の番人でしょうか。』主は言われた。『何ということをしたのか。お前の弟の血が土の中からわたしに向って叫んでいる。今、お前は呪われるものとなった。お前が流した弟の血を、口を開けて飲み込んだ土よりもなお、呪われる。土を耕しても、土はもはやお前のために作物を産み出すことはない。お前は地上をさまよい、さすらう者となる。』」(4:8~12)

アベルはもともと体が弱かったのでしょう。(カインは「獲得する」の意、アベルは「息」の意味で、人の空しさ、はかなさを意味している。)兄カインの手にかかって殺されてしまいました。それでも神は、カインに向って「弟アベルはどこにいるのか。」と呼びかけています。カインが自分の罪を、神様の前に告白して悔い改めるのを待っておられるのです。アダムの息子であり、アダムが自分の罪を認めなかったように、カインもまた自分の罪を隠し、知らないとしらを切りました。でも、弟アベルの血が地面に流され、弟の血が土の中から叫んでいるのです。その声は、神様に届いています。

さて、それでは殺されたアベルの血は、地面から何と叫んでいるでしょうか。「神様、兄カインの恨みを晴らして下さい。罪のない者を手にかけた悪人に神の裁きを下して下さい。」と叫んでいるでしょうか。実は、アベルは来るべき神の子イエス・キリストの贖いの恵みをあらかじめ予告していたのではないかと思います。イエス・キリストは、十字架の上で大声で叫ばれました。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか!」(マルコ15:34)そして、ご自分をあざけり、殺そうとしている人々のためにとりなしの祈りを献げたのです。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」(ルカ23:34)と

私は、アベルも、あの地面の中から、神様に向って、「神様、私のお兄さんを赦して下さい。兄は自分が神様に愛されていることを知らずにいるのです。」と、叫んでいるような気がしてなりません。地面からの血の叫びは、復讐と恨みの叫び声ではなく、愛の赦しととりなしの叫び声ではなかったでしょう。それはあの十字架の上で、「父よ彼を赦したまえ!」と叫ばれた主の叫び声と軌を一にするものでした。

私たちは、誰でもあのカインの子孫です。生まれながら罪をもって生まれました。それは、神に造られ、神に愛され、神の祝福と恵みの中にいながら、神から離れて生きて来たということです。でも神様は、必ず神と私たちとの間の仲介者を立てて、帰る道を供えて待っておられます。それが、神への道であり、私たちと神との唯一の仲介者である方、イエス・キリスト様です。神の子羊、贖い主なるお方です。神様は今も、私たち一人一人の名前を呼んで待っておられます。どうか、この神様の愛の声に顔を向け、さすらいの人生に終わりを告げ、自分の本来いるべき神のもとへと帰りましょう。     (岡田 久)

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